【日韓歴史】 壬辰倭乱で活躍した亀甲船は二階建てではなく三階構造だった?~「亀甲船内部構造論争」[12/26]at NEWS4PLUS
【日韓歴史】 壬辰倭乱で活躍した亀甲船は二階建てではなく三階構造だった?~「亀甲船内部構造論争」[12/26] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★
09/12/27 13:55:18

URLリンク(image.chosun.com)
▲在米企業家ユン・ウォンヨン氏が2004年に公開した古書画。

李舜臣(イ・スンシン)将軍の関連施設を作って観光客を呼ぶ「イ・スンシン プロジェクト」を推進中
の慶南道(キョンナムド)が初めて「3階構造亀甲船」3隻と板屋船1隻を2011年までに復元する
ことにした。(本紙12月11日付報道)私達が知っている亀甲船は2階構造だった。全国で復元さ
れた模型の亀甲船はたいてい2階だった。ところが亀甲船が3階だったとは?

亀甲船「2階構造説」は1933年延喜専門学校教授ホレース・アンダーウッドが初めて提起した。
1階で洋式櫓を漕ぎ、2階で戦闘員らが活動したという。これは1976年朝鮮工学者の金在瑾ソウ
ル大教授によって修正・発展した。亀甲船に使われた櫓は上から漕ぐ韓国式だったということだ。
また亀甲船は1階に船室、2階には櫓を漕ぐ格軍と戦闘員が一緒に配置された構造だったとの分
析だった。これが定説だったがほぼ同じ時期、物理学者のナム・チョンウ、ソウル大教授が3階建
てを主張したことがある。「2階で櫓をこぎ、3階で兵士が戦闘をする構造だ」ということだ。「亀甲船
内部構造論争」の始まりだった。

3階建てをもう少し具体化した論文は2004年に出た。張学根現順天郷(スンチョンヒャン)大イ・ス
ンシン研究所長だ。彼が書いた論文は「戦場環境と亀甲船扇形変化」であった。チャン所長は「李
舜臣将軍が2階構造の亀甲船で出場したとすれば、瞬間の機動力が勝敗を決定する海戦で絶対
勝利できなかっただろう」と語った。

既存の学説のとおり2階だったら櫓を漕いで弓を撃って砲を撃つことが2階だけでなされる。一度
砲を撃とうとするなら櫓を抜き取った後、窓を閉じて銃筒を盾側に移した後、距離をはかり照準を
固定してから芯に火をつけて弾丸を発射する。こうすれば射撃の空白時間が10分以上できるが、
その時間ならば賊船はすでに亀甲船に接近して鳥銃や弓で攻撃した後、斧で船体を壊して船内
に突入できたというのだ。

壬辰倭乱当時、亀甲船は敵陣を縦横に通って戦列を崩す「突撃船」だった。それなら必ず亀甲の
真下に3階が別々になければならず、砲を持った戦闘員がそちらに配置されていなければなけれ
ばならない、とチャン所長は主張した。2004年8月、米国で公開された古書画が「3階説」を助け
た。絵の中で亀甲船4隻の真ん中の亀甲船では櫓を漕ぐ空間の上に開いた窓があり、その中で
作業中の戦闘員が見える。ただ、絵の製作年代についてはまだ論議がある。

「3層説」の弱点は1795年「李忠武公全書」に収録された亀甲船の絵で、2階に見える大砲の穴を
うまく説明できないところにある。チャン・ハククン所長は、「(それを解明できる)新しい論文を準備
中」と語った。その亀甲船の絵は壬辰倭乱当時のものではなく、200年が流れた正祖時の亀甲船
というものだ。(中略)

最近著書「火炎朝鮮」を出したパク・ジェグァン戦争博物館教育チーム長は「今回の考証を通じて
「3階説」はだいぶ力を得たし定説にも少し近づいたと見られる」と話した。しかし、まだ「2階説」を
主張する声も侮れない。イ・ウォンシク、ウォニン古代船舶研究所長は「壬辰倭乱当時製作された
亀甲船は2階構造だったが18世紀に達して3階に変貌した」と話す。この他に3階が独立してい
たのではなく踏んで立つ踏み台がある程度だったという「2.5階説」もある。

ソース:朝鮮日報(韓国語) [Why]亀甲船が2階でない3階構造だったと?
URLリンク(news.chosun.com)

関連サイト:亀甲船を3階建てで復元へ
URLリンク(tosi.iza.ne.jp)

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