J( '-`)しat NEWS4VIP
J( '-`)し - 暇つぶし2ch838:アイス
10/03/28 17:19:15.52 bwbXPWs00
中三の頃、母が死んだ
俺が殺したも同然だった・・・

あの日、俺が楽しみにとってあったアイスクリームを、母が弟に食べさせてしまった
学校から帰り、冷凍庫を開け、アイスを探したが見つからなかった
母親に問い詰めると、弟が欲しがったのであげたと言った
その時楽しみにしていた俺は、すごく怒った
母親に怒鳴り散らし、最後に「死ね!」と叫び、夕飯も食べずに部屋に篭った
それから何時間か経った
俺は寝てしまっていたようだ、が、父親が部屋に飛び込んできたので目が覚めた
「母さんが轢かれた・・・!」
あの時の親父の顔と言葉を、俺は一生忘れないだろう
俺達が病院に着いたとき、母親はどうしようもない状態だと言われた
医者は最後に傍にいてあげてくださいと言い、部屋を出た
それから少しして、母親は息を引き取った
その後、母親があの時間に外にいた事を父から聞いた
買い物に行くと言って出て行き、その帰りに車に轢かれた事
現場のビニール袋の中には、アイスが一つだけ入っていた事
救急車の中でずっとごめんねと呟いていた事
その時、俺のために母はアイスを買いに行って事故にあったとわかった

通夜と葬式の間中、俺はずっと泣いた
そして、今でもこの時期になると自然に涙が出てくることもある
母さん、ごめんな
俺が最後に死ねなんて言わなかったらと、今でも悔やみ続けている



839:真相
10/03/28 17:22:12.96 5QN3FIgZ0
先日、二十歳になった日の出来事です。
「一日でいいからうちに帰って来い」
東京に住む父にそういわれ、私は就職活動中なのにと思いながらしぶしぶ帰りました。
実家に着いたのは夜で、祖父母と妹はもう既に寝静まっていました。
父だけが起きていて、そのあとしばらく現状を話していたのですが、会話もとぎれ、さぁ寝ようという時、
いきなり父は一枚の写真を私の前に差し出しました。それは、父が若いころの写真。隣には綺麗な女の人が写ってる。
「お前と**(妹の名前)を産んでくれた母さんだ」
父はそういって、初めて本当のことを話してくれました。
母はあまり体が強い人ではなかったそうです。私を産むのですらやっとで、未熟児だった私よりずっと後に退院したこと。
妹が出来たとき家族中の反対を押し切って産むと決めたこと。
生まれたばかりの妹と、私を抱いて死んだこと。私達姉妹の名前は母さんの名前から取ったこと。
母さんが寂しくないようにと、私達の写真や父さんとの昔の思い出の写真を、全て棺に入れたこと。
だけどそれでは悲しくて、一枚だけ取っておいたこと。
セブンスターをいつものようにふかしながら、父はいつもより歳をとって見えました。
「お前達にお母さんがいなくて寂しい思いをさせたこと。コレが一番お前達に申し訳ないと思っている。すまなかった!」
父さんはそういって、私に泣きながら土下座をしました。写真の中の父と母の笑顔が、とてつもなく切なかった。
母がいない分、祖父と祖母に育ててもらうのが多くて、それが当たり前だと思っていたから寂しくなんて無かったのに。
土下座している父と一緒に、私も泣いてしまいました。
父は私達が二十歳(大人)になるまで、このことをずっと一人で抱えていたのだろうか。
そう思ったら、あまり体の大きくない父の背中が、切ないくらい大きく見えた。
母以外の女性に見向きもしない父を、誇らしいと思った。
お母さんがいないということ。だからお母さんの分まで愛情を注いでくれたこと。今ならすごくよく分かります。
お父さん。
ありがとう。
お母さん。
産んでくれてありがとう。
就職活動、頑張ります。

840:リンゴ
10/03/28 17:25:59.14 bwbXPWs00
:癒されたい名無しさん:2009/02/28(土) 16:44:18 ID:DwE7hn3Y

