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1950年代初頭から1965年の日韓国交正常化まで、日本近海では韓国による日本漁船の拿捕が相次いだ。韓国に抑留された日本人船員はおよそ4000人。
彼らには収容所での凄惨な仕打ちが待っていた。ほとんど伝えられることのなかった彼らの声を紹介する。
1952年1月18日、韓国初代大統領・李承晩は突如、日本海と東シナ海の公海上に海域線を設置すると宣言した。
俗にいう「李承晩ライン(李ライン)」(※注)が国際法無視の暴挙であるのは明白だが、韓国は島根県・竹島を一方的にライン内に取り込むと、島と周辺海域の実効支配に乗り出したのである。
【注/李承晩の「海洋主権宣言」によって制定。韓国はこの域内の水産資源や鉱物に対する国家主権行使を宣言した】
李ラインが設定された当時、日本の海上保安庁には重武装した韓国警備艇に対抗する船舶がなく(海上自衛隊創設は1954年7月)、有効な対策が取れずにいた。
そうした状況下で発生したのが「第一大邦丸」事件だ。1953年2月4日、福岡の漁船「第一大邦丸」は僚船「第二大邦丸」とともに韓国・済州島沖で操業中、突如、韓国警備艇の急襲を受けた。
韓国側の銃撃によって、漁労長(漁の指揮官)の瀬戸重次郎氏が頭部に被弾し死亡。両船舶は拿捕され、船員18名が済州島に連行された。
後の第15回国会「水産・法務・外務連合委員会」(1953年2月28日)で船長の浜行治氏が明かしたところによると、拿捕直後、瀬戸漁労長にはまだ息があった。
浜行船長らは韓国当局者に治療を懇願したが、適切な処置が施されないまま放置され、瀬戸漁労長は間もなく絶命したという。
その後、船員たちは現地の防空団詰所に監禁された。4畳ほどの部屋に押し込められた船員たちには食糧も与えられず、船に残されたわずかな食糧で命をつないだという。
漁船に残された船員の私物や金目の装備品はすべて持ち去られ、約38トンの漁獲物も韓国警察に押収された。
両船舶の乗組員は、米軍の働き掛けもあり事件から約2週間後に釈放されたが、抑留が数か月から数年の長期に及ぶケースも少なくなかった。
1952年9月に韓国巡視艇の砲撃を受け、拿捕された第28海鳳丸船長の久保田伴良氏は、2か月半に及んだ凄惨な抑留生活を国会で次のように証言している。
「収容中の状況は非常に苦しかった。留置場は1部屋4畳半くらい。多いときは1部屋10人もおり、部屋は超満員になって寝ることもできませんでした。
食事は丸麦1合くらいを1日2食、おかずは大根の葉っぱの塩漬を毎日毎日、73日間も食わせられた。栄養失調になり20日間くらい入院した者もいました」
久保田氏ら船員4名はその後、漁業法違反などの罪で韓国側に起訴されたが、取り調べや裁判は一方的、かつ形式的なものに過ぎなかった。
「調書の内容が自分の答えた通りではないので署名を拒否すると、刑事は腰の銃に手を当てて『署名しろ』と言う。
刑事らは一方的に調書を作り上げ、『豚箱に放り込む』と言って船員を脅迫していたのであります」(久保田氏証言)
罰金刑を言い渡された久保田氏らは「上訴しても一方的に処理されるので意味がない」と判断し、判決を受け入れ解放された。
このようにして、韓国は日本漁船を片っ端から拿捕し、船員の身柄を拘束。漁業法違反や出入国管理法違反などを理由に船員を裁き、刑務所送りにしたのである。
※SAPIO2015年7月号
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