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今月10日、ポーランドのレフ・カチンスキ大統領夫妻や政府高官らが乗った飛行機が、ロシア西部のスモレンスク北飛行場の近くに墜落した。
大統領らは1940年に起こった「カティンの森事件」の犠牲者の追悼式典に参列するため、事件現場へ向かう途中で事故に遭ったもので、ポーランドとロシアの歴史に残る深い傷を呼び覚ますことになった。
39年8月、ソ連はナチス・ドイツと不可侵条約を締結、ポーランドを分割占領することで合意し、翌月にポーランドへ侵攻した。そして翌40年3月、ソ連の最高指導者スターリンは、ポーランドを掌握するため、捕虜にしていたポーランド軍の将校らを殺害することを決めた。
スターリンは共産政権を嫌う指導者層も抹殺することを決めた。1カ月後、ソ連はポーランドの将校だけでなく、医師や大学教授、ジャーナリストなど約2万2000人を、ロシアの古都スモレンスクにあるカティンの森へ連行し、虐殺した。
この事件は43年、ドイツ軍が約4000体の遺体を発見したことで、世間に知られることになった。「ナチス・ドイツの犯行だ」と主張していたソ連は、90年になってソ連軍の介入を認めたが、「国家として責任を取るべきものではない」との見解を示した。
1772年、ロシア帝国とプロイセン王国、ハプスブルク君主国 (オーストリア) によって分割されたポーランドは、1795年から1918年まで、ロシアの支配下に置かれた。
1867年にポーランドで生まれたマリ・キュリー (キュリー夫人) は、「マリア・スクウォドフスカ」というロシア式の名前を名乗らなければならなかった。昨年、第2次世界大戦のぼっ発から70年を迎え、ポーランドとロシアは歴史をめぐって攻防を繰り広げた。
1939年、ソ連と不可侵条約を締結したナチス・ドイツは9月1日に、またソ連も同17日にポーランドへ侵攻した。
ポーランドは昨年、独ソ不可侵条約の締結について謝罪するよう求めたが、ロシア政府は「ヒトラーとスターリンの間で結ばれた条約について、責任を取ることはできない」と主張した。
日本の植民地時代の初期、韓国ではポーランドを「波蘭」と呼んだ。「波蘭の人も大韓の人も、国を失った涙の友だ」。1914年に米国で発行された「新韓民報」は、当時の韓国とポーランドが置かれた立場について世界へ訴えた。
また、「落ち葉はポーランド亡命政府の紙幣」という表現で始まる、金光均 (キム・グァンギュン) =1914-93= の『秋日抒情』にも、同じ弱小民族に対する憐憫 (れんびん) の情が表現されている。
ポーランドのカチンスキ大統領は、今月7日にロシア政府が開いた、「カティンの森事件」70周年慰霊式典に参列できなかった。ロシア政府が招待しなかったためだ。
それでもカチンスキ大統領は、大統領として歴史を直視し、責任を果たそうと事件現場へ向かい、帰らぬ人となってしまった。同じ時代に似たような経験をした韓国としては、今ポーランド人たちが直面する悲しみを分かち合うべきだろう。
■ソース
【萬物相】ポーランドとロシア
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