【差異】熊野純彦 Pt.2【隔たり】at PHILO
【差異】熊野純彦 Pt.2【隔たり】 - 暇つぶし2ch280:考える名無しさん
14/10/05 11:23:46.23 0
 有か存在か。という辺りに拘っているのはある年代以上でしょう。創文社版
全集で読んできた世代にとっては有は異和感はないと思う。もちろん存在にも
ない。こだわっているのは大学や派閥に入っている人間でしょう。こういう
問題にこだわっていることも大学人の特徴でしょうね。外部にとっては
一向に重大な問題ではない。
 
 著書で有を批判していた人間もいるが、存在だって相当分からん。この板
でハイデッガーを語ってる人間の話読んでるだけでいかに分かりにくいか
察することができる。存在という語でも有でも分からんものは分からん(笑)と
いう単純明快な事実があるわけ。

281:考える名無しさん
14/10/05 11:26:48.48 0
有って存在の事だったのか。
現有って現存在の事だったのか。

282:考える名無しさん
14/10/05 11:40:45.34 0
自然な日本語を心がけるなら、「現存在」は、我々がそれであるところもものなの
だから、「有る」や「存在する」というより、「いる」の方が普通なんですよ。
古語なら、「有る」が「いる」を包含していたから、「有る」でもいいんだけど。
「存在者」については、ハイデガーがあれほど「道具性」に拘っているのだから、
普通に考えれば、「有る」でしょう。まあ、現存在も存在者として存在するのだから、
「存在する」や「有る」に統一したいということになるのだろうけど。
でも、ここらへんの困難を安易に訳語の統一で誤魔化さずに考えることが、
哲学をすることになる。

283:考える名無しさん
14/10/05 13:14:20.83 0
>>280
わからないことをわからないと言うのは、哲学の世界ではタブーだ。
ウィトゲンシュタインだって全部わかるわけでもない。

わからないことはわかるまで考えるか、わかった振りができるまで自分をごまかすかのどちらかが正当な哲学者だ。
わかったところで、たいしたことを言ってるわけじゃなかったりすることがほとんどだから。

284:考える名無しさん
14/10/05 16:45:48.69 0
 有 sein と訳した張本人 辻村公一って2010年に亡くなってたのね。遅れ
ばせながら謹んでご冥福をお祈りさせていただきます。

 未だに辻村が訳したハイデッガー本読んでて、高齢のこととか頭になかっ
た。享年88歳だったようだ。初めて読んだ『Sein und Zeit』が河出書房 
世界の大思想版で辻村の翻訳だった。その時から有 sein で訳しててそれに
異和感なく入って行けた。>>281の言う通り現有 Dasein な訳だ。それが
創文社版全集でも踏襲されている。

>>283
>わからないことをわからないと言うのは、哲学の世界ではタブーだ。
>わからないことはわかるまで考えるか、わかった振りができるまで
>自分をごまかすかのどちらかが正当な哲学者だ。

 本が分からないならどこがどういう風に分からないかを自覚し、そこを
自分で格闘すること。具体的には著者の提出したがっている論理や存在イメ
ージをとにかく想像すること。それを納得いくまで続ける。それしかない。
一番良くないのは「分からないのは恥だから分かった振りしてよう」などと
先回りし、ハッタリしてしまうことだよ。2ch.にもよくいるみたいだが、
そんなことしても何度かレス交わすうちにきちんと読書してる人間にはばれ
てしまう。

 >>283のハッタリの奨めって一体何?誰の影響?(笑)

285:考える名無しさん
14/10/05 16:52:46.04 0
>>284
 評論でいう「哲学」って考えれば、スッキリ納得できる

286:考える名無しさん
14/10/05 17:02:38.46 0
>>284
丁寧なレスありがとう。

よく、哲学の訳書には解説がついてる。
その解説でも、わかって書いてる人はむしろ少ないとしか思えない。
正直な人は、自分にはよくわからない、とちゃんと書いている。

自分でわかったつもりになるのと、わかった振りをすることに、そんなに大きな差はないと思うよ。
「自分で格闘すること」なんて格好のいいこと言ってること自体が、「わかった振り」と同じことじゃないかな。

きちんと読書してる(つもりの)人間が、最もわかってない人間、ということはよくあることだ。
カニは自分の甲羅に合わせて穴を掘る、というのは一人で読書しようと、研究室で討議しようと、同じことだよ。

