09/11/23 20:20:16 Pm1KhBLE
ちょっとウィキペソースから時系列で整理。
倭寇とりしまりの海上警備を担当していた対馬領主、宗貞茂が1418年に死去、
相続に伴う混乱で倭寇活動が活発化する。
1419年、対馬の有力者が明に渡航し不在である事を知った太宗、対馬は朝鮮に属すると根拠不明の
主張を掲げ、倭寇征伐を名目にした対馬遠征を計画。
6月19日出航するも逆風で翌日延期。
6月20日昼、対馬来寇、民家を焼き、逃げ遅れた民間人百数十人を惨殺。
6月26日頃、対馬宗氏による反撃で、李朝軍大損害、以降、李朝は占領地域を拡大できないまま宗軍は襲撃戦闘を継続。
6月29日頃、属州化要求を対馬側が拒否
7月3日、対馬側の和平提案を受け、李朝軍が巨済島に撤退。
総合すると、相続時の混乱と、有力者の外遊が重なって防衛力が低下しているであろう対馬に対し、
20倍の兵力で侵略すれば勝利は楽に得られると太宗は思ったようだが、結果的に惨敗して引き上げたようだ。
対馬側兵力800人、戦死20人、李朝側兵力17285人、戦死2500人
(抜粋)正規軍での対戦では朝鮮軍は日本軍に歯が立たなかった。このような弱小ぶりは、
保護された中国人の扱いにおいて「対馬での朝鮮軍の弱小ぶりを詳細に見たことから中国に
返還できない」という記録や、朴実が敗戦の罪により投獄され、李従茂が国民への影響を
理由に免罪となった記録事からも窺える(以上)
こんな国辱モノの大惨敗喫した奴に銅像建てて未来永劫顕彰してやるなんて、朝鮮人ってのはよほど自虐的なんかねw