15/05/24 20:38:33.91 .net
4年に1度のサッカーの祭典・ワールドカップ(W杯)が初めてアジアの地で開催されたのは2002年5月31日のこと。日韓共同開催で第17回W杯が開幕した。
「波乱の大会」と言われた通り、韓国で行われた開幕戦は、前回大会優勝のフランスが初出場のセネガルに敗北。
前回チャンピオンが敗れたのは、90年イタリア大会でカメルーンに黒星を喫したアルゼンチン以来だった。
W杯が日韓共催となった背景には、紆余曲折があった。日本は開催能力に自信を持ち、単独開催を目指してきた。
招致をめぐり、日韓で一騎打ちを繰り広げてきたが、1996年5月31日、チューリヒの国際サッカー連盟(FIFA)の本部で、理事の投票を待たずに共同開催が発表された。
日本が拒否すれば、W杯の開催は韓国に決まる。日本は、やむを得ず提案を受け入れる形となった。
2カ国での開催により、大会前に表記をめぐる問題が発生。決勝戦を日本で行うことなどの見返りとして、正式な大会名称は「Korea/Japan」の順としていた。
しかし、W杯日本組織委員会(JAWOC)は、日本国内の表記は「日本・韓国」を認めるようFIFAに要請した。
これに、韓国側が強く反発。最終的に、日本語は、両国名を入れず「2002年FIFAワールドカップ」とすることで決着した。
大会は、日韓ともに決勝トーナメントに進出する大躍進。日本は、ベスト8をかけてトルコと対戦したが、0-1で惜敗。
一方の韓国は、アジア初のベスト4入りを果たす大健闘を見せた。準決勝では、日本人サポーターが韓国代表を応援する光景もみられた。
一方、日本よりも好成績を残した韓国国民にとってはプライドを保つ願ってもない結末になったようだ。
優勝国はブラジル。横浜市の横浜国際総合競技場で行われた決勝戦で、2-0でドイツを下し、1994年の米国大会以来の5度目の優勝を飾った。
フランス、イタリアなどの強豪国が早々と敗退した波乱の大会でもあり、当時のFIFA会長、ブラッター氏は
「最も興味深いW杯の一つだったが、サッカーとしては多分、最高の大会ではなかった」
と各国のチームの状態が低レベルだったことを示唆する異例の見解を示した。
その要因は、日韓の梅雨の時期を避けるため、6月の開催になり、過密日程となったことなどが挙げられた。
さらに、入場券販売のトラブルや韓国の試合で「誤審」疑惑も発生。
日韓それぞれが組織委員会を設置したことで、フランス大会の2倍の約650億円の費用がかかった財政的な問題点も指摘された。
とはいえ、両国を合わせた観客総動員数は、史上3番目(当時)に多い約270万人となり一定の成功をおさめた。
URLリンク(www.sankei.com)
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