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【東京】ドラマ1本、俳優1人で、町が、日本人の視線が変わった…「イケメン」登場で激変した、コリアンタウン・新大久保の今[6/14]
スレリンク(news4plus板)
鄭順子(チョン・スンジャ)さんというオンマの店だった。鄭さんは、朝鮮戦争で未亡人となり、子育てのために
日本に渡ってきた。
歌舞伎町の韓国クラブの厨房で働いてカネを貯め、この店を出した。辺りには、家賃の安いアパートが軒をつらねて、
住みやすかった。
『民団新宿60年の歩み』(民団新宿支部発行)は、敗戦後の新宿界隈に「30~40世帯の<朝鮮部落>らしきもの
があった」