10/02/28 23:05:58
「学徒たちが最近『足球』の仕方を学んだが、日本の児童より百倍は上手かった。朝鮮
の人も指導さえ良ければ、世界に引けを取らない人種だ」
2002年、韓日ワールドカップなどでの『レッドデビルス(赤い悪魔)現象』に代弁される、
韓国人の特別な『サッカー愛』は1919年の3.1運動の失敗以降、サッカーが抗日抗争の
性格を帯びて始まったという研究が出てきた。
ソウル大学外交学科修士課程のビョン・ソンホ氏は、サッカーが初めて伝来した1890年代
から1920年代に発行された新聞や雑誌17種と、朝鮮王朝実録などを分析して28日にこの
ように主張した。
ビョン氏は、「韓国の近代化に大きな影響を及ぼした日本とアメリカでは、サッカーではなく
野球が国技のように扱かわれたが、特に韓半島(朝鮮半島)でサッカーが人気を呼んだ
理由は、日本と対決して勝つ事の出来る領域だったから」と評価した。
1910年代まで11人のチームと前半と後半の各45分など、一番基本的なルールも守れない
ほど原始的だった韓国サッカーは、1921年の第1回全朝鮮サッカー大会を基点に急成長
して、1926年には培材(ペジェ)中学のサッカーチームが日本本土の大会に出場して、
優勝する快挙を成し遂げた。
同年7月には朝鮮サッカーチームが日本に遠征して、東京、上海、朝鮮、高麗などの
サッカーチームの連合リーグで3戦全勝で優勝した。
朝鮮サッカーチームは翌年に来韓した日本の鯉城サッカーチーム(広島)と1勝1敗を記録
して、極東オリンピックに日本代表で出場して優勝した早稲田チームを2勝1敗で破った。
朝鮮サッカーチームは1928年には、当時サッカーの『メッカ』だった上海遠征で西洋人
チームと対戦して、4勝2敗の成績を収めた。
このような善戦に支えられてサッカーは、1930年代に民衆の心情的支持を受けながら
事実上の国技として位置付けされるようになる。
実際に朝鮮中央日報では1936年の3月1日付けで、「我らの国技であるサッカー」という表現
を使い、同年の4月16日付けでは、「我らの同胞が住むいかなる場所でも、球蹴りを知ら
ない人はあまりいない」と報道した。
ビョン氏は、「人間としての主体的権利を認められなかった朝鮮の民衆は抑圧者の日本と
対決して勝ち、世界舞台で優秀な技量を誇って自らの国際的存在価値を証明しようとした」
と話した。
ビョン氏はこのような内容を込めた『スポーツを通じた認定闘争=日帝植民地時期の
サッカーを中心に』という論文で、最近外交学修士学位を取得した。
ソース:NAVER/ソウル=聯合ニュース(韓国語)
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