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統一日報 : スポーツが変えた韓国のイメージ 平昌と東京が開く私たちの未来
■ソウル五輪で大きく発展 在日同胞も力を尽くす
1988年に行われたソウル五輪。23競技237種目、159の国と地域が参加した。在日同胞の選手も
4人出場を果たす。韓国の結果は金12個、銀10個、銅11個、合計33個のメダルを獲得し、世界4位だった。
祖国発展を願って、在日同胞は力を尽くした。1世の底力と団結力は強く、日本各地の同胞から集まった募金の
総額は100億円という高額だった。開会式、閉会式にそれぞれ5000人、各競技観戦に2万人、計3万人の
同胞が韓国へ応援に駆けつけた。
五輪で韓国は大きく変化をとげる。韓国国民も国際的な感覚を持つようになっていった。韓国が開催できるまで
力をつけ発展したことを世界へ示した。それまでの韓国は遅れた国というイメージがあったが、日本人からは
「韓国もたいしたものだ」という声が上がったという。また、開催にあたり自国開催を経験した日本側の協力が
大きかったことも確かだ。韓国は五輪開催により、国際的地位を大きく上昇させたのだ。
■スポーツを通じて交流盛んに 在日アスリートたちの支えにも
韓国と日本のスポーツ交流では在日本大韓体育会(以下、体育会)の存在が欠かせない。国交がなかった解放直後、
日本から韓国へ渡ると再入国は許可されていなかった。1953年に体育会初代理事長の金東春氏は、日本法務省の
入管次長への直談判を決行。スポーツマン精神を持つ人たちにより、韓日の交流は始まったのだ。
韓国が初めて出場した1948年のサンモリッツ冬季五輪。このときの選手団の総監督を務めたのが在日同胞の
崔龍振氏だった。当時は体育会が結成される前で、選手3人でメダルゼロという結果だったが、ここから同胞の
スポーツ交流の基礎が築かれていった。
同年に開かれたロンドン五輪では、選手団に在日同胞から食糧の差し入れや資金援助などが行われた。結果は
銅メダル2個の32位だった。1952年のヘルシンキ五輪では、1950年に6・25動乱が勃発したため
政情不安で参加が厳しい状態に追い込まれた。しかし、在日後援会が代表選手に必要な物資や費用を捻出。
在日同胞1世の祖国に対する熱い思いが、国家代表選手を応援することにつながっていた。
韓国と日本の国交が結ばれたあとも韓日間のスポーツ交流は盛んに行われた。1972年に開催された札幌冬季
五輪では、出場する選手を応援するため後援会が結成された。支援活動以外にも韓国の民族芸術の紹介や、
韓日両国の高校生らを集め、スポーツ交流会が開かれた。
著名な在日韓国人アスリートも多い。日本プロレス界の父といわれている力道山をはじめ、プロ野球の金田
正一、張本勲、モントリオール五輪バレーボール金メダリストの白井貴子らはその代表格だ。過去には、
在日韓国人であることを世間に公表するアスリートは少なかった。しかし近年では、韓国名で活躍するアス
リートも出てきた。格闘家の秋山成勲やサッカー元日本代表の李忠成らは、日本国籍を取得したが韓国名で
活動している。帰化したアスリートもいるが、国籍に関係なくスポーツを通じて人々に夢や感動を与えて
いることは確かだろう。
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