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子どもは見ていた:東京大空襲65年/下 在日朝鮮人たち
◇家を失い、差別に泣く 両親、仕事求め渡日/裕福だった生活一変
自宅の玄関に小さな防空壕(ごう)があった。豆電球がつき、食糧を入れていた。
空襲が本格化するまで、子どもにとってはまるで秘密基地。
朴基碩(パクキソク)さん(72)は暗闇にろうそくを立てて遊ぶのが楽しくて「防空壕で寝たい」と言っては両親を困らせた。
基碩さんが住んでいた荒川区南千住には、朝鮮半島出身者が多かった。
アボジ(父)も半島の貧しさから日本に渡った一人で、廃品回収業や海鮮物の販売をしながら一家8人を養っていた。
45年3月10日の記憶は、家を逃げ出す場面から始まる。
オモニ(母)は末っ子の弟をおぶい、妹と基碩さんの手を引き、姉はオモニのもんぺにしがみついた。
六角形の細長い焼夷弾(しょういだん)が空一面から降ってくる。
翌朝、焼け野原ではぐれていたアボジたちと奇跡的に再会し抱き合った。
傍らで、女性が我が子の名を呼びながら黒焦げの遺体をひっくり返して歩いていた。その声が今も耳から離れない。
約10年前から横浜市で韓国語教室を開いている。「朝鮮人」とばかにされ、幼稚園に1日しか行けなかったこともあるが、
いま教室は日本人でいっぱいだ。
「なぜ朝鮮人が日本にいたのか。日本で空襲に遭わねばならなかったのか」。
子どものころの疑問は大人になるにつれ分かってきた。でもいまだに分からないことがある。
「たくさんの朝鮮人が空襲の被害に遭ったことが、なぜほとんど知られていないのだろう」
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軍需工場の多かった下町には、植民地だった朝鮮半島から仕事を求めて移住したり、連行された人たちが多く住んでいた。
旧内務省の資料によると、45年時点で東京には約10万人いたという。
本所区(現・墨田区)菊川に住んでいた李建中(リコンジュン)さん(74)は当時珍しかった黒革のランドセルを背負い、
名門校へ越境通学していた。
軍需工場を経営する父は幅広く事業を展開し、従業員たちは建中さんを「坊ちゃん」と呼び、毎日三輪トラックで
学校まで送迎してくれた。
「大きくなったら戦争に行く」と思っていたが、父は「医者になれ」と、医療器具を買いそろえた。
息子の将来を早くから案ずる姿に、若くして来日した父が成功するまでの苦しい道のりを感じた。
そんな生活も戦況の悪化で一変した。44年4月、新潟県の寺に学童疎開した。食事は粗末で、栄養失調のようにやせ細った。
7月、父が初めて面会に来た。チヂミをいっぱい持ってきた。
「誰にもやるな。隠れて食べろ」。暑さでほとんど腐ってしまった。
冬には背丈を超える雪が積もった。東京から履いていった革靴は凍ると硬く、登校中に足から血が出た。
でも家族への手紙に「つらい」とは書けない。
逃げ出して朝一番の汽車で東京へ帰ろうとする子もいたが、次の駅に先回りした先生に連れ戻され、
みんなの前で木刀でたたかれた。
翌年3月10日過ぎ。東京で大きな空襲があったと聞いた先生が様子を見に行き、帰ってきた。「全滅だ」。
数日後から生き残った親たちが次々と迎えに来る。「うちはみんな死んでしまったのか」。残った友だちと抱き合って泣いた。
従業員の兄弟という見知らぬ人が来たのは、8月13日のことだ。
「なんだ、今ごろ来やがって」と強がった。「坊ちゃん。みんな死んじゃいました」。信じられなかった。
千葉に疎開した祖父母の元へ身を寄せることになった。
2日後、新潟駅に着くと、ホームや待合室で大人たちが泣いていた。
「日本が負けた」と聞かされても、何とも思わない。ただ、肉親に会いたかった。
>>2に続く
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