私は、2歳のとき父を亡くし、以来、私をひとりで育ててくれた母も私が中学二年生の時
突然の心臓病でなくなりました。その日のことです。
 近所のスーパーに勤めていた母ですが、学校から帰ると
勤めを早退した母は床に臥していました。

「お母さん、どうしたの?」と聞くと
「心配しないでもいいよ、ちょっと風邪をこじらせただけだから」とか細い声で答えました。
 昨日からなにも食べてない様子だったので「なにか買ってこようか」と聞くと
「おまえも今、期末試験中で大変なのに、いいの?」
「もしよかったらリンゴが食べたい」
「じゃあ、すぐ買ってくる」
 リンゴを買って家に着いたとき、母はもう死んでいました。

 枕元に、ほんのわずかな時間に、苦しみながら書いた母の言葉の走り書きがありました。

「哲、ひとりになってもお母さんお父さんはいつもおまえを守っているよ ありがとう」
とありました。

 私は、それ以来リンゴを見ることもむろん食べることもできなくなりました。
 あれから九度目の桜を見る季節がもうすぐやってきます。
 私にとっての桜の季節は、ただリンゴをにぎりしめながら泣きつづけた日々の思い出なのです。



841:母の気づかい
10/03/28 17:27:48.05 5QN3FIgZ0
高校生1年になってすぐ母が肺がんで入院した。

親父と相談の結果、告知はしなかった。
夏が過ぎ、秋が過ぎ、病気の劇的な進行とともに
母ももうこの病気は治らないことに気づき始めた、と思う。

そして年末、危篤状態になった。
でも12月30日、意識を取り戻した。

母:今日は何月何日?
俺:12月30日だよ。
母:そうかい、ウチはねぇ、この町で3代愛されてきた八百屋だよ。
俺:うん、そうだね。
母:だからね、町の人に迷惑かけちゃいけないんだ。
俺:どういう意味だい?
母:せめて「さんがにち」が明けるまで、不幸は出しちゃいけない。
  あたしなんかのためにみんなに正月早々やな思いをさせちゃいけない。

そう言ったきり、母は年が明けて1月4日の明け方まで眠り続け、そして旅立って行きました。
我ながらすげぇ母親を持ったもんだと、誇らしかった。
やっぱね、もう、だめぽ、と思った時には母のことを思い出します。
そうすると、まぁ、なんとかなる、うん。

842:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:28:56.84 bwbXPWs00
長いけど実話です。

ちょっとした事で母とケンカした。

3月に高校を卒業し、晴れて4月から専門学生となる私は、
一人暮らしになる不安からかここ最近ずっとピリピリしていた。
「そんなんで本当に一人暮らしなんて出来るの?あんたいっつも寝てばっかで‥
ゴミ出す曜日は確認した?朝は起きられるの?火事だけには気をつけてよね?」
事あるごとに聞かされる母の言葉にうんざりして、
ついに今日
「あぁー!もぉーうるさいなあ!!自分で決めたことなんだから大丈夫だって!!わざわざ不安を煽るような事は言わないでよ!!
すこしは私の気持ちも考えて!最初っから上手くいくわけないでしょお!?自分の娘ならちょっとくらい応援してくれたっていいじゃん!!!」

と自分でもビックリするぐらい大声で母に怒鳴ってしまった。
はっとして
「やばい!怒られる」と思ったが母は何も言わず、悲しいような怒っているようなどこか複雑な顔をしてそのまま車に乗って行ってしまった。

いつもと違う母の様子に少し戸惑ったが、特に止めもせず、イライラしながらもテレビや携帯を見て一人で適当に時間を潰した。

夕方をすぎても夜になっても母は帰って来なかった。遅い。遅すぎる。
まさか事故にでもあったのか‥?冗談じゃない。それだったら病院から電話があるはず‥
なんて考えていたら外で母の車のエンジンの音が聞こえた。

「ただいまー。」

いつも通りの母の声にほっとした反面、なんでこんな帰りが遅いのか問いただそうとした瞬間、
目の前にやたらと大きな薬局の袋が置かれた。


843:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:29:37.92 bwbXPWs00
「何これ?」と母に聞くと、

