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祖国解放直後、東京朝鮮第6初級学校がある大田区内には、約5千人の朝鮮人が住んでいたという。同区内の馬込、池上、沼部、蒲田、六郷、羽田、大森と
いった地域の部落で身を寄せて生活を営んだ。
東京第6初級の沿革史によると1945年9月5日、大田区の沼部で聖林学院という国語講習所がはじめて開かれたとある。それから約1ヵ月後の10月10日には
東調布第1小学校の一間、池上にあった南之院を利用した国語講習所が開校。この日が同校の創立記念日となっている。
池上で生まれ、現在もその地域に在住する梁徳守さん(75)は「当時まだ6歳だった私は、15人ほどの子どもたちと一緒に南之院本堂入口の階段に座って勉強
した。黒板はなく、紙はわら半紙に鉛筆。だけど、子どもたちがいたずらばっかりして騒いでいたから追い出されてしまったんだ」と、述懐する。その後子どもたち
は梁さんの自宅で勉強することになった。
日本の植民地統治時代に受けたあらゆる差別と蔑視の記憶はいまだに薄れることはない。戦前、大田区内の日本学校に通ったという姜成伊さん(80)は「登下
校時、前列は日本の子どもたちが並んで、後列に朝鮮の子どもたちが並んで歩く。その際人数を数えるときは朝鮮人を『豚が1匹、2匹』と数えた。悪いことは
なにもしていないのに雪の日に運動場を走らされたりもした」という。しかし解放後、朝鮮学校へと通うようになった姜さんは「ウリハッキョに行って、아야어여
(アヤオヨ)を習って、勉強することの楽しさ、喜びをはじめて感じるようになった」という。
「朝鮮人としての魂をもらった」。それが朝鮮学校だった。学校のためならどんな苦労も惜しまなかった1世たちの情熱はその後も衰えることなく、本格的な学校
建設事業へと歩みを進めていった。
分会の事務所や同胞宅など寺小屋から始まった各地域の国語講習所が統合され、大田区久が原に木造の東京朝聯第6小学校(48年4月)を建てた。49年9月11日
には、現在の東京第6初級の敷地にあった東調布高等女学校を買い取り、12月10日に東京都立朝鮮人第6小学校を建設。総聯結成を目前に控えた1955年3月に
設立された東京第6初級はその後、60年に中級部が併設され、翌年の61年4月15日に同校で初の鉄筋コンクリートの新校舎が建設。74年には幼稚園が併設された。
1980年、東京第6初級の歴史に、在日朝鮮人の権利獲得において輝かしい成果が刻まれた。同胞たちの熱烈な運動によって日本各地の朝鮮学校の中で初めて、
区からの補助金を獲得したのだ。
若い商工人協議会である「商友会」が中心となって、支部、卒業生会、朝銀後援会、学父母ら総勢20人の対策委員会を立ち上げ、多くの同胞たちに呼びかけ運動
を展開した。集まった約3万人分の署名とともに「在日朝鮮人学校の運営費助成に関する要請書」を区に提出。6月13日、大田区議会では「児童・生徒等保護者
補助金」という名目で、その年の4月に遡って支給することを正式に制定し、補正予算を組んだ。これを皮切りに補助金獲得運動が広がりを見せ、各地の朝鮮学校
に補助金が支給されるようになったのだった。(朝鮮新報1980年6月19日付)
ソース:朝鮮新報 2015.02.02 (10:21)
URLリンク(chosonsinbo.com)
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