287:考える名無しさん
14/10/05 19:02:03.41 0
よく分らなくても、一応、保留付きで分かったかのように受け入れて、
読み進めるのは重要だと思うね。よくいるタイプは、自分が分ること
と分らないことを選別して、分らないことは完全に拒絶して、
切り捨てる人間。そういうタイプの人間が中間管理職的な地位に
ついて権限を与えられると最悪。上からの指示は理解できなくても
盲従して上意下達、下からの提言は、自分が理解できなければ、
罵詈雑言を浴びせて、上の人間に理解できないことを提示するとは
とんでもない不届き者だということになる。

288:考える名無しさん
14/10/05 19:07:32.08 0
>>285ハッタリはツイッター哲学ナンパで効果大
ツイッターは自分を賢くみせたい連中のためのビジネスだ

289:考える名無しさん
14/10/05 20:48:38.26 0
>>286
 「分かった」自意識というのは他人から見て「それは分かったつもり
でしかない」となる可能性はいつもある。

 ところで「分かった振り」となると、「分かった」という自意識
は必要ない。

 両者は「分かった」という意識の有無で違う。

 前者にはハッタリは含まれてはいない。ただ「分かった」ということ
で読み方を開陳することで批判にさらされて行く。そこで結局は
「分かったつもりでしかない」ことが本人に分かるかもしれない。

 後者では「分かった」という意識さえないまま「分かっている振り」
がされることになる。
 「振り」というのは自発的な虚言や演技を意味する。両者を一緒に
はできない。

 自身が「分かった」という意識が持てるまで。それさえ非常な労力
と想像力が必要であって、そこには「自分で格闘すること」が必須な
場合がある。それでさえ最終的に無理解が明らかになる可能性はいつも
ある。しかしそこで無理解が明らかになるとしても、それは「分かった
振り」とは明らかに違う。装いや演技は入っては来ていないからだ。

 貴方は対他によって無理解が明らかになる場合と、最初から無理解
が意図的に隠匿され外見だけ装われている場合とを混同している。
だから両者が同じなどと言えるのだよ。

290:考える名無しさん
14/10/05 21:10:38.82 0
>>289
人間の心理を単純化してはいけない。
人間には、努力をしたから成果があるはずだ、という思い込みも、自分は理解力があるので簡単に理解できる、という思い込みもある。

どちらも「分かった」という気持ちを持つことに変わりはない。
そして、どちらも「分かってた振り」をしているに過ぎないともいえる。

「振り」に限らず、自覚というのは、あいまいなものだ。

実生活での「虚言や演技」は、自覚なしになされていることがほとんどだ。
なにより、「分かったつもり」でも「分かった振り」でも、中身に差はない。
「分かった振り」から、新たな視点が獲得されることすらある。

まして、相手が「分かった振り」だと決めつけようとする「分かったつもり」では、誤謬の固定化しか残らない。

291:考える名無しさん
14/10/05 21:15:29.20 0
私は、>>286ではないけど、芸でも学でも何かを修得しようとするならば、
「できる振り」をするのは必要でしょうね。確か、本居宣長もそいう趣旨
のことを言っていたと思う。最初は形を真似ているだけなので、できる
振りをしていることになるが、繰り返しているうちに体得すれば、振り
をしていることが意識から消える。それが芸や学が身に付くということ。
ところが、身に付いたと思っているうちに、長いこと経つと再び違和感が
出てくることになる。状況と自身の関係は流動的だからね。そこで
また基礎を再構築することになる。その繰り返しですよ。

292:考える名無しさん
14/10/05 21:48:10.35 0
>>290
 自分で「この本が分かった」意識に「振り」はない。
 「分かった振り」には自ら装い虚偽する意識が入っている。

 こと読書に関する限り「分かった振り」と単に「分かった」という
意識は虚偽の意識・作為が含有されるか否かで決定的に異なる。これは
内的な倫理、対他的モラルの問題だ。

 この場合、作為が為される意識は分かるが貴方に拠れば作為の
無意識もあるということらしい。それを自己欺瞞というのだよ。

 貴方は「分かった」という気持ちと「分かった振り」を同じとしてい
るが、私的経験から言って「分かった」という意識がない「分かった
振り」など軽蔑するしかないし「振り」などしたことはない。

 貴方は実生活での虚言や演技は自覚なしにしばしばなされると言うが
貴方にとって虚言や演技とはその程度の
ものであって、相手に対するモラル、内的な倫理は稀薄だと貴方が
白状したも同じだよ。そういう恥ずかしいことを何故言うのか
よく分からないが。「知らずに嘘をついていた」となどという人間
は日常的に自己欺瞞をしているのと同じことさ。分かっているのか?

