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記事入力 : 2016/01/10 05:01
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▲四ツ塚古墳(群馬県)の周辺に立てられていた埴輪(はにわ)。高さ115.8センチ。東京国立博物館所蔵。/写真=国立慶州博物館提供
腰に大きな剣を提げた男性が堂々と立っている。つばの丸い帽子をかぶり、耳にはとても大きな飾りを付けている。高さは115.8センチ。襟を高く立てた上着、上部が丸く膨らんだズボン…。当時の礼儀に合わせて着飾った男性を表現した、6世紀の日本の埴輪(はにわ)だ。
日本の古墳時代の遺物が、慶州に大集合した。国立慶州博物館(李栄勲〈イ・ヨンフン〉館長)で先月末開幕した「日本の古墳文化」特別展。昨年の韓日国交正常化50周年に合わせ、日本の奈良国立博物館と協力し、日本国内の九つの機関から出品された380点を展示している。日本の国宝は29点、重要文化財も197点に上る。当時の韓日交流を示す韓国の文化財20点も、比較資料として併せて展示されている。
日本の古墳時代とは、3世紀半ばから6世紀後半まで、古代の大型墓が集中的に造成された時期を指す。当時の日本は、先進文化を受け入れるため新羅・伽耶・百済などと活発に交流していた。李栄勲館長は、展示の意図について「韓国の古代文化が日本列島に影響を与えたということはよく知られているが、当時の日本ではどのような姿で展開していたか、韓国に紹介する場はほとんどなかった」と語った。
展示は、古墳時代を前期、中期、後期に分けて行っている。古墳時代前期は、前方後円墳が整然とした、画一的な形態を備えていた時期。奈良の黒塚古墳から出土した青銅鏡、東大寺山古墳から出土した石の腕輪など、呪術的な役割を有した副葬品を見ることができる。
中期の5世紀は、同時代最大の古墳が造られた時期だ。青銅鏡や石の腕輪が減る一方、よろいやかぶとが登場した。4世紀後半の日本は新羅や伽耶から鉄を輸入し、5世紀からは鉄器を作るための「鍛冶具」を利用して自ら鉄器を作った。新羅で作られたと推定されるくら・あぶみなどの馬具も、この時期に出現した。展示場中央にぬっと立ち並ぶ大型の埴輪が、展示のハイライト。古墳文化を代表する埴輪は、当初は円筒形だったが、やがて人・動物・椅子・家などさまざまな形態のものが登場した。『日本書紀』には、埴輪の由来について「殉葬の風習があった大和政権時代、土の中に埋められた人々の泣き声を聞いて王が悲しみ、生きた人の代わりに土で作った人を埋めた」という記録がある。
鉄器や馬具、土器や金属製品など各種の副葬品には、当時の活発な韓日交流の痕跡が残っている。最後の見せ場は、藤ノ木古墳から出土した金銀の装身具や華麗な馬具。精巧な鳳凰(ほうおう)の飾りが刻まれた馬の帯飾り(国宝)など、三国時代の馬具の影響は明らかだ。
展示に向けられた韓日の学者の関心は熱い。とりわけ日本の学者は「日本国内でも、古墳時代の遺物がこれほどの規模で集まったことはない」と、展示場を訪れている。遺物中心で分かりやすく、一般観客の視点から見ても興味深い内容になっている。展示は2月21日まで。
慶州=許允僖(ホ・ユンヒ)記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版
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