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涙があふれた。99年7月30日、夏の山口大会決勝。勝利の瞬間、徳山市野球場(当時)の
マウンドで、山口県立久賀(くか)のリリーフ投手だった新山晴久さん(28)は「これで終わった」と
ホッとした思いでいっぱいだった。地元、周防大島の期待に応えられたから。
夏の甲子園の初戦では50台近いバスが向かった。バスの応援団に向け漁師は大漁旗を振った。
トラック運転手たちも甲子園に寄り道した。スタンドを埋めたのは約6000人。「島が空っぽになった」。
1962年春以来の甲子園。負けたが歴史を刻んだ。
潮の香りの中、甲子園球児が練習したグラウンドで、今は9人が汗を流す。07年秋に母校の
監督になった新山さんの姿もある。ただ校名は「周防大島」に変わった。久賀は島内の別の
高校と統合、08年度末をもって甲子園出場校の名は消えた。
「時代の流れだから。残念だが引きずっても仕方ない」。新山さんは割り切る。周防大島は瀬戸内海で
3番目に大きいが、少子高齢化に悩む。人口約2万人(09年3月末)。10年前の甲子園出場のころと比べ、
14歳以下の人口が約3割減った。
変わらないのは「高校野球は地域に支えられないといけない」という信念。野球部は学校周辺を掃除し、
地域の行事に参加する。
「野球部かい? 応援しとるけん」。部活動の帰り道に、主将の寺内涼太君(2年)はお年寄りに声をかけられる。
島出身ではないが身にしみる。部員9人のうち「島の子」はわずか3人になった。それでも「恩返し」の意識は根付く。
島出身の岡原大輔君(1年)は「島から甲子園に行きたい。若者が盛り上げないと」。この春、島の子は増える予定だ。
「僕らの時は甲子園出場が最終目標だった。今度は甲子園に出て、勝利したい」。新山さんはグラウンドを見つめた。
島の人も口々に言う。「あの夢をもういっぺん。新山君に頑張ってもらってね」
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