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「東京100キロメートル圏域交通誌」をひろげて、左側の終わり地点に視線を移すと、高麗川駅と高麗駅の名前、
そして高麗峠、高麗川、高麗本郷、高麗の里町役場、高麗神社、高麗川神社、高麗郷民族資料館などが鮮明に
目に映ります。 この言葉には全部“高麗”という言葉が同じように入っているのは、日本人たちは三国時代
の高句麗を“高麗”と使って“コマ”と呼び、高句麗国は代わりに“コウライ”と呼びます。 したがってこの
一帯が高句麗人らの集団住居地だったことを推し量れます。
"続日本紀"には「高句麗人1,799人を武蔵国(今日の関東地方)に移住させ、こちらに高句麗軍を設置した」と
いう内容があります。 そして"続日本紀"703年4月に「高句麗宝蔵王の息子ヤックグァン(若光)に王の姓を
下賜する」という一節があり、これは各一族を規定する大和朝廷が授ける称号で、王ということは外国の
王族出身者にあたえる姓です。 ヤックグァンたちは高句麗人のずば抜けた指導力で、荒涼な荒れ地を切り開
いて移住民の定着に献身をつくしました。 ヤックグァンが亡くなると軍民らはその徳望を称賛し、魂を賛え
ようと霊廟をたててヤックグァンを迎えることになった。この方が高麗神社の神様であり、聖天院・勝楽寺
などいろいろな所で祀られています。 日本の東京地方に旅行する計画ならば、1300年余り前関東地方を縫った
高句麗人の気象を感じればいいのです。
文化ジャーナル21(韓国語) 2010/02/01
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写真
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高句麗人の足跡 日本、埼玉県の高麗神社
前スレ
【韓国】1300余年前、日本の関東地方は高句麗人の独壇場であった[02/03]
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★1の立った日時:2010/02/03(水) 12:22:12