重たそうなその袋を見ながら
「あんたの薬。一人暮らしするとき薬がなかったら大変でしょう。とりあえず一通りあったもの買ってきたから。あんたはすぐ体調崩すからねぇ。」

頭痛薬、咳止め、湿布や包帯、口内炎の薬、のど飴など袋の中にはありとあらゆる種類の薬が入っていた。

「こんなにたくさん‥」驚いてもうそれしか言えなかった。こんな時間まで私のために母は‥

「一人暮らしかぁー。見送ってやらなきゃいけないのにねぇ。お母さん心配でね、すごく寂しいのよ。
風邪引いた時とか本当はお母さんがそばにいてあげたいんだけどねぇ。」

もうそれ聞いて涙が溢れて溢れて、自分の不甲斐なさと母への申し訳なさで顔あげられなかった。薬だって決して安いもんじゃないのに。
自分の娘を応援しない母親なんて居るはずないのに、なんで気づいてあげられなかったんだろう。もっと応援しろだなんて‥
一番私のことを思ってくれて支えてくれたのは他でもなくお母さんなんだよね。
分からず屋でゴメン。いつもいつもいつもいつもありがとう。

その後、遅めの晩御飯を母と一緒に食べました。
残り少ない母の味をもっと大切にして行こうと思います。

読み辛い長文失礼致しました。


844:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:32:44.68 bwbXPWs00
私は去年、大学入学と共に上京し現在も一人暮らしをしています。
親の大反対のもとの一人暮らしでした。

うちの母はとにかく元気で、よく笑い、よく泣く人です。
一人暮らしを始めてから、毎日のように母はくだらない理由をつけては私に電話してきました。
「ちゃんとご飯食べてるの?」
「電気つけっぱなしで寝てない?」
「ちゃんと暖かくして寝てる?」
「事故には気をつけてね」
母からの電話の最後にはいつもこんなありきたりな言葉を言われ
耳タコだった私は、その言葉も母からの電話さえ煩わしく感じていました。
だから、母との電話ではいつもダルそうに、素っ気無く応対していると
「どうしたの?元気ないね。」
「何か嫌なことあった?」
と、母は毎度聞いてきました。
母が心配しているのは分かっていたつもりですが、返答するのも面倒に感じ、そう思う自分に対してまたイライラしていました。


そのうち大学生活に追われ、忙しくも充実した日々を送っていた私は、口うるさい母からの電話を無視するようになり時々しか出なくなりました。
6月に入った頃からか母からの電話の回数が減りました。
やっと、子離れできたか。
私は呑気にそんな風に捉えていました。
また、たまにかける自分から母への電話が繋がらなくなり、一方的に時々、決まった時間に母からの電話がくるようになりました。
今、思えば明らかにおかしいのに、特に母に変わった所が無いので当時の私は何の疑問にも持たず、ただ日々を過ごしていました。


6月の末にお金のことで母に連絡が取りたいのに、相変わらず母への電話は繋がらずしかも母からの電話も一切来ない日が続きました。



845:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:33:32.09 bwbXPWs00
7月に入り、翌日の試験の勉強に必死になっていると、また同じ時間に母からの電話がかかってきました。
試験期間中で余計にピリピリしていた私は、イライラを前面に出して電話に出ました。
母はいつも通りへらへらとしていて、それがまた私の感にさわりました。
「何でこの前連絡つかなかったのよ!すごく困ったんだから。」
いつもよりも口調を強くして母に言いました。

「あー・・・ごめんねぇ・・・」
そう一言謝ると、母は黙ってしまいました。
少し置いてから、ひっ・・・ひっ・・・と母がしゃくりあげる声が聞こえてきました。
「は?どうしたの?」としか言えない私に母は告げました。
「・・・おかーさん・・・、ガンなんだってぇ・・・」
突然のことに目眩がしました。
お腹のあまりの痛さに病院に行き、検査やら何やらで忙しかったこと。
そして、子宮ガンだと分かったこと。
手術準備の為に色々忙しくて、連絡できなかったこと。
そして、何より私に心配をかけたくなかったこと。
でも、明日が手術で自分が死んじゃったら・・・と思うと怖くて怖くて、私に思わず電話をかけてしまったこと。
最近の母の行動を思い返し、何も気づかずにいた自分に無性に腹が立ちました。
その夜は勉強も手につかず、ずっと泣いてしまいました。
急に母がいなくなってしまうかもしれないと考えると、怖くて仕方ありませんでした。


