【韓国】 イ・ボンチャン義士、「最後の写真」発見~日王の行列に手榴弾投げ、死刑宣告された日の朝日新聞号外[10/03]at NEWS4PLUS
【韓国】 イ・ボンチャン義士、「最後の写真」発見~日王の行列に手榴弾投げ、死刑宣告された日の朝日新聞号外[10/03] - 暇つぶし2ch1:蚯蚓φ ★@転載は禁止
14/10/03 20:58:31.63
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▲李奉昌(イ・ボンチャン)義士が死刑宣告を受けた1932年9月30日、朝日新聞が発行した号外。
イ義士の写真のそばに次のような説明が書かれている。「大逆犯の李奉昌(上)彼の生家と東京で
宿帳に認めた筆跡」[写真梅軒(メホン)記念館]

独立活動家、李奉昌(イ・ボンチャン、1900~32)義士の‘最後の写真’と見られる顔写真が初めて
発掘された。イ義士が死刑宣告を受けた1932年9月30日、日本の朝日新聞が発行した号外に
載った写真だ。この写真が出て10日後の10月10日にイ義士は絞首刑になった。

尹奉吉義士を記念する梅軒(メホン)記念館のユンジュ館長は2日「梅軒尹奉吉義士の資料を収
集して日本でこの写真を見つけた。イ・ボンチャン義士が残した写真は何枚もない。この写真以後
の写真は出たことがない。イ・ボンチャン義士が残した最後の写真に見える」と話した。

イ義士は1932年1月8日、東京でヒロヒト日王の行列に向かって手榴弾を投げた。馬がケガして
宮内大臣の馬車がひっくり返ったが、偉業は失敗した。逮捕されたイ義士は東京刑務所に収監さ
れた。9月30日、東京裁判所で350人余りの警察が幾重にもめぐる中で開かれた裁判で死刑宣
告を受けた。その日、朝日新聞が発行した号外にイ義士の横顔が載っている。10日後の10月10
日、絞首刑で殉国する直前の姿だ。

当時、イ義士は未婚だった。ユン館長は「写真だけ見ても両頬がやせこけている。だいぶやつれ
た顔だ。激しい取り調べを体験したと見られる」と話した。号外にはイ義士の生家の写真と東京宿
泊地に残したイ義士の筆跡写真も一緒にのせられた。イ義士の義挙は尹奉吉(ユン・ボンギル)
義士の上海義挙、安重根(アン・ジュングン)義士のハルビン義挙とともに日帝時代‘3代義烈闘争’
に挙げられる。

イ義士はソウル龍山(ヨンサン)で生まれた。幼かった頃、日本人が経営するパン屋の従業員とし
て働いて虐待を受け、満州の南蛮鉄道会社で運転見習いをする‘チョウセンジン’という侮辱を受
けた。1909年、安重根義士の義挙に刺激を受けた彼は日本に渡った。日本語を習うなど6年以上、
日本を習った後、中国、上海の臨時政府を訪ねた。

秘密裏に白凡金九(キム・グ)に会った彼は自身の心情を次のように明らかにした。「私はもう三十
一です。これから三十一年以上生きても今よりつまらないでしょう。人生の目的が快楽なら過去31
年間、快楽というものを全て味わいました。これから永遠の快楽のために命を捧げる覚悟で上海
にきたのです。私に世の中をびっくりさせる聖業を成しとげさせて下さい。」

白凡はイ義士とともに安重根義士の弟の家に行った。イ義士はそこで太極旗を前に置いて両手に
手榴弾を持ったまま日王に対する狙撃を宣誓した。イ義士の義挙は日本帝国主義が神格化した
日王の権威に深刻な打撃を与えた。当時、沈滞した上海臨時政府の独立運動に大きな燃料を入
れて火をつけた。

ペク・ソンホ記者

ソース:中央日報(韓国語) イ・ボンチャン義士'最後の写真'発見
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