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日本書紀には、現代史に影響をおよぼしている重要な記録がいくつかあります。きょうは
そのひとつ、「任那(みまな)の日本府」の問題をとりあげてみたいと思います。
といっても、「任那の日本府」なるもののどこに問題があるのか、わからない世代の人が
ふえているようなので、かんたんに説明しておきましょう。
古代の朝鮮半島に日本の総督府にあたる統治機関がもうけられていた、という通説が
戦前から日本側にあり、それに対して韓国側が猛反発をはじめたのが、この問題の発端
でした。
韓国側からみれば、ありもしない古代の架空の機関を日本側がでっちあげて、明治以降
の朝鮮併合を合理化しようとした、というわけです。
つまり「任那の日本府」はなかった、というのが韓国側のつよい主張ですが、それが嵩
(こう)じて、ついには「任那」もなかったということになり、いまでは「任那」などという地名
を使うのはゆるせないというところまできています。
日韓友好をねがう者にとって、この問題はノドに刺さったトゲなんですね。
■任那もなかった?
というわけで、できるかぎり客観的にみていきたいと思うのですが、まず考えなければ
ならないのは「任那」の地名です。
まえにもふれましたが、西暦414年に建てられた高句麗の好太王碑に、
「官兵(かんぺい)(高句麗軍)急追し、任那・加羅(から)に至る」(高句麗軍は逃げる
倭国軍を追って、任那の加羅に至った)
と、どうにも否定しようがない明確さで「任那」の地名が記録されているのです。好太王碑
は412年に好太王が死去した2年後に建てられたもので、絶対的といえるほど確かな
第一級史料です。それをいまの韓国、北朝鮮の学界は「なかったことにしよう」というのです
から、これはもう論外ですね。
(中略)
■無力な出先機関
「任那の日本府」がその組織の実態をともなったかたちで、ぞくぞくと登場するのは第29代
欽明(きんめい)天皇の時代になってからです。西暦でいえば540年代ですね。
ところがこのあたり、いくら読んでも「日本府」が軍事力をもって三韓(百済、任那、新羅)
を支配しているといったようすが、まったくうかがえないんです。記録されているのは、
本国(日本)から任命されてきた長官ら高級官僚と、現地採用の地方吏員が新羅派、
百済派にわかれていろいろと画策し、それを百済王がみとがめて欽明天皇に報告する、
といったことばかりです。
軍を動かす将軍など、一人も出てきません。いまでいえば、大使、公使と現地採用の
書記官で構成された出先機関という感じですね。具体的にスタッフの名をあげて説明して
おきましょう。
まず「日本府」のトップ(長官)は、的臣(いくはのおみ)とよばれる蘇我(そが)系の人物です。
副官は吉備弟君(きびのおときみ)、そしてナンバー3が河内直(かわちのあたい)ですが、
この男は百済から日本にやってきた帰化系氏族で、大和の高級官僚に栄達したことから、
とかくそれを鼻にかけるところがあったらしく、現地人には毛嫌いされていたようです。
そして、この下に現地採用の吏員がいました。阿賢移那斯(あけえなし)と佐魯麻都
(さろまつ)です。
この2人と河内直は、日本府における新羅派として知られていて、3人そろって新羅の
衣冠をつけて、新羅から帰ってきたこともあります。
それを知った百済王(聖明(せいめい)王)が日本の天皇(欽明天皇)に直訴する騒ぎが
あったことを日本書紀は記録していますが、これが「任那の日本府」なるものの実態なんですね。
こんな機関が古代にあろうが、なかろうが、どうしていまの韓国が問題にしなければ
ならないのか理解できません。あるいはこれは「韓流自虐史観」というものなのかも
しれませんね。
ソース(イザ!・SANKEI EXPRESS、八木荘司氏)
URLリンク(www.iza.ne.jp)