翌日、試験のことなど頭になく私は朝1番の電車で母の入院している病院に向かいました。
母は病室でお隣のベットの方と楽しそうにお喋りしていました。
病室のドアの所でたたずむ私を見つけた母のあの時のマヌケ顔は一生忘れません。
そして、「何であんたがここにいるのよぉー試験はどうしたのよぉー」と顔をしわくちゃにして泣き出してしまいました。
私も化粧が落ちるのも忘れて、「母親が手術だってのに、試験を普通に受けられる娘がいるかぁー」と言うと、余計に泣いて二人で一緒に泣きました。



846:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:34:25.82 bwbXPWs00


手術室へ運ばれる母を見送り、私は母のベットの脇に置いてあったノートを見つけました。
中には、入院してからの母の日記が綴られていました。
自分がガンで何よりも不安だったはずなのに、その日記には自分のことよりも娘を心配する文章の方が多かったのです。
それを読みながら、母の深い私への愛情にまた泣きました。

手術は成功し、幸いガンも良性だと判明し抗がん剤を打たずに済みました。
しばらく動けなかった母も今では元気に日常生活を送っています。
そして、最低でも1週間に1度は私から母に電話をかけるようにして、定期的に実家に帰るようにしています。



どうか、親の愛情を当たり前だと思わないでください。
いつだって親は子供のことを心配しています。
そして、子には心配をかけたくないと思っています。
何か少しでも様子が違うようなら、聞いてあげてください。

長文失礼しました。

847:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:40:23.17 68ms7MW30
おいモニター歪んでるどうしてくれんだよ…

848:妹
10/03/28 17:41:47.20 5QN3FIgZ0
3日前妹が死んだ。22歳だった。
交通事故だったけど、妹は悪くなかった。ただ相手の不注意と、不運が重なった。
それだけのことであっけなく死んだ。即死だった。
連絡を受けて飛行機に飛び乗り、病院に着くまでは信じられなかった。
でも妹は死んでいた。
家族と親戚と友達と、来年の春に結婚するはずだった彼氏が病室にいた。
両親は妹に取りすがって泣き崩れ、彼氏は床に崩れ落ちていた。
事故の相手は若い主婦で、旦那と一緒に床に頭をこすり付けて土下座して、号泣しながら謝ってきた。
彼氏が殴りかかろうとしたのを、俺が止めた。
母親は顔も上げられず、父親が相手をにらみつけて震える声で
「金なんていらない。娘をかえしてくれ」
と言った。

なあ、ひかり。
今からでもいい、戻ってきてやれよ。
もう一度、父さんと母さんの娘になってやれ。
どれだけお前を可愛がっていたか、知ってるだろ?
それにもう一度、彼氏の恋人になってやれ。
あんなにお前を愛してくれる男なんて他にはいないぞ。
それからもう一度、
俺の妹になってくれないか?
俺の妹は、生涯お前一人だ。
ひかり、早すぎたんだよ。帰ってきてくれ。どうすればいいのかわからない。

849:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 17:44:49.22 bwbXPWs00
私の母はガンで死んだ。

発見した時はわたしがまだ母のおなかの中にいる時だった。
初期ガンだったため、ちゃんと治療すれば簡単に治るはずだった。
だが、治療するためには私をおろさなければならなかった。
母は私を産むことを優先した。
胎児に悪いからと抗がん剤も治療らしき物は何もしなかったらしい。
その事実を知ったのは小学4年生の時だった。
その頃にはもう母は寝たきりの状態になり、入退院を繰り返していた。
小さいながらも看病していた私は、くだらない事で母と喧嘩した。
その時、母も極限の精神状態だった為に「あなたを産んだから私はこんなになったのよ!!」と私に言った。
私はその言葉が心に刺さった。
母に存在を否定されたから?違う。
自分が母の命を奪う原因を作ってしまったのだと知ったからだ。
私は母に涙を流しながら謝った。
「ごめんなさい、ごめんなさい、わたしいなくなるから。だからお母さん治って」
私の言葉に母は涙で顔をくしゃくしゃにしながら大声で謝りながら私を抱きしめた。
二人でひたすら謝り続けた。
そこで私の記憶が途切れた。

