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>>437
■軍属や看護婦が月給100円以上もらっていた(ネトウヨ本=ゴミでは教えてくれない日本史)
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○その時、私は漁船に乗っていましたから、船と共に軍に徴用された軍属という身分でありました。
・・・当時、(マニラ)市内は思ったより平穏でした。戦時手当として一ヵ月百三十円、八十円は留守宅へ送金されますが、
五十円は私の小遣いとしては十分過ぎる額でありました。
URLリンク(www.heiwakinen.jp)
○工員の職種も多岐にわたり雇員を筆頭に筆生、整備、運転手・・・看護婦などがあった。
待遇面では、戦時手当、家族手当もあり平均で月一五〇円くらいはもらっていた。
URLリンク(www.yomitan.jp)
○当時の給料に戦地加算を加え、兵隊十余円、看護婦約百五十円前後、ビール一本四十銭、清酒一升一円五十銭と記憶する。
日曜日は看護婦達の差し入れビールにより、兵舎の食堂で二、三年兵はよく呑んだ。
URLリンク(www.hi-ho.ne.jp)
○中国では月々の給料はとてもよかった。沖縄で県病院にいた頃は、実務研修期間で月七円か八円でしたが、大阪では五〇円ぐらいもらっていました。
中国では、一般看護婦よりは日赤看護婦は高くて七〇円から八〇円ももらいました。二か年勤めて帰る頃は一〇〇円くらいになっていました。
URLリンク(www.yomitan.jp)
○BC級戦犯となった××さん
十八歳のときに新聞で捕虜監視員募集の広告を見た。・・・×さんは早速応募した。一九四三年(昭和十八年)の八月のことだったそうだ。
敗戦のときには雇人という身分から「雇員」と呼ばれる身分に昇格していて給料も増えていたそうだ。月給も五十円、それに戦地手当もついて一気に百五十円の高給取りになった。
といっても受け取れるのはその十分の一の十五円。七十五円は台湾の家に送られると言われ、残りは軍事郵便貯金に強制預金させられたそうだ。
URLリンク(web.thu.edu.tw)