09/12/19 15:25:11 oR/qOr8A
>>280
三国時代の新羅は開闢当初は騎馬民族の系譜
墳墓から馬具や騎馬の際のアクセサリーである腰佩が出土するし
ステップ・ロードを経由して現在のルーマニア辺りと交易してた証拠が出てる
三韓征伐の話にも新羅王が「馬を献上します」ってのがさらっと書いてある
日本にとって馬は大していいものじゃなかったから数々の宝物の後にちょろっとそう書いてあるんだけど
(逆にそれが騎馬民族征服説への反証にもなってる)
まあ三国統一の際に唐の助力を得る為に風俗や名前まで徹底して事大したから一旦消えるんだけど
朝鮮通信使が馬上武芸に秀でて、それを見物した将軍の命令で日朝で勝負になったとかは記録にある
「芸」としてか実戦で使える「技」だったのかはわからないが
モンゴルの習俗の影響なんかは朝鮮には色々ある
王の食事を「スラ」ということ、女子が正装で被るチョクトゥリ、
同じく銀粧刀というのは自害用の小刀とされるが、本来はモンゴルで箸とセットになってたナイフだ
日本と同じく仏教で肉食が禁止だったのに高麗末期から普通に食うようになってる
高麗末というと二重に搾取される底辺民衆の間で檀君神話が今の形になってナショナリズム的なものも持ち上がったのだが
社会上層部はことごとく服装や名前までモンゴル風に変更していた
1260年にフビライ汗は高麗人は民族独自の服装を続けて良しとしたのだが、
1278年には高麗王に何故お前達は自国の風習に執着しないのか?と苦言を呈するほどその事大ぶりは際立ったようだ
まあモンゴルの高麗駐留兵というのは少なかったので、民族構成が変わるほど血が混じったというのは眉唾
モンゴル=中原に連れてかれた女子は多かったようだが