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「わたしが行方をくらました後、わたしに“英雄の称号”が贈られたという話を、
オーストリアの事業者から伝え聞きました。
“家族は無事のようだ”と聞き安心しつつ、16年間息を殺して隠れて生きてきました」
今月4日、オーストリアで北朝鮮の金日成(キム・イルソン)、金正日(キム・ジョンイル)父子の暴露本
『Im Dienst des Diktators(独裁者の仰せのままに)』を出版した金正律(キム・ジョンリュル)元北朝鮮軍大佐(75)。
金元大佐は1974年から20年間、ヨーロッパを舞台として、
金日成父子の安全とぜいたくな私生活に必要な各種物品を調達する軍需要員として勤務していたが、
94年10月にスロバキア空港からの帰還を拒否、そのまま行方をくらました。
金元大佐は同書で、北朝鮮の人民が飢死している状況でも、
金日成父子は自分たちの安全とぜいたくのために金を惜しまなかったという事実を暴露、全世界のメディアから注目を集めた。
25日、オーストリアの首都ウィーンの中心街にある出版社の事務室で、金元大佐と会った。
金元大佐は、「韓国の記者が来るというので、16年前の脱北当時に着ていた洋服(ダブルボタンの黒い洋服)をあえて着て来た」と語った。
金元大佐は、
「本を出版した後、イギリスのBBC、日本のテレビ朝日、フジテレビなど世界各国のメディアからインタビューの依頼が殺到し、
この1 カ月はどう過ごしてきたのか分からない」と口を開いた。
記者が訪ねた日も、フランスのラジオ・インターナショナル、チェコの日刊紙などメディア4社によるインタビュー取材が入っていた。
-1955年に東ドイツに留学していたということだが、出身成分が非常に良かったのでは?
「全くそうではありません。貧しい農家に生まれ、17歳になるまで、正規の教育はほとんど受けられませんでした。
教育省で謄写機担当の雑用係として働いていたわたしをかわいがってくれた幹部が金策工業大学に入れてくれて、その時から勉強を始めました。
東ドイツへの留学(ドレスデン大学で機械設計学を専攻)は、試験を受けて行きました」
-いつ、どのように軍人(北朝鮮護衛司令部大佐)になったのか。
「咸興の竜城機械連合企業所で設計士として働いていたところ、
金日成主席の保護が主な任務だった護衛司令部の将校として登用されました。
機械工学の専門家だったため、金主席が使う原子爆弾からの待避用防空壕(ごう)の換気口を設計せよ、という指示を受けました」
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