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■「心やすくおぼしめし候べく候。唐を取り候て、そもじさまの迎ひを参上申すべく候」
(豊臣秀吉)
1592年5月、秀吉が「そもじさま」こと母にあてた書状の一節である。当時、秀吉は
肥前(佐賀県)にいた。朝鮮から「唐」(中国。当時の王朝は明)をめざす日本軍を
統率するためだった。成功を信じて疑わない無邪気な文面とは裏腹に、この出兵は
当時も評判がよくはなかった。秀吉は「渡海して直接軍を指揮する」と言い出したが、
後陽成(ごようぜい)天皇や徳川家康に押しとどめられている。
「日清・日露の戦争で大勝したあとでは太閤(秀吉)を英雄視し、太平洋戦争の結果
これを侵略者扱いにするような人物論では、ちょっと、心ぼそい」。これは秀吉研究の
第一人者だった桑田忠親の一文。だが、その桑田も「日本統一を実現させた秀吉の
自尊心と、日本の国力に対する過信があった」と結論づける。
ただ、明治・大正期の代表的史論家、山路愛山の『豊臣秀吉』(岩波文庫)に「日本軍が
乱暴したりというは非なり。朝鮮の史書にも支那の書にも日本軍よりはむしろ支那兵の
乱暴なりしことを記したるが多きのみならず、日本軍は軍紀厳重にして朝鮮人を懐(なず)
けんとする情あり、その志測るべからずなど『明史』にも記しあり」とある。
せめての救いである。(文化部編集委員 関厚夫)
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ソース:産経ニュース