10/06/06 22:26:13
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筆者:先生、日本の花は桜ですか?
日本語先生:違います。桜は庶民の花です。
筆者:それでは、日本の花は何ですか?
日本語先生:日本の花というものはありません。一般人の花は桜であり、皇室の花は菊です。
筆者:それでは、皇室の花はなぜ菊ですか?
日本語先生:桜の花はあらゆる花と共に春に咲きますが、菊は秋に孤高に単独で咲くからです。
皇室の花が他の花と一緒に咲くことはできないではありませんか?
日本語を習うのに孤軍奮闘していた東京滞在当時、博学博識だった日本の先生は列島の国花を
訊ねる筆者の質問にこのように答えてくれた。全世界の人々に広く知られた桜の花が実は日本の
国花ではないという言葉だった。そのように見れば、桜と菊は一見、矛盾でぎっしり埋まるとみられ
る日本の二重性を現実的に最もよく表わす象徴物と考えられる。韓国はムクゲ、オランダはチュ
ーリップ、英国はバラ、スイスはエーデルワイスがそれぞれ民衆的であり民族的な個性を誇ってい
るが、隣の列島では花まで上下で区別されて愛されるためだ。民主国家にもかかわらず、中を覗
いてみれば相変らず封建的であり階級的な日本の現実を最もよく表わす現象だと言える。
実際に、皇室を代表する菊は日本国会議員(参議院)のバッジに刻まれ、貴族的な扱いを受ける
反面、桜の花は路上のマンホールのふたに装飾物として使われながら庶民の足跡を全身で受け
なければならない宿命を持っている。菊はまた、靖国神社の徽章から明治神社の提燈に至るまで
厳粛で敬けんなすべての場所に位置して民衆の敬拝を強要するが、桜は花見が始まる4月の工
産品で多くの人々の一時的な目の保養になるだけだ。そのような意味で、韓国のムクゲは童謡か
ら愛国歌を経て警官と軍人の階級章に至るまで全国どこで容易に見つかる国花中の国花だ。
(中略)
一株に数十万、数百万個の花を咲かせる桜は象徴的だ。たとえ花びら数は五枚に過ぎず、花自
らの密集性は落ちるが、一株の木では気味が悪いほど多くの花が咲き、桜自体が巨大な「クワシ
ハナ」を形成するためだ。集約的ながらも没個性的に群集を形成する日本人の特性を最も無理な
く反映する花が桜だったわけだ。そう見れば、ムクゲとチューリップ、バラとエーデルワイスは全て
「喬木」ではない「潅木」で適切な数のつぼみを個性的に演出する平凡な(?)共通点を持っている。
実際、数百万個の花が一斉に咲いて一斉に散る壮観は後日、日本軍国主義が愛国心の象徴とし
て積極的に活用する悲劇を演出することになる。ヒットラーのニュルンベルク全党大会で数十万人
のナチ党員らが演じた巨大なマスゲームが日本では桜を通じて具現されたのだ。結局、「天皇の
ために美しいサクラの花びらのように散れ」という軍部のスローガンはマックス・ウェーバーとエミ
ール・デュルケムの言葉通り「思考」より強力な象徴として作用し、日本人たちが自分の命をごみ
のように捨てるよう強要した。(中略)
そのような日本人たちの世界観が花を通じて如実にあらわれる白眉が正に生け花だ。世界のどこ
にもない人工的な自然物の極限状態。永らく美しく育てた花を切って折って視覚的な楽しみのた
めに人為的に配置する利己的耽美主義は、軍国主義者などのそれと似た理由からだ。そういえ
ば、小さい木を植木鉢に植えて、引き締めてねじってつかんで縛ってより一層小さくさせる盆栽も
やはり、完全な自然物を自分の統制下に置こうとする侍的気質と相対している。
一つの草、花一輪を折っても礼をつくし、祭りの時は生花を切るより紙で作った紙花を白磁の壷に
いけたのが私たちの先祖だというのに…。日本に関する文を書けば書くほど隣国にもかかわらず
文化的・情緒的・歴史的距離がますます遠ざかるのは筆者だけであろうか?
シム・フン翰林(ハンリム)大教授*
ソース:世界日報(韓国語) [シム・フン翰林(ハンリム)大教授の日本を見れば韓国が見える]'サクラ'と日本人
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