15/04/27 19:54:33.56 .net
「歴史を直視しろ」。中国の習近平政権は戦後70年を意識し、しきりに日本を牽制(けんせい)する発言を繰り返している。それならば、中国の歴史も直視しよう。
1970年代、数百万人ものカンボジア国民を虐殺したポル・ポト政権を“熱烈”支援していたのはどこだったのか。「一度も謝罪しない」で開き直る中国の態度に憤るカンボジアの人々の声を米紙が伝えている。
中国なくして殺戮なし
「中国こそ自らの歴史への直視を迫られている」
米紙ニューヨーク・タイムズが掲げた見出しの記事は、首都プノンペンにある悪名高き「ツールスレン・ジェノサイド(虐殺)博物館」の場面から始まる。
同博物館はかつて高校だったが、ポル・ポトが実権を握ったクメール・ルージュ(カンボジア共産党)支配の「民主カンプチア」時代、「S21政治犯収容所」となり、約2万人が収容されたとされる。
生き残ったのはたったの8人。反対する者、疑わしき者は粛清、抹殺する共産主義の恐怖政治を象徴する場所だ。
そこで案内役を務める男性が必ず見学者に聞く質問がある。「この中に中国人はいませんか」と。その理由を聞いた同紙の記者に男性はこう答えている。
「ポル・ポトの大量殺戮(さつりく)を可能にしたのは、中国のせいだと説明すると彼らはすぐに怒り出すんだ。真実ではない。今は友好国だ。過去は水に流そう、なんて言い出す」
カンボジア国民にとっては到底、水に流せる問題ではないだろう。同国の悪夢ともいわれるクメール・ルージュが中国のサポートなしでは成り立たなかったことは史実として認識されている。
米コーネル大学で中国とアジア太平洋地域の研究を担うアンドリュー・メーサ氏は「中国の支援がなければ、クメール・ルージュは1週間と持たなかっただろう」と断じている。
カンボジアとは“蜜月”
クメール・ルージュがカンボジアを支配したのは1975年4月~79年12月。指導者のポル・ポトは「階級のない完全な共産主義社会」を目指し、一切の国民の財産を没収。
「反乱の恐れがある」として特に知識層を敵視し、殺戮の限りを尽くしたホロコーストの時代だ。犠牲者の正確な数字はいまだ不明だが、同紙は約170万人と伝えるなど、200万人前後が虐殺されたという。英映画「キリング・フィールド」を思い出す人もいるだろう。
その“狂産”カンボジアに肩入れしていたのが、毛沢東(76年死亡)であり、●(=登におおざと)小平の中国だった。
両国の関係を著書「戦友」(Brother in Arms)に集大成したメーサ氏は「当時、カンボジアへの外国援助の90%は中国が担っていた」と語る。
食料や建設資材から戦車、航空機、火器まで送り込み、殺戮の最中でも、中国人エンジニアや軍事顧問はクメール・ルージュの共産党員を訓練していたという。同国中部には“蜜月”ぶりを象徴する軍用滑走路が残っている。
大量殺戮への中国の関与を認めるべきだという批判に対し、2010年、当時の駐カンボジア中国大使が「われわれは食料と農具を送っただけだ」と突っぱねるなど、責任逃れの抗弁を繰り返している。
しかし、ベトナムがクメール・ルージュを追討した直後の1979年2月、●(=登におおざと)小平は“懲罰”だとして中越戦争を仕掛けた。
また、山間部に逃亡したクメール・ルージュ残党を中国は支援し続け、ポル・ポトが中国を訪れたり、幹部に中国籍のパスポートを発給していたりしていたのも忘れたのだろうか。
URLリンク(www.sankei.com)
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続く