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今やサッカー日本代表のゲームメーカーとして絶対的な選手となった遠藤保仁だが、
現代表の発足当時、彼のマスコミの扱いはひどいものだった。
ある日、彼が激怒する事件が起きた。
06年ドイツW杯のメンバーに選ばれながら、フィールドプレーヤーで唯一出場機会が
なかった遠藤。しかし、その年に発足したオシムジャパンでは中盤の核に指名された。
これに対し、冷ややかな目を向けるスポーツ紙記者も多かった。
「当時のオシムジャパンはとにかく小兵の集まりでした。スター選手もいなければ、
実力者もいない。目立っていたのは闘莉王ぐらい。その中でオシムが遠藤をボランチに
固定していたことで、スポーツ紙記者らの間では『遠藤なんて、しょせん小野、小笠原、
稲本の控えじゃないか』と囁かれていたんです。この言葉が、いつしか遠藤本人の
耳にも入っていたようなのですが、彼はマスコミのインタビューに平然と答え続けていました」
(スポーツ紙デスク)
やがてオシムが提唱する走るサッカーには欠かせないキーマンとなり、
所属するガンバ大阪でも中心選手としてアジアを制覇。マスコミを実力で黙らせたのである。
しかし、当時、彼は怒りで身が引き裂かれそうな屈辱を味わっていたという。
遠藤の知人がいう。「表向きは気にしていない素振りをしていたが、実際は違う。
彼の根底には欧州組コンプレックスが確実にあった。『なぜオレだけ、欧州から
声がかからないのか』『欧州組とオレはどれほどレベルが違うのか』そう自問しては
頭を悩ませていたんです。遠藤はナイジェリアユースで準優勝をした79年組の一人ですが、
その中でもっともスタミナがある。彼は06年から『欧州組にはないものを』とスタミナ強化に
取り組んできた。その成果が今、現われている」
岡田ジャパンでも引き続き中盤の舵取り役として君臨し続ける遠藤は、
影の努力家でもあった。 (谷本雅顕)
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