【韓国】 パク・チョンヒ教授「朝鮮通信使を歓迎する儀式茶礼、次第に非礼に。朝・日国力の変化を反映」★2[03/19]at NEWS4PLUS
【韓国】 パク・チョンヒ教授「朝鮮通信使を歓迎する儀式茶礼、次第に非礼に。朝・日国力の変化を反映」★2[03/19] - 暇つぶし2ch1:豆腐専門店冷奴φ ★
10/03/20 18:56:43
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外交儀式は当事の国同士の力関係を反映する。1607年から1811年まで9回派遣された朝鮮通
信使を迎える日本側の儀式変遷を見ればその力学が明確にあらわれる。東アジアの文化宗主国
を自負した朝鮮と新たな強者に浮上した日本の間でパワーゲームの様相がはっきり出る。

茶文化研究者のパク・チョンヒ(53)円光(ウォングァン)大東洋学大学院客員教授は著書<17~18
世紀通信使に対する日本の儀式茶礼>(民俗院発行)で朝鮮通信使に対する日本の外交儀礼の
変遷過程を分析した。「儀式茶礼」とは外国使節を接待する公式儀式を意味する。朝鮮の対中国
外交と比較すると対日外交資料は貧弱なことこの上ないが、朝鮮通訳官のガイドブック的役割を
した「通文館志」(1720)と「增正交隣志」(1802)、日本側資料の「対馬宗家文書」などをていねいに
見て回った。

パク教授は「壬辰倭乱直後までも日本は単なる交隣関係に見えないほど朝鮮を親切丁寧にもて
なしたが順次同等な礼を求め始め、ついに朝鮮より優位に立とうと考えた」と分析する。朝鮮通信
使の使行は対馬から始まって京都、江戸(東京)へと続いたが、パク教授は使行を迎える対馬の島
主らの出迎え位置の変遷に注目してこう結論した。例えば1607年、通信使らが壬辰倭乱後、初め
て使行を再開した時まで、中江藤樹らは宴会が開かれる楼閣の外、中門まで出てきて使節らを出
迎えたが、順次石段の上(1617年、1624年)、石段の下(1636年)、階段の上(1655年)、大庁の上
(1682年以後)と出迎え位置が変わるなど傲慢になった。

儀式中最も重要な手続きの書契(国書)伝達の過程でも時間が経つほど日本の非礼が目立った。
1607年には逃走がきて先に最初の人事をすれば通信会社らが西界(ソゲ)を伝達したが、その後
は首席通訳官が島主の家に行って書契を伝達する形(1636年)に変わった。通訳官が書契を伝達
すれば、当日または翌日、島主一行が感謝の挨拶をしたが、18世紀に早ければ7~10日を過ぎ
てから島主が挨拶しにくるほどになった。

パク教授は「初期に朝鮮通信使らは日本側の欠礼に対し、叱ったが後には不満を表わさないで
順応ようになった点も注目すべきだ」と話した。彼女は「この現象は丙子胡乱を体験した後、清の
侵略脅威に直面していた朝鮮が日本と平和を維持するよう努めていた点、このような朝鮮の境遇
を利用して立場を強化しようとした日本の外交的計算がかみ合わさって明らかになったこと」と分
析した。彼女はまた通信使の地位についても「当時の江戸幕府は朝鮮通信使を琉球(沖縄)の朝
貢行列と同列に置こうとするなど朝貢国の臣下概念で見ようとした側面もある」と付け加えた。

本来パク教授は外交史ではなく風俗史研究者。茶の文化が日本ほどなかった朝鮮で、なぜ通信
使らの国書伝達儀式を「書契茶礼」と表現したのだろうか、という点が気になって外交関係全域に
関心を広げたという。彼女は「行茶など表面に見える点に集中した既存の茶道研究から進んで、
茶道文化を歴史、哲学、産業的脈絡と関連させて研究したい」と話した。

ソース:韓国日報(韓国語) パク・チョンヒ教授"儀式茶礼の逆転、朝・日力の変化反映"
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