私が中学3年の時、余命2年と言われた私の母はまだ生きていた。
だが母はもう一人では立ち上がれず、トイレも私が連れて行かなければならないほどに悪化していた。
母が入院した。
足を折ったのだ。
私が学校の間、家には誰もいなかったときにトイレに行こうと頑張った時に足を滑らせたらしい。
母の足は骨の代わりに太い鉄の棒が刺さっていた。
私はあまりの衝撃に泣いた。
母は「ドジっちゃた、心配かけてごめんね?」と笑って私の頭をなでてくれた。
一番ショックなのは母なのに笑っている母の強さにまた泣いた。


850:笑顔1/2
10/03/28 17:50:05.14 5QN3FIgZ0
もう五年前ぐらいの話かな。
人前ではほとんど泣いたことのない俺が、生涯で一番泣いたのはお袋が死んだ時だった。

お袋は元々ちょっとアタマが弱くて、よく家族を困らせていた。
思春期の俺は、普通とは違う母親がむかついて邪険に扱っていた。
非道いとは自分なりに認めてはいたが、生理的に許せなかった。
高校を出て家を離れた俺は、そんな母親の顔を見ないで大人になった。
その間実家に帰ったのは3年に1回程度だった。

俺もいい大人になり、それなりの家庭を持つようになったある日、
お袋が危篤だと聞き急いで病院に駆けつけた。
意識が朦朧として、長患いのため痩せ衰えた母親を見ても、
幼少期の悪い印象が強くあまり悲しみも感じなかった。

851:笑顔2/2
10/03/28 17:51:03.77 5QN3FIgZ0
そんな母親が臨終の際、俺の手を弱々しく握りこう言った。
「ダメなおかあさんでごめんね」
精神薄弱のお袋の口から出るにはあまりにも現実離れした言葉だった。
「うそだろ?いまさらそんなこといわないでくれよ!」
間もなくお袋は逝った。
その後葬式の手配やらなんやらで不眠不休で動き回り、
お袋が逝ってから丸一日過ぎた真夜中のこと。
家族全員でお袋の私物を整理していた折、一枚の写真が出てきた。
かなり色褪せた何十年も前の家族の写真。
まだ俺がお袋を純粋に大好きだった頃。みな幸せそうに笑っている。
裏には下手な字(お袋は字が下手だった)で家族の名前と当時の年齢が書いてあった。
それを見た途端、なぜだか泣けてきた。それも大きな嗚咽交じりに。
いい大人がおえっおえっ泣いてる姿はとても見苦しい。自制しようとした。
でも止めど無く涙が出てきた。どうしようもなく涙が出てきた。

(俺は救いようがない親不孝ものだ。格好なんて気にすべきじゃなかった。
やり直せるならやり直したい。でもお袋はもういない。
後悔先に立たず、とはまさにこれのことだったんだ。)

その時、妹の声がした。
「お母さん、笑ってる!」
皆布団に横たわる母親に注目した。
決して安らかな死に顔ではなかったはずなのに、表情が落ち着いている。
うっすら笑みを浮かべているようにさえ見えた。
「みんな悲しいってよ、お袋・・・。一人じゃないんだよ・・・」
気がつくと、そこにいた家族全員が泣いていた。

・・・あれから俺はことあるごとに両親は大切にしろと皆に言っています。
これを読んだ皆さんも、ご健在であるならばぜひご両親を大切にしてほしい。
でないと、俺のようにとんでもない親不孝ものになっちゃうよ・・・。

