14/09/12 20:16:19.38 .net
池田信夫
きのうの言論アリーナでも説明したように、慰安婦大誤報は植村隆記者個人の失敗ではなく、朝日新聞の構造問題である。
その元祖は清田治史記者だが、彼のあとを受けて慰安婦キャンペーンを張った大阪本社論説委員が、北畠清泰(故人)だった。
彼は1992年1月11日の大誤報の翌日に「挺身隊の名で勧誘または強制連行され、中国からアジア、太平洋の各地で兵士などの
相手をさせられたといわれる朝鮮人慰安婦」を指弾する社説を書いたと思われる。さらにすごいのは、彼の書いた1月23日のコラム「窓」だ。
女性たちは陸軍の営庭で軍属の手に渡り、前線へ送られて行った。吉田さんらが連行した女性は少なく見ても950人はいた。
「 国家権力が警察を使い、植民地の女性を絶対に逃げられない状態で誘拐し、戦場に運び、1年2年と監禁し、集団強姦し、
そして日本軍が退却する時には戦場に放置した。私が強制連行した朝鮮人のうち、男性の半分、女性の全部が死んだと思います 」
彼は当時の大阪本社で、慰安婦キャンペーンの中心人物で、「女たちの太平洋戦争」というシリーズで、多くの慰安婦の「証言」を紹介し、
「知りたくない、信じたくないことがある。だが、その思いと格闘しないことには、歴史は残せない」という名言を残している。
元同僚の長谷川煕氏によると、北畠は1988年ごろから吉田清治と電話で連