10/02/13 22:50:52
URLリンク(image.chosun.com)
*イム・ジヒョン漢陽大教授
「韓日併合」100周年だと、玄海灘を行き交う言葉が多い。朝日新聞は1月27日から3日連続で「光
化門」関連記事を連載した。連載初日、李舜臣将軍と世宗大王銅像、光化門が一緒に写った長いア
ングルの写真が、記事と一緒に1面上段にかなり大きくのせられた。
記者は「未来に向かって復元」なる「受難の門」光化門の再建が「民族の精気」と「克日」の象徴だとソ
ウルの雰囲気を伝える。第3共和国当時の1968年、復元した光化門はコンクリートで急造したばかり
か、角度も若干曲がって本来の位置ではなかった。だから今回やっと正しく復元されるわけだ。
ところで光化門にからむ民族の話はそんなに簡単ではない。日帝が総督府の建物を作るために光化
門を撤去しようとした時、反対世論に燃料を入れて火をつけたの柳宗悦(やなぎむねよし)という日本
人だった。この民俗学者は何の創意性もない洋式建築物が朝鮮の聖地を侵したと痛烈に批判した。
この内容が当時の新聞に紹介されて光化門撤去反対運動を力付けた。そのおかげか、光化門は破
壊を免れた。
大院君の景福宮再建に徴発された国民や宮殿の前にひれ伏して上訴した儒学の世界にとって光化
門はただ没落する王家の門にすぎなかっただろう。植民地に転落した無能で堕落した王家の門が民
族的象徴になったのは皮肉にも日本総督府の撤去計画のおかげではないか?とにかく光化門は死
なずに景福宮の東に移された。
復元工事を行う韓国初の古建築権威者は1970年、日本の国立文化財研究所で学んだ。国内には
技術がなかったために、いやでも別に方法がなかったのだろう。帰国後、国立文化財研究所長を歴
任した彼は北朝鮮の招待で開城の古刹復元などにも関与した。また1927年の移設当時、日本人技
師が残した6枚の図面がなかったとすれば、今日、光化門の復元もめどが立たなかったろう。植民地
時代の「民族文化」はこのように日帝との拮抗関係の中で形成されることもあった。韓半島だけの特
性でなく世界史的現象だ。
去年11月、意気込んで国立博物館で開かれた「第61回正倉院(日本王室の遺物倉庫)展」を見に行
った。人波に流されながらも派手なことこの上ない紫檀木琵琶や精密ながらも優雅な碁盤をはじめ各
種漆工芸、金属工芸品などに魂を奪われた。光明皇后が西暦756年に寄贈した物は、そのはるかな
歳月を勝ち抜いたこの遺品には感心した。
これらの宝物は唐と西域、ペルシャから来たものが大部分だった。時々韓半島から伝来したものもあ
る。国産品よりは輸入品がはるかに多い。訝しく思って調べてみると、千を越える日本の国宝には
「外国製」がかなり多い。陶磁器の場合、高麗のものもあるが南宋製品が圧倒的で、仏教関連彫刻
や絵には唐のものが多い。
その宝物を作り、運び、消費し、鑑賞した人々がすべて色々な国にまたがる事実から、人類の遺産で
あるわけだ。ところで国宝に登録される瞬間、この国籍を超越した文化遺産は日本の民族文化に化
ける「魔術」が起きる。博物館が民族文化の産室として作動する方式だ。
博物館だけではない。純日本産の蚕室で正倉院のシルクを復元したと感心する日本の新聞の論調
や「私たちの正倉院」という小・中学生を対象とした作文大会は王家が輸入したその外国製名品を千
数百年の歳月を越えた民族文化と飾り立てる。代わりに南宋と唐、高麗の職人やペルシャの商人は
こっそりと消える。民族文化はこのように他者を排除するイデオロギーである。
友愛を強調する鳩山政権の登場は明らかに政治的に韓日間の民族的葛藤や対立を緩和するのに
寄与するだろう。しかし国境越しに隣を他者化する民族文化のイデオロギーが両国の市民社会を支
配する限り、政治的和解は火の前の氷だ。東アジア共同体はもっと蜃気楼だ。
ソース:朝鮮日報(韓国語) [朝の論壇]光化門と日正倉院で見た'民族文化'
URLリンク(news.chosun.com)
前スレ
【韓国】 光化門と正倉院から見た「民族文化」~他国の文化を自国の文化にすり替える日本★2[02/10]
スレリンク(news4plus板)
★1の立った日時:2010/02/12(金) 22:16:15