293:考える名無しさん
14/10/05 21:58:13.04 0
>>291
 ギターの難しいフレーズが「弾ける振り」をし、実際に音が出せた
のならそれは「弾けた」ということ。セザンヌの絵画を「描ける振り
」をし、実際に再現できたなら「描けた」ということです。芸は
その辺は単純です。「振り」というのはこの場合実践的なものを
意味する。「振り」そのものが目的であり、よってそこに「振り」を
することの倫理やモラルは関係ない。思考の把握と芸の上達とは
「振り」の必要性で違う。

294:考える名無しさん
14/10/05 23:51:19.66 0
親密な理解というのは、抜け出しがたい穴に陥りがちですよ。
たとえば、自分の子供については、自分が苦労して育ててきたの
だから、赤の他人より自分の方がはるかによく理解していると
確信している親が世の中ではほとんどでしょう。だから、
自分の子供が発するメッセージは、自分が他人よりも絶対に
よく分っているはずだと思い込む。ところが、まさにその親密な
関係のために、他人には外から容易に分ることがまるで見えなく
なってしまう。しかも、見えてないことを他人から指摘されても
絶対にそれを受け入れることができなくなってしまう。

295:考える名無しさん
14/10/06 00:09:21.72 0
私はそういう本人が「分っている」と揺るぎなく確信した無理解というものを、
自分の母親と兄の関係から知っている。互いに交わす「言葉の意味」をそれぞれが
よく「分って」いたが、それでいて、その言葉や態度が相手にどう受け止められて
いるのかを互いにまるで理解していなかった。互いの関係を第三者の立場から見る
ことができない人に言葉で何を指摘しても、その指摘はその人を逆上させること
にしかならない。テキストを親密に「分っている」人も同じような罠に陥る
可能性には常に警戒しなければならないでしょう。

296:考える名無しさん
14/10/06 00:32:03.94 0
哲学の歩みにおいて「分った」という確信は、最も警戒すべき状態でしょう。
自分が「分った」と感じたときには、「自分は分ったつもりになった」と
常に思い直したほうがいい。「分ってしまった」のに「分らない振り」をする
のは不誠実な態度ですが、「分ったつもりでいる」ことを意識するのは、
謙虚さというものですよ。

297:考える名無しさん
14/10/06 00:55:18.30 0
>セザンヌの絵画を「描ける振り」をし、実際に再現できたなら「描けた」ということです。

いや、セザンヌの振りをして、セザンヌの絵画を偽造したことにしかならないですよ。
セザンヌの技法を真似して、誰が見てもセザンヌが描いたとしか思えないような絵画
を創作できたなら初めて、セザンヌの技法を盗んで修得した、つまり、自分のものと
したことになる。

298:考える名無しさん
14/10/06 06:27:04.52 0
 テキストをよく分からないにもかかわらず「分かった振り」していくことの
作為・虚偽・不誠実について私は俎上に上げており、よって内的な倫理・
対他的モラルと言っている。
 無作為な虚言というのは言葉の矛盾であり、無作為とは即自的な存在。
虚言とは対自的な存在。そこで自己欺瞞が入っているか、でなければ虚言症
すなわち病んでいるのか。どちらかしかない。

 分かったつもりが実は良く分かってはいなかった…などはあり得ること
で反論はない。またその問題には内的な倫理や対他的モラルは関わっては
こない。関わっては来ないので私の言う問題ではない。ごっちゃにしては
いけない。

299:考える名無しさん
14/10/06 07:51:17.48 0
では、日本人が相手の話を聞きながら頷くことや、投げかけられた質問に
対して「はい」で応えることをあなたはどう理解しているのでしょうか。
分っていなくても頷き、質問に肯定的な答えを与える意図がなくても
「はい」と答える慣習をもってして、日本人は表層的に相手に合わせる
ことにばかり気を使って、「作為・虚偽・不誠実」で「対他的モラル」
がないと考える欧米の人間は多い。あなたの主張はそいう「対他的モラル」
に基づいているように私には見える。ところが、そのような「対他的モラル」
論は、まさにハイデガーの相互共存在(Miteinandersein)の対極にある
ように聞こえる。あなたは自らの言葉が相手に与える、振幅のない、
狭量な印象を「分って」いるのでしょうか。

300:考える名無しさん
14/10/06 09:28:33.11 0
すげー狭量な問い詰めw


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