852:バーチャンの煮物1/2
10/03/28 17:59:38.54 5QN3FIgZ0
漏れは昔ばあちゃん子だった。
両親が共働きだったので
保育園の送迎バスの見送り・出迎えはいつもばあちゃんだった。
その頃は両親と過ごす時間よりも
ばあちゃんと過ごす時間の方が長かった気がする。
けれど高校に入った頃から、ばあちゃんの年寄りくささというか
かもし出す雰囲気そのものに嫌気がさし、無視し続けるようになった。

学校が週休二日制になり、土曜日の昼食はいつもばあちゃんが作ってくれていた。
ほとんどいつも煮物で、それがあまり好きではなかったから
出勤前の母親に、「弁当作るか昼食代くれ。」と言っていたが
母親は「おばあちゃんはお前にご飯作ってやるのも1つの生き甲斐なんだから。」
と取り合ってくれなかった。
最初の頃は、ばあちゃんが部屋まで昼食を運んでくれても
口を付けず放って置いたが
「食べないと勉強に身が入らんよ。」などと注意してくるのがウザくて
最近では、「後で食べるからそこらへんに置いといて。」と言って
ばあちゃんが部屋を出て行った後、
新聞紙にくるんだりビニール袋に入れてごみ箱に捨てていた。
ばあちゃんが食器を下げに来た時
「きれいに食べとる。」と嬉しそうに笑うのを見て
少々胸にチクっと来るものがあったが、その後も昼食を口にすることはなかった。

853:バーチャンの煮物2/2
10/03/28 18:00:19.39 5QN3FIgZ0
先日ばあちゃんが亡くなった。
脳溢血だった。
ついこの間まで元気に農作業していたのに。
台所に立ってご飯作っていたのに。
この前の里芋と昆布の煮物食べてやればよかった。
もっと話もしてやればよかった。
でももう二度とばあちゃんの料理は食べれないし、話もできない。

葬式のとき、家族や親戚の前ではみっともなくて泣けなかったが
今このスレを全部読んで無性に泣けてきた。
ごめんばあちゃん、ごめんな。

854:最後のカレー
10/03/28 18:03:11.68 5QN3FIgZ0
母親が俺が小2の頃、子宮ガンで入院する事になった。
母親が家を出る前日に作った最後の夕食がカレーだった。
俺はガキだったから、子宮ガンがそんなに怖い病気だなんて知らなかった。
母親は一ヶ月もしたら帰ってこれると思ってたし。

でも、もう帰ってくる事はなかった。
不思議なもんで、そのカレー以外の母親の料理の味って一切覚えてない。
母親と一緒に食事する姿もそのカレー食ってる場面だけ。
と言っても、母親は食欲なんて既になくて、ただ俺がカレー食ってるのを
何とも言いがたい、悲しそうな表情で見てるだけ。
「あしたもちゃんとレンジで温めて食べるんだよ。お母さん、明日朝早く行かないといけないんだからね。」
それが、家で聞いた最後の母親の言葉だったと思う。

小2の夏休み、8月に入ってまもなく、母親が死んだ。
親戚も近くにいないし、兄弟もいない。親父は元々忙しい人だったから、いつも帰りは遅い。
それでも俺はガキなりに家事を覚えて、料理も簡単なものなら何でも出来るようになった。
でも、カレーだけは作らなかった。大鍋でカレーでも作っておけば楽なのにも関わらず。
なぜなら、母親が最後のカレーを作ってた時、俺が手伝おうとして鍋を焦がしてしまい、
母親に怒られたのを思い出すから。それが母親に怒られた最後の記憶。
以来、カレーは外でしか食いません。

855:849続き
10/03/28 18:03:13.94 bwbXPWs00
その年の冬、私は冬休み中で母の病院に泊まっていた。
だが、母が痛みを訴えてきた。
看護婦さんを読んでも何もされず、母はずっと痛い・・・痛い・・・と唸っていた。
その日私は眠れず、そのイライラを母にぶつけてしまった。

次の日も母の痛みはおさまらなかった。
母は今日も泊まって欲しいと私に言ってきたが、一晩中寝ずに看病していた私は正直家に家に帰りたかった。

だから「宿題があるから」と母をおいて病室をでてしまった。
病室の扉が閉まって2、3歩あるくと、ものすごい勢いで後ろ髪を引かれた。
振り返って見たが何もない。
ただ体が病室に引っ張られている感覚だった。
私は残ろうか・・・と思ったが、また一晩中看護しなければならないと考えたら面倒くさくなって迎えの車に飛び乗った。

