09/10/04 09:09:03
[中央日報]青い空と涼しい気候、もう本格的な秋だ。私にとって秋は思索の季節という感が強い。
この頃の私は旧韓末に起きた事件を思索している。
来年が韓日併合100年だ。間島問題は今年で100年になったし、安重根義士が伊藤博文を射殺
して100年になるので併合100年の前哨戦としてこれに関連した学術セミナーが韓国内外で活発
に開催されている。
実際には「日帝40年」だが韓国では「日帝36年」といってそれが結局は「日帝35年」になった。
韓民族にとって恥ずかしい日帝時代が可能なら短い期間だったらと思う心情が発現したものと考
える。
だが私は日帝治下期間は「日帝40年」あるいは「日帝41年」でなければならないと考える。すな
わち日帝時代の開始は1910年ではなく1904年2月に韓日議定書が締結された時からだと信じ
るためだ。その後の韓国と日本は1904年8月に第一次韓日協約を結んだ。この時、韓国は日本
が推薦する外交と財務顧問を受け入れて外国との外交は日本政府と協議しなければならないと
いう内容を強要された。この第一次韓日協約は次の年1905年11月に強要されることになる乙巳
保護条約と同じ内容を含んでいた。特に日本が推薦した財務顧問を韓国に置かなければならな
いということは韓国の内政に干渉するという意味だったから事実上1904年8月の時点で日本は韓
国の内政と外交を掌握できる法的土台を用意したのだ。
以後高宗(コジョン)がこれに従わずに密使外交を始め、ロシア・フランス・米国・英国などの地に
彼は密使を送ったがそれが発覚して日本は1905年11月に乙巳保護条約を強要するに至る。
1907年ハーグ平和会議にイ・ジュン烈士などを密使として送り、密書を伝達しようとした高宗の苦
闘はよく知られている。日本に直接抗議できない状況だった高宗は各国に助けを要請したのだ。
ところでこの部分を独島(ドクト;日本名:竹島)問題にも応用することができる。
独島が日本に編入されたという事実を韓国は日本に正式に抗議しなかったため、1905年日本に
よって独島が島根県に編入された事実は国際法上有効だというのが日本の論理だ。これまで、こ
れに対して韓国は当時の日本が朝鮮を侵略する過程であったため抗議できなかったと反論してき
た。しかし説明が具体的ではなく、第三者から見れば簡単に納得は得られない。日本はこのよう
な韓国側の論理的弱点を現在まで利用してきた。
ところが、当時の韓国・日本間の協約などがすでに1904年から韓国を日本の属国とするという内
容を含んでおり、最高権力者の高宗が日本に直接抗議できずに世界各国に助けを要請した。当
然、日本の独島編入に対しても直接抗議できなかったという論理が出てくる。高宗は密書の中で
「皇帝は独立帝権を一毛も他国に譲与したことがない」と書いた。その内容は韓国の主権と領土
を一寸も他国に与えなかったという意味だ。すなわち高宗が独島を含む韓国領土全体に対する守
護意志を世界に知らせることによって日本の侵略に抗議したのだ。
結局、韓国は日本の独島侵略に抗議したわけだ。この秋に私の思索もより一層深くなって行く。
保坂祐二世宗(セジョン)大教授・日本地域学
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ソース:中央日報(韓国語) [人生の香り]日帝治下は35年でない41年
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