10/02/26 08:48:23 t4yeXoaJ0
(承前)スポーツにはドラマがあるが、あくまでもそれは競技の中の話である。
石原慎太郎が、東京オリンピック陸上唯一のメダリストである円谷幸吉を翼賛し、
男子フィギュア史上初のメダリストである高橋大輔を腐すのは、
円谷には自殺というドラマがある一方で、高橋にはスポーツ部分以外でのドラマが見えないからだろう。
石原にとっては高橋大輔は「道徳を知らず、国を背負っていないゆとり教育の若者の一人」であるかのように見えているのだろう。
ならば、「道徳を知って、国を背負う」とはなんだろうか?
彼らの競技や演技は、彼らだけのものではないのかもしれない。
彼らの勝利や敗北だけなら、私たち日本人と共有されてもいいのかもしれない。
だが、彼らの人生は決して日本人に共有されるべきではない。彼らの人生は彼らのものである。
道徳を負うことも、国を背負うことも、それは決して「彼らの命まで含めて丸ごと、日本人に信託すること」などではないハズだ。
円谷幸吉の死を、三島由紀夫は「美しい自尊心」「崇高な死」などと論じた。
だが、たとえ円谷にとってその死が崇高なものであったとしても、
「日本国民が円谷に国家を無理に背負わせ、円谷を殺した」という事実から、日本人が逃げられるはずもない。
そうした現実を「ドラマ」と論じて直視せず、今現実に活躍しているスポーツ選手たちにまでドラマを押し付けようとする人間が、
行政の長となって立つ東京という地に、オリンピックが招致されなくてよかったと、本当に心から思う。
URLリンク(news.livedoor.com)