10/11/30 00:17:03 3Jilt1UX
シシ神は「命を奪いもし、与えもする」理解不能なもの、でいいのでは?
コケを枯らし、サンが差した枝も枯らす、こともある。
タタリ神にならずとも、同じ要素を発揮することもある。あるいは、
タタリ神になったのだが、毛穴からにょろが出るような形でそれを
体現はしなかった。
アシタカ側の伏線としては、「曇りなきまなこ」「傷は治してもあざは
消してはくれなかった」という微妙な恨みが残るのにもかかわらず、
(曇りなきまなこで観定めた)正義・大儀(とアシタカが限定的な自覚の上で
思った)のために「人間の手で返したい」があり、あざが増えるのは気に
しない・・・を表す。
サンはぎゅうされて頼まれて付き合っていただけで、あざに一瞬ぎょっと
するが、アシタカが判っていて動じないのを見て、アシタカの覚悟のほどを
知り、愛を自覚し、シシ神さまへの献身の有り様を再確認する。好きだけど
人の村で一緒に暮らすことはできない、という判断に繋がる。
「私は、今は、(アシタカが何もかもを許したようには) 人間を許すことは
できない」だから。
アシタカは増えるあざを気にとめなかったのと同様に、サンの、自分の
限界の告白をも受け入れ、「それでいい~」と続く。
ややマクロには、アシタカとサンの二人が、「命を吸い取られるぞ」な
どろどろよりもっと濃く、死んで当然の黄色いどろどろの中で
死=ケガレを乗り越えたことが(つかシシ神が、ふたりの捨身に免じて
ふたりを許してくれたこと、およびその許しによってシシ神自身の再生が
より大きな何かによって許されたこと)が、「シシ神は花咲じじいだった
んだ」に繋がる。
作品中の一断面にしかすぎないが、恨みや憎しみを再生産するのではなく、
受け入れ、許容すること、しかも死を覚悟の上で・・・と私は
感じています。