09/09/26 19:17:18 U4mDnT6t
そりゃそうだろうな 朝鮮側の資料にも書いてある
三国史記(新羅本紀)
* 紀元前50年 倭人達が兵を率いて辺境を侵そうとしたが、始祖に神徳があるということ聞いて、すぐに帰ってしまった。
* 紀元前20年 春二月に、瓠公を馬韓に派遣して、外交関係を結ぼうとした。
瓠公という人は元は倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称した。
* 14年 倭人が兵船百余隻で海辺に侵入。
* 57年 4代王「脱解尼師今(一云吐解)立。時年六十二。姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生。
其國在倭國東北一千里」脱解は多婆那国で生まれ、その国は倭国東北一千里にあり。
* 59年 夏の五月に倭国と友好関係を結んで修交し、使者を派遣し合った。
* 73年 倭人が木出島を侵して来たので、王は角干羽鳥を派遣して、これを防がせたが、勝てずして羽鳥が戦死した。
* 121年 夏四月に倭人が東の辺境を攻めた。
* 123年 春三年に倭国と講和した。
* 158年 倭人が交際のために訪れた。
* 173年 倭の女王卑弥呼が使わした使者が訪れた。(「二十年夏五月。倭女王卑彌乎。遣使来聘」)
* 232年 夏四月に倭人が金城を包囲。
* 233年 五月 倭兵が東辺を攻めた。
* 249年 夏四月に倭人が舒弗邯、于老を殺した。
* 287年 夏四月に倭人が一礼部を襲う。
* 289年 夏五月に、倭兵が攻めてくるということを聞いて、戦船を修理し、鎧と武器を修理した。
* 292年 夏六月に倭兵が沙道城を攻め落とす。
* 294年 夏 倭兵が長峯城を攻めて来た。
* 295年 春 王が臣下に向かって「倭人が、しばしばわが城邑を侵して来るので、百姓が安じて生活することができない。
私は百済と共に謀って、一時海を渡って行って、その国(倭)を討ちたいが、皆の意見はいかがか?」ときいた。
これに対して、舒弗邯、弘権が「われわれは海戦に不慣れでございます。
冒険的な遠征をすれば、不測の危険があることを恐れます。
王はこれを聞いて「それもそうだ」といった。
つづく