09/12/06 01:53:30
(>>2の続き)
東文輔が「欝陵島を竹島と呼んでいるが、その実は松島のことで、海図によってもそれは
瞭然である」と回答したのは、このためである。
その誤りが判明するのは1880年9月、天城艦による欝陵島の測量によるもので、天城艦の
測量結果は1881年、外務省嘱託の北澤正誠によって『竹島考証』と『竹島版図所属考』に
採用され、以後、これまで「外一島」とされていた松島は欝陵島であったことが確実となり、
欝陵島はこの後、松島と呼ばれるのである。この事実は、1877年に太政官が「竹島外一島
本邦関係これなし」とした松島(ダジュレート島)は、今日の竹島ではなく、欝陵島であった
ことを示している。
内藤正中氏はこの事実を無視し、1877年の太政官指令に「竹島外一島本邦関係これなし」
とあれば、その「外一島」を今日の竹島と決め付け、日本の最高決定機関である太政官は、
竹島を日本領とは関係がないとした、と虚偽の歴史を捏造したのである。
従って内藤正中氏の文献解釈は、根拠がないのである。太政官指令で「竹島外一島」と
された松島は1880年9月、天城艦の測量調査の結果、欝陵島であったことが判明し、
「竹島外一島」の「竹島」は欝陵島近くの竹嶼とされたからである。
その正確な欝陵島像が韓国側に伝わるのは1882年6月、欝陵島検察使の李奎遠が
『欝陵島外図』の中に採用し、欝陵島を松島として、竹嶼を竹島とした時である。1883年11月、
内務少書記官の檜垣直枝が提出した「欝陵島出張復命書」にはその韓国側の地図が添付
され、1877年3月の太政官指令で「外一島」とされた松島が欝陵島であったことが確認された
のである。この時、明治政府が根拠としたのは北澤正誠の『竹島版図所属考』である。
以上の歴史事実によって、1877年の太政官指令(「竹島外一島本邦関係これなし」)には、
今日の竹島が含まれていないことは、明白なのである。従って、日本政府は1877年の
太政官指令で今日の竹島を領土外とし、1905年、日露戦争の最中に竹島を侵略したとする
内藤正中氏の主張には、歴史的根拠がないのである。
これと同様、内藤正中氏が唱える「固有の領土論批判」も、根も葉もない虚言である。
「固有の領土」という概念は、日本の北方領土のように、歴史的に他国の支配を受けたことの
ない領土を指すが、1905年1月28日、日本政府は竹島を島根県に編入する際に、「他国ニ於テ
之ヲ占領シタリト認ムベキ形跡」がなく、「国際法上占領ノ事実アルモノト認メ之ヲ本邦所属」と
確認していた。
(終わり)