09/09/03 22:22:55
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「刺客・高永根の明成皇后復讐記」出版
(ソウル=聯合ニュース)キム・ユング記者=閔(ミン)氏家の使い走り出身で宮に出入りし、明成(ミョンソ
ン)皇后(閔妃)の寵愛を受け、従二品の慶尚左道兵馬節度使まで上がった高永根(コ・ヨングン)。
爆弾テロ事件にかかわって日本に亡命した高永根は明成皇后殺害事件の核心人物である禹範善
(ウ・ボムソン)が日本にいるという情報を入手して彼に接近した。殺害事件から8年過ぎた1903年11
月24日午後7時頃、広島県呉市の自宅に禹範善を招いた高永根は召使いと一緒に禹範善の首とあ
ご周囲を何回も刺し、頭を金づちで殴って殺害した。
「乙未事変の時、禹範善は国母(明成皇后)を殺害して死体を焼く極逆大悪で天下の公憤を買えり。大
韓の臣下になった身で、天を共にいただくあたわず、今日、日本の広島県呉市で怨みを晴らせしこと
を上に申し上げ、下に知らせる」高永根は朝鮮の大臣らに送ろうと書いた手紙に自分の殺人動機をこ
のように書いた。彼は手紙を持って警察に直ちに自首した。
記者出身の李ジョンガク日本中央大学兼任講師が書いた「刺客・高永根の明成皇后復讐記」(東亜日
報社)は日本外交文書と当時の日本新聞報道など資料を土台に明成皇后殺害事件を暴いて殺害に
加担した禹範善を高永根が殺害した背景と以後の裁判過程などを概観した本だ。
朝鮮の訓練隊第二大隊長だった禹範善は1895年10月8日、駐韓日本公使、三浦梧楼の指揮で日
本浪人などが明成皇后を殺害しようと景福宮(キョンボックン)に乱入した時、兵力を率いて参加した。
禹範善が訓練隊兵力を動員したため、日本の明成皇后排除計画の成功を可能にし、禹範善は明成
皇后の死体を焼いて埋葬することも指示したと著者は主張する。
著者は高永根について、彼が日本に亡命し、窮乏した亡命生活から抜け出すために自発的に刺客に
なった可能性が高いと話す。高永根が禹範善を殺害した後、高宗(コジョン)は日本側に高永根に善
処するよう頼んだ。高永根は5年間の服役を終えて1909年、韓国に戻り、高宗と明成皇后が合葬さ
れた洪陵(ホンヌン)の陵参奉になる。
陵参奉であった高永根が朝鮮総督府に隠れて洪陵の陵碑をたてた話、禹範善の息子のウ・ジャンチ
ュン博士が「種なしスイカ」を初めて開発したと間違って知らされた理由なども興味深い。
ソース:聯合ニュース(韓国語) <明成皇后怨みを晴らした刺客コ・ヨングン>
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