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記事入力 : 2009/09/10 17:01:02
【コラム】「プードル」と「ジャップ」(上)
1956年10月8日、東京国際空港(羽田空港)に車いす姿のハト山一郎首相が現れた。二つの保守政党の合併によって自民党が誕生し、
同党と日本社会党の保革2大政党が争う「55年体制」が成立した翌年のことだ。日本メディアはこの日、空港へ見送りに来た社会党の
浅沼稲次郎書記長(後に委員長)に注目した。
浅沼氏は戦後、社会党の基礎を築き上げたリーダーで、後に右翼の少年により、白昼に刺殺された悲劇の革命家だった。
そんな浅沼氏は、『昭和史 戦後編』(半藤一利著)という本によると、空港でハト山首相を「情熱的に」激励したという。
ハト山首相は同月19日、モスクワでソ連のニコライ・ブルガーニン首相と共に、日ソ共同宣言に署名した。第2次大戦の敗戦国の
日本が、米国などとの平和条約(サンフランシスコ条約)の締結によって主権を回復し、経済的な繁栄を約束されると同時に、
その見返りとして、日本列島を米国の軍事基地として提供するという内容の日米安全保障条約を締結してから、
わずか5年後のことだった。『ハト山家の使命』(板垣英憲著)という本には、ハト山首相の当時の発言が登場する。
「もし、日本とソ連の国交がない状態で、米国とソ連の戦争がぼっ発すれば、日本は戦場になってしまう。今度は日本全国が、
(原爆を投下された)広島のような廃虚になってしまう」。日本はこの年の12月、ソ連の同意を得て国連への加盟を果たし、
国際的な地位を回復した。当時、韓国政府は外務部長官代理を通じ、「自由主義陣営の共通の道義である反共政策に反する
行いであり、商圏の拡大に目がくらんだどん欲な行動だ」(本紙56年 10月 7日付)と反論した。
2006年に公開された米国政府の秘密文書には、1972年8月31日、ヘンリー・キッシンジャー大統領補佐官(国家安全保障問題担当)
がホワイトハウスの会議で行った発言が記録されている。「あらゆる裏切り者の中でも、ジャップ(日本人に対するべっ称)は
最悪だ」というものだ。これは当時の、日本と中国の国交正常化に向けた動きに対する米国政府の不快感が表れたものだ。
日本の田中角栄首相と中国の周恩来首相が共同声明に署名したのは、この約1カ月後の9月29日だった。ニクソン米大統領が
(72年2月に)中国を訪問し、世界に衝撃を与えてから約半年後、そこへ日本が割り込んで、北東アジアの安全保障をめぐる
力関係を逆転させたのだ。
【コラム】「プードル」と「ジャップ」(下)
当時の日本で、親中路線を取る田中首相と対立していたのは福田タケ夫氏だった。だが、福田氏もまた首相在任中の78年、
中国のトウ小平副首相(当時)を日本へ招き、日中平和友好条約を締結した。
これは日本と中国の本格的な交流が始まった原点として、歴史に残る出来事となった。
その福田元首相に師事した小泉純一郎元首相は、2006年6月30日、ブッシュ米大統領と共に、「ロックの帝王」
エルビス・プレスリー(故人)の自宅を訪れた。日本の首相が米国の大統領の前でプレスリーの歌を歌い、
プードルの子どものようにはしゃいでいたとき、中国で外交基盤を固めていた人物こそが、今回の衆議院議員総選挙で
実権を掌握した民主党の小沢一郎代表代行だ。
韓国人は日本に対し、「プードル」のようなイメージを抱いている。小泉元首相のパフォーマンスがあまりにも
強烈だったためだろうか。だが、戦後の外交史を振り返ると、決定的な転換期に必ず「ジャップ」とさげすまれた
日本の姿が見えてくる。それは社会党の浅沼書記長が自民党のハト山首相を激励したことに見られるように、
党派を超えて国策を進めた歴史だった。
政権が交代した後の、日本の外交路線に注目が集まっている。それは米国を重視した外交路線を見直すか否かということだ。
今後のことはだれにも予測はできないが、戦後の日本が米国一辺倒の「吉田路線」を常に修正してきたことは明白な事実だ。
国益のためであれば、あるときは「プードル」になり、あるときは「ジャップ」にもなる。日本はこのように物事を考える国だと
思える。だからこそ、今後の動向を注視しなければならない。日本が態度を変えるたびに、韓国は煮え湯を飲まされてきたからだ。
東京=ソンウ・ジョン特派員
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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