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日本の奈良県天理市石上(いそのかみ)神宮は紀元前660年、神武天皇が国を平定する時使っ
たという神剣を祭ったところと言われます。こちらには昔から伝わる特殊な箱がありましたが、誰も
開けてはならない禁忌事項扱いでした。ところが1873年、この神宮を管理していた菅政友がタブ
ーを破って箱を開き、全体が錆ついた鉄製の刃物一袋を発見しました。
長さ75センチのこの刃物は途中でまっすぐな刃の両側に小さい刃が3つずつ付いていたため七
枝刀という名前を得た。刃物の前後に彫られた61字の記録から見て近肖古王在位時と推定され
る369年に百済の皇太子が倭王に与えたことが分かりました。しかし、銘文に対する解釈をめぐっ
て韓日間の見解の違いが克明に対立しています。
前面には「泰和四年(369年)五月十六日丙午正陽に百回焼き入れた鋼鉄で七支刀を作りました。
すべての軍をはね除けられるように侯王に与えます」と書かれており、裏面には「先代以来誰もこ
ういう刃物を持ったことがありませんが、百済皇太子は徳の故あって倭王旨のために作ったので
後世まで長く伝えて保存するようにしなさい」と記録されています。
日本は「百済が七支刀と七子鏡を捧げた」という日本書紀神功42年(372年)の記事と結びつけて
「七支刀は百済皇太子が日本王に下賜したのではなく、朝貢で捧げたもの」と主張します。これは
日本が古代韓半島を支配したといういわゆる「任那日本府説」を後押しする物証というものです。
そして1953年、自らの国宝に指定しました。
我が国では光復(解放)後63年に北朝鮮学者キム・ソクヒョンが日本の主張に正面から反論しま
した。七支刀は5世紀に強盛だった百済王が皇帝の立場で諸侯の性格の地域統治者(倭王)に下
賜したものと主張して熱い論争の端緒を提供しました。以後、七支刀は製作年度と動機について
韓日間で主張が相反して平行線を走っているのが実情です。
そのような中、ノ・ジュングク(啓明(ケミョン)大史学科教授)百済学会会長が最近、七支刀の長さ
を元に当時の度量衡を明らかにする学術書「百済社会思想史」(知識産業社)を出して人目を引い
ています。ノ教授はこの刃物を百済王室で直接作ったのだから正確な度量衡を使ったと見て当時
使われた後漢尺(23㎝)、晋前尺(23.1㎝)、西晋尺(24㎝)、東晋尺(25㎝)等と比較しました。
七支刀は1尺が25㎝の東晋尺を基準とした時、正確に3尺なので当時、百済は東晋尺を標準度
量衡として使っていたということです。実際に七支刀には東晋の年号が彫られており、近肖古王は
東晋から「鎮東将軍領楽浪太守」という爵号を受けた点もこれを後押ししています。この研究が下
賜品か献上品かをめぐる論議に終止符を打つことは難しいでしょう。
ですが、こういう研究がより一層活発になって七支刀が百済の息遣いが宿った大切な文化遺産と
いう事実を知らしめるならば十分に価値があることではないでしょうか。
イ・グァンヒョン文化部専任記者
ソース:国民日報クッキーニュース(韓国語) [イ・グァンヒョンの‘文化財の中に’]⑮百済が日本に渡した七支刀
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