09/11/01 10:12:34
URLリンク(image.chosun.com)
1909年10月26日哈爾濱(ハルピン)駅で処断された伊藤博文が第3の人物に殺害されたという
主張が日本で繰り返し提起されている。なぜ彼らは100周年をむかえた安重根(アン・ジュングン)
義士の義挙を否認するのだろうか?
日本の主張はインターネット「ウィキペディア」日本語版「安重根」の項目にも出ている。「人身御供
説」というサブタイトルの下、安義士が真実を隠すために自らの身を投じたという内容をのせた。
いったいどういう意味だろうか?
安重根研究の権威、崔書勉(チェ・ソミョン)国際韓国研究院長は「震源地は1942年に出た本一冊」
と言う。「室田義文翁譚」という本で、常陽明治記念会東京支部が出した。室田義文(1847~1938)
はハルビン駅の現場で伊藤に随行した貴族院議員だった。チェ院長は「この本は室田が直接書い
たのではなく、彼の死後に生前の話を集めたもので公信力が落ちる」と指摘した。
この本に登場する室田の「証言」はこうだ。伊藤が受けた弾丸は安義士のブローニング拳銃では
なくフランス製騎馬銃から発射されたという。騎馬銃は拳銃よりは長くて小銃よりは短いカービン
銃をいう。このため、伊藤の身体に撃ち込まれた銃弾三発がすべて上から下方向に向かっている
として、第1弾の場合、肩から入って胸乳首の下に留まったと主張している。これは安義士の位置
では不可能だ。
URLリンク(image.chosun.com)
結局、安重根義士ではないハルビン駅2階の食堂にいた正体不明の「真犯人」が斜めに撃ち下ろ
したということだ。その食堂は格子構造になっていて下へ撃つには絶好の場所だったという話まで
している。チェ院長は「根拠のないねつ造」といった。室田は伊藤の身体にある銃弾が何か見られ
なかったのだ。事件後、ロシアは剖検を建議した。日本は「伊藤公の身体に何をするか」と列車に
死体をのせたままハルビンを離れた。列車が大連に到着した後、随従医師、大連病院長、関東軍
軍医監が集まって会議をした。彼らは「弾丸を取り出すなら手術をしなければならないからその
まま覆っておこう」と決めた。結局伊藤の身体の中の弾丸は誰も見ることができなかった。
ところで伊藤狙撃当時、銃によって負傷した満鉄理事、田中清次郎は自分の足から取り出した銃
弾を法廷に提出し、返してもらった後、東京憲政記念館に寄贈した。この銃弾は拳銃弾丸だ。銃
弾が伊藤の身体を「上から下に貫通した」というのも事実と違うとチェ院長は話した。「伊藤被撃陳
述図」という図にも銃弾が上から下へ向かっているようだが、これは室田が描いた絵だ。チェ院長
が日本外務省で発掘した「伊藤公爵満州視察一件別冊第1冊明治四十一」という文書の中で死
亡診断書として収録された絵と異なる。伊藤の随従医師、小山善が書いたもので室田の絵より信
憑性が高い。(中略=図の説明。こちらの図では3発とも水平に撃たれている)
URLリンク(image.chosun.com)
日本人はなぜこういう主張をするのだろうか?チェ院長は「この主張をする人々は実際に伊藤を
撃った者は、ロシアの秘密組織員だったと見ている。「韓国人のように柔弱で活気のない民族がど
うしてあえて伊藤公を撃つことができたか、という蔑視から出たもの」と解釈した。伊藤が死ぬ前
「犯人は朝鮮人です」という言葉に「バカなやつだ」と言ったという話の出処も'室田義文翁譚'だ。
チェ院長は「伊藤を狙撃した人物が韓人という事実は伊藤の死体を乗せた列車が出発した後に
明らかになったのでこれもまた根拠がない」とした。
ソース:朝鮮日報(韓国語) [Why]安重根義士でない第三者がイトウ<伊藤博文>撃ったと?日本はなぜ…
URLリンク(news.chosun.com)
n&Dep1=news&Dep2=headline1&Dep3=h1_02
関連スレ:【中央日報/その時の今日】帝国主義侵略の先鋒、伊藤博文の心臓が止まる[10/27]
スレリンク(news4plus板)