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895年に起きた明成皇后(日本での呼称:びん妃)殺害事件に関し、誤解されているこ
とがある。それは、この事件が無知な日本の浪人らによる偶発的な犯行だったとするも
のだ。だが、事件の実行犯たちの顔ぶれをみると、それをはっきり否定できる。実行犯の
中には米ハーバード大や東京大を卒業したエリートがいるかと思えば、後に日本の閣僚
を務めたり、国会議員として10回当選したり、外国の大使を務めた人物も少なくない。
明成皇后殺害事件の実行犯たちの中でも、中心となったのは熊本県出身者たちだった。
伊藤博文と並ぶ日本の政界の実力者だった井上馨、朝鮮駐在の日本公使だった三浦梧
楼らがシナリオを練り、漢陽(現・ソウル)にあった日本の新聞社「漢城新報」が組織ぐるみ
で犯行に関与した。漢城新報の社長、安達謙蔵や主筆の国友重章も熊本県出身者だった。
景福宮の明成皇后の部屋に乱入し、直接手を下した家入嘉吉らの故郷もまた熊本県だっ
た。
1895年10月8日に起こった明成皇后殺害事件は、世界史でも珍しいほど残忍で野蛮な
事件だった。「あちこちで“びん妃はどこにいるんだ!”と叫ぶ声が聞こえた。暴徒たちは
震えている女官たちのうち、容ぼうが美しい二人を惨殺した。そのうちの一人のこめかみ
に、天然痘の痕がうっすらと残っていたのを見て、びん妃であることを確認した」。実行犯
の一人は後日、「本当にこのことは書きづらい」と前置きした上で、明成皇后を惨殺した後、
言葉では言い表せないほどの残虐な行為をしたことを告白した(角田房子『明成皇后-
最後の朝』)。
日本は事件後、自国の責任を徹底的に隠ぺいしようとした。明成皇后の遺体を燃やし、
興宣大院君(朝鮮王朝第26代国王・高宗の父)と明成皇后の権力闘争の末に起こった事
件だ、と宣伝した。広島地裁は三浦梧楼ら56人の容疑者全員に対し無罪を言い渡した。
その結果、現在も多くの日本人は、日本政府と民間人が結託し、朝鮮の王宮へ乱入して
王妃を惨殺したという事実を知らない。また、ほとんどの歴史教科書は明成皇后殺害事件
について1行も記述していない。
テレビ朝日が24日夜のニュース番組で、明成皇后殺害事件の全ぼうや、実行犯たちの子
孫が110年ぶりに韓国を訪れ謝罪する場面を盛り込んだ特集を放送した。熊本に住む実行
犯の子孫たちが05年に韓国を訪れ、高宗の子孫たちに謝罪した場面は、日本のほかのテ
レビ局でも放送しようとしたものの、右翼の目を気にして先延ばしにしてきた。明成皇后殺
害事件は今も、韓国人たちの対日感情の背景として生き続けている事件だ。この事件に対
する謝罪は、実行犯たちの子孫だけがすべきことではない。歴史が生んだ大きな傷は、そ
の真実に目を向ける勇気が生まれてこそ、初めて癒やすことができるものだ。
URLリンク(www.chosunonline.com)
【日韓】日本の‘恥ずかしい歴史’明成皇后殺害事件 24日報道ステーションで特集放送[08/24]
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