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- 暇つぶし2ch1:オリエンタルな名無しさん@\(^o^)/
15/03/29 17:36:23.47 2qMYpUGT.net
昭和12(1937)年、当時の中華民国の首都・南京を占領した日本軍が、約6週間から2カ月間にわたって多数の敗残兵や住民らを
殺害したとされる「南京事件」。犠牲者の規模や事件の存否を含めて論争があるが、中国は犠牲者数を30万人と主張、日本軍の〝蛮行〟
として声高に喧伝している。しかし、陥落直後の南京にいた日本軍の元兵士に取材すると、「南京大虐殺30万人説」とは異なる様相が浮かび上がる。
「陥落後の南京は和やかだった」「虐殺はでっち上げ」-。「反日」という政治的思惑を帯びた中国の攻勢に負けず、元兵士らの証言をはじめ当時の
史料や状況を冷静に検証し、歪曲(わいきょく)・誇張に満ちた歴史を是正する必要がある。「日本を取り戻す」を旗印に政権を奪還した
安倍晋三首相は2月、南京事件に対する海外からの誤った批判に正当な理解を得るよう発信していくと明言した。
この「歴史戦」に敗れれば、日本の名誉は永遠に汚され続ける。
「城内に遺体はなかった」
「城内は空っぽでした」。昭和12年12月13日の南京陥落後、南京城に入った城光宣(じょうこうせん)さん(99)に昨秋、
城内の様子を尋ねた際の第一声だ。
兵士はおろか、住民の姿さえいない無人地帯だったというのだ。住民たちは、欧米人らでつくる国際委員会が城内に設けた非武装中立地帯
「安全区」に逃げ込んでいた。城さんは熊本で編成された陸軍第6師団歩兵第47連隊に所属する獣医務曹長。
第6師団も加わった南京攻略戦の戦闘には直接参加していないが、戦闘部隊と行動をともにし、間近で様子を見てきた。
南京は他地域と同様に外敵の侵入を防ぐ目的で周囲を堅固な城壁で囲まれていた。城内の面積は約40平方キロメートルと広大だった。
12年12月10日に始まった南京総攻撃。第6師団は南京城南側から攻撃に加わった。
「砲で徹底的に敵をたたいて、収まったころ、壁にはしごをかけて日本の兵隊がよじのぼって占領していったとです」
城さんは77年前の様子を克明に語った。城内で中国軍の遺体を目撃したかどうか尋ねると、首を横に振って否定した。
それでも上海から南京まで進軍する途中では道端で中国軍の遺体を目にしたという。
「そりゃ交戦しながら進むけん、こっちもあっちにも遺体はありました」
南京への進軍途中にも「日本軍は虐殺行為を働いた」とも言われるが、城さんは「女や子供、年寄りの遺体はみたことはなか」と明確に否定した。
南京攻略時の師団長は戦後の南京軍事法廷で、「南京虐殺の責任者」との罪で戦犯となり、処刑された。
虐殺はあったのか否か。同様の質問を繰り返したが城さんは憤りを交え、同じ答えを繰り返した。
「30万人も虐殺したというのはでっち上げですたい。人がおらん以上、虐殺があるはずがなか」
日本兵相手に商売も
《日本軍は南京占領直後から1カ月で2万の強姦事件を起こし、6週間で20万人を虐殺し、暴行や略奪の限りを尽くした》
戦後の東京裁判判決はこう認定した。さらにこうも断定した。
《何ら口実もないのに中国人男女や子供少なくとも1万2千人を最初の2、3日で殺害し、死体は大通りに散乱した》
元兵士が見た南京はどんな様子だったのか。
「とても戦争中とは思えなかった。南京は誠に和やかに尽きるという印象でした」。
占領後最初の6週間の一時期を城内で過ごした元海軍第12航空隊の3等航空兵曹、原田要さん(98)はこう振り返った。
陥落後、城内の飛行場に降り立った原田さんの印象に残るのは、日本兵を相手に露店で商売を始めるなど日常の生活を営む住民らの姿だった。
この証言には重要なポイントがある。陥落後間もない城内では、すでに住民による露店が立っていたという点だ。
南京攻略戦で城内に残った住民らは一時、非武装中立地帯の「安全区」に逃げ込んだが、日がたつにつれ安全区から出てきて平穏さを取り戻している。
原田さんの目にはそう映った。
>>2 URLリンク(www.sankei.com)



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