10/11/30 21:37:31 MwlmPOL1
>>814
なるほど、確かに首を返すシーンでアザにうろたえるサンは動じないアシタカを見て覚悟を決めた。
あのシーンは二人の結びつきを印象付けるシーンだった。(あそこで愛を自覚したとまで言い切れるかは分からないけど)
そのあと(だったと思うけど)アシタカがサンの腰を強く抱き、サンもそれを受け入れてるシーンも加えると、よりあのシーンの意味が理解できる。
アザそのものの意味合いはよく分からないけど、命を与えも奪いもする理解不能な存在だから、っていうので良いのかな。
それと、もしかしたらアシタカがシシガミを初めて見るシーン(26分付近)の直前に出てくるシシガミの足跡に蝶が集まっているっていうのも、何かの暗示なのかも。
ただ、シシガミが理解不能の存在として描くのなら、「アシタカとサンに免じてアザを直した」っていうのは違うと思うな。
アシタカは劇中、「苦しみ生きろ」、「私に生きろと言ってくれた」と言ってるけど、2回ともアザを確認してからの台詞だから、
俺はアレはアシタカがアザが残っている、消えているというのをみてシシガミの意思を自分で想像しての言葉だと思う。
ただ、シシガミが助けてやろうと思ってたとする方が、森の再生や病人が直ったりする展開に筋が通るんだよな……
でも、俺はシシガミは理解不能の存在として首尾一貫してた方が良いと思うんだ。
あと、俺はシシガミが死ぬっていうのは神聖性の否定だと思ってるんだよね。
人間も森野動物もシシガミの前には生殺与奪思うがままで、両者の違いを否定する。
そして、そのシシガミも死ぬ。
ギリシア悲劇って主人公の英雄は必ず死ぬんだけど、あれは生の賛歌のためには必要なことなんだよね。
英雄ってのは新しい生命の生みの親なんだけど、同時に新しい生命が生きていくには邪魔な存在でもあるのよ。
だから、死すべき古き王を死に至らしめることが、新しい生命の希望を暗示させることにつながる。(まあ、他にも主人公が死ぬ必要がある理由はあるんだが)
この映画でシシガミが死ぬっていう展開はそういうのを意図したんじゃないのかと思うんだわ。
古き神は死に、その神聖性は否定され、モロも乙事主も死んたけれども、アシタカもサンもタタラ場の人間も生きているし、コダマも生きてるし、緑もある。
あのラストに希望があるためには、シシガミは死ぬ必要があったと思うんだわ。