10/01/30 21:46:06
URLリンク(img.khan.co.kr)
1636年12月、清の大軍十万が漢陽に迫ると仁宗は南漢山城に身を寄せる。「戦わない人生は死
と同じだ」という主戦派の斥和論者と「恥辱的人生でも死よりましだ」という講和派の主和論者の間
で言葉の矢が交わされる。食糧は少なくなり、世孫と妃嬪が疎開した江華島が陥落した知らせが
届く。47日間、迷い続けた仁宗は漢江の三田渡(サムヂョンド)に出て太宗に向かって三度お辞儀
をし、九度頭を下げる。1637年1月30日のことだ。
丙子胡乱の恥辱は朝鮮支配層の時代錯誤のせいだった。7年間の壬辰倭乱(文禄の役)で荒廃
した朝鮮が一息ついた頃、満洲族の勢力は日に日に大きくなって漢族の明国は衰えていた。満洲
族の後金と手を組んで戦争を避けようと考えた光海君は西人らのクーデター仁祖反正(1623年)
で退く。これを不満に思った後金は1627年、丁卯胡乱を起こし、兄弟国の地位を約束されて帰る。
官吏らは相変らず明国との義理を主張して後金を「蛮夷の国」と蔑視する。清に国号を変えた満
洲族は再び朝鮮の土地を踏みにじり、戦争に備えがなかった朝鮮は兄弟国から臣下国に転落する。
10年以上清の首都瀋陽(後の北京)で人質として生きながら天主教と西洋科学に目を開いた王世
子、昭顕は朝鮮に帰ってくるやいなや亡くなる。清国が昭顕世子を王に立てることが恐ろしくて仁
宗が子供を毒殺したという噂が長安に飛び交う。嫡統を継ぐべき昭顕世子の長男も済州から島流
しされて死に、世子の弟、鳳林大君が王位について孝宗になる。北伐(清国征伐)を叫んだ孝宗は
10万軍養成のために逃げた奴婢を捕える奴婢推刷都監を設置して、各道に推刷御史を派遣する。
しかし、彼は夢をかなえられないまま突然世を去る。
三田渡に立てられた清国戦勝碑の碑文は当代の文章家4人が作成したが、一部は自分のことが
抜けるよう謀る。清の言うとおりに碑文を書いた李景奭(イ・ギョンソク)は後日、西人の親分、宋時
烈(ソン・シヨル)に強く批判された。三田渡碑(サムチョンドヒ)は1895年、高宗の命令で地に埋め
られ、日帝強制占領期間に再び立てられた。光復(解放)後は再び地中に埋められて1963年、洪
水で姿を現し、松坡区石村洞を経て現在の三田洞に戻った。2007年には赤いペンキで毀損され
る侮辱を経験した。
イム・ソジョン記者
ソース:京郷新聞(韓国語) [昨日の今日] 1637年の三田渡の屈辱
URLリンク(news.khan.co.kr)
関連スレ:【中韓】中国に仕返し?…三田渡碑にスプレーで落書き[02/08]2007
スレリンク(news4plus板)l50