09/09/09 23:45:24
(※かなり長文の記事のため抜粋です)
渋谷区・松涛―。東京でも有数の高級住宅街である。東京でも有数の高級住宅街である。一帯にはかつて紀伊徳川家の下屋敷が
あり、明治期に旧佐賀藩鍋島家が茶園を開いた跡地には、区立鍋島松涛公園が広がっている。「贅沢・無駄遣い」のそしりを免れるため、
主が入居を拒否した都知事公館もある。
この周辺を昨年秋以降、報道陣がたびたび訪れるようになった。取材対象は、商工ローン大手・SFCG(旧商工ファンド)の大島健伸
(けんしん)元社長(61歳)。'03年には約1億1000万円、'04年には約1億4000万円の税金を納めて高額納税者名簿に名を連ね、
その頃の推定年収は3億円前後と見られる億万長者だ。
しかし、都知事公館同様、この豪邸も今年5月、主を失った。2月にSFCGが破綻し、破産管財人から引き渡しを求められたからだ。
■上野アメ横で少年時代を
破産の危機が訪れた昨年秋、借主や連帯保証人に文書で一括弁済を求め、貸しはがしを試みるもあえなく失敗。まさに万策尽きた感
のある大島はかつて、社内向けに自伝『2010年 ザ・パワービジネス』を著している。
「汝の欲するところを徹底的に行え」
フランソワ・ラブレーの小説の一節から始まるこの自伝には、2010年でのSFCGの「あるべき姿」が記されている。(以下、<>内は同書から
の引用)。
<社員数3万人。経常利益3000億円。102社を擁する国際的な企業グループ>
この壮大な野望は脆くも崩れ去ったが、その原点には、大島の出自が影を落とし、幼少期に読んだというロスチャイルド家の伝記が
影響を与えているようだ。
1948年2月26日生まれ、というのが大島の戸籍上の誕生日だ。しかし、本当の誕生日は4月4日だという。
<「男の子だから、少しでも早く学校へ行った方がいい」との両親の判断から、早生まれにされてしまったのです。終戦から3年目という
混乱期だったので、戸籍上の数字を簡単にできることもできたのでしょう>
大島は父・正義と母・淑子の間に、7人兄弟の長男として大阪府に生まれた。彼が2歳の時、一家は上野のアメ横に移住する。
食糧統制下の時代、戦後のアメ横一帯には、安価な食料品を売買する闇市が広がっていた。一家を率いて上京した20歳そこそこの
父・正義も、商売を始めたという。
しかし、上野界隈には、大島家が手掛けていた商売の実態を知る人は意外なほど少ない。その理由を別の商店主が語る。
「アメ横は日本人と在日朝鮮人、中国人が入り乱れて出来上がった。そのため、『闇市時代に不法占拠があった』と言って日本人と
在日の人たちが対立していたこともあり、当時は商売上、交わることはあまりなかったのです」
実は、アメ横で大島家を知る人の間では、彼らのルーツが在日コリアンであることは周知の事実だ。
大島は'65年12月、17歳の時に、父親の兄弟5人の家族とともに日本に帰化した。大島の朝鮮名は丁健伸(ジョン・コンシン)。大島の
伯父は、今も在日本大韓民国民団台東支部の顧問を務めている。
大島の親族が語る。
「正義さんは子供たちに一族のルーツをしっかりと教え込んでいた。正義さん自身も在日であるという意識が強かったようです。それは
当然のことでしょう。帰化後、一族は同胞から『国を売った』と悪口を言われたこともあった。思春期だった健伸さんの胸中たるや、察するに
あまりあります」
在日2世としてアメ横で育った大島は、起業後もそのアイデンティティを堅持していたフシがある。前出のSFCG元幹部が語る。
「ウチでは融資実行の際、日付がわかるように債務者にその日の新聞を持たせ、使い捨てカメラで撮影してくるのが慣例でした。
ある日、まだ若い社員がそのことを『バカチョンカメラで撮影してくればいいんですね』と言った。それを聞いた大島は、烈火のごとく怒ったのです。
その社員に詰め寄って、『バカというのはアホだという意味だよな。じゃあ、チョンはどういう意味だ!』と。真っ青になって黙り込む若い社員に
対し、大島は『意味もわからず言葉を使っているのか!』と怒鳴りつけていました」
(以下略。全文は週刊現代誌面でどうぞ)
ソース(週刊現代 9/19・26号 52~57ページ) URLリンク(online.wgen.jp)