その二日後、私は友人とマックで夕飯を食べようとしていた。
ハンバーガーを買って席に着くと、父から電話があった。
「お母さんが危ないかもしれない」
私はその一言でハンバーガーを友人に私店を飛び出して病院に向かった。
病室には父と兄がいた。
母は心臓は動いているものの、しゃべれなくなっていた。
だが、どこかで私は母が死ぬわけないと考えていた。
今までもちゃんと回復した。今回だって・・・。
だから私は母に何も言わなかった。
だって言う必要がないと思っていたから。
だが1月10日。0時20分。
母が死んだ。


856:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 18:04:09.78 bwbXPWs00
一番最初に父が泣いた。
そして兄が泣いた。
私は1分ぐらい状況が理解できなかった。
そんな私の手を父が引いて母に触れさせた。
そこには次第になくなっていく母の体温があった。
私はその時初めて母が死んだ事を理解して泣いた。
同時に後悔もした。
数日前のあの後ろ髪を引かれた時戻っていれば。
面倒くさがらずにそばについていてあげれば。
それよりも私は母に最後の最後まで「ありがとう」といっていない事に後悔した。
私はそれから丸一日中泣いた。
泣きつかれて丸一日中寝た。
目を覚ました時見たのは私を囲んでみている親戚と父の顔だった。
父曰く、私も「母の後を追ってしまったんじゃないかと思った」と言われた。


188 :癒されたい名無しさん:2009/08/01(土) 05:59:38 ID:6k57Jc99
それから葬式、通夜などでばたばたしていた事。学校の友達が私のために泣いていたこと以外覚えていない。

ある日、母の遺留品を整理していると、何十冊ものノートがでてきた。
その中はすべて私と兄の事が書かれていた。
「今日は美咲と喧嘩した。娘には感謝しても仕切れないのに、それをたまに忘れてたくさんの事を頼んでしまう。もっと自分でやるように努力しなければ」
「今日は美咲と外を散歩した。私は車いすだったけど久しぶりの外は楽しかった。いつか自分の足で歩きたい」



857:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 18:05:12.34 bwbXPWs00
私はそれを涙を流しながらすべて読んだ。
母は自分の死期を感じていたのだろう。最後に私と兄にあてたメッセージが書かれていた。

美咲へ
まず、だめな母親でごめんね?
いつもあなたにばかり頼ってしまって、あなたの負担になってしまってごめんね?
本当はもっと一緒に買い物したり、おいしいもの食べたりしたかった。
何よりあなたの花嫁姿が見たかった。 欲をいうなら孫も見たかった。
あなたといられた時間は他の誰より短かったけど、私にはあなたが一番大事でした。
だってあなたは私が命をかけて産んだ子ですもの。
いつかあなたにこのことで酷い事を言ってしまったわね。
本当にごめんなさい。
本当はあんな事思っていなかったの。
何度誤っても足りないわ。
ごめんなさい。
私はあなたを産んだことを後悔した日なんて一日もありません。
美咲、こんな駄目な母親なのに一緒にいてくれてありがとう。
いつも私のそばでそのかわいい笑顔を見せてくれてありがとう。
何より、私のところに産まれてきてくれてありがとう。
愛しています。
                    母より

このページだけ私の涙と母の残した涙でよれよれになってしまいました。
今は高校にも進学して充実した毎日を送っています。
この1年ほどで夢に母が2回ほどでてきました。
夢の中の母は変わらず笑顔で私の頭をなでてくれました。
たとえそれが夢でも私には励みになりました。
最後ですが私もお母さんのところに産まれてきてよかったです。
産んでくれてありがとう。
長文すみません。ありがとうございました。

858:以下、名無しにかわりましてVIPがお送りします
10/03/28 18:08:07.42 wUZafb9a0
こんなの読んだら…
1人暮らしで助走にはまってる場合じゃないって思えてきた…


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