14/12/29 20:14:00.60 eI+tQ8At
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■■■ 4.渡部昇一先生のエッセイ等 ■■■
渡部昇一先生は、歴史エッセイの中で、日本と半島南部の関係について、次のような意味の説を書いておられます。
「古代における日本と半島南部(朝鮮海峡の両側)は、文化的にも人種的にも同一の地域だったのではないか。おそらく宗教も同じであり言葉も通じたであろう」
「白村江の大会戦のあと、百済から多くの人々が帰化したとされるが、彼らは帰化人というよりも帰国人だったのではないか。終戦後に満洲や朝鮮から帰国した日本人と似た境遇の人たちだったのではないか。『日本書紀』からそう想像される」
また韓国に留学して歴史を勉強した作家の荒山徹も、「百済の文化や人材は韓国よりもむしろ日本に包摂された。したがって百済とは日本史の一部として扱うのが妥当である」と記しています。
同氏は、現在の韓国文化の祖は新羅一国に絞るべきだという、韓国人学者の説を引いています。
たしかに、『日本書紀』を読んでいると、そう感じます。
このことは先に連載した『『日本書紀』に見る対外問題』の時も感じました。とても具体的に、日本から渡って先方で生まれた人物の事とか、日本から渡ってあちらの王になった人の話などもありますし、宗教も言葉も共通していたと考えられる帰化人の話などもあります」
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名越先生は、先の大著の中で、戦国時代には大勢の日本人漁夫が済州島に住んでおり、済州島では「日本語が通じていた」―と記しておられます。
文献名は分かりませんが、そのような資料があるのでしょう。
倭寇が盛んだった時代には日本人は相当遠方まで進出していたわけですから、五島列島のすぐそばの済州島に日本漁民が大勢移住していたのは不思議でも何でもありません。
五島列島と済州島の距離はわずか200キロで、東京から静岡くらい、瀬戸内航路の半分以下です。真東が五島列島です。
太陽の昇る方角を少し行くと五島列島に着いてしまうのです。
気候は長崎地方によく似ており、半島の新羅系と違って戦前は女尊男卑の風潮があったそうです。海女が盛んだったためでしょうか。
まさに五島列島/長崎あたりとは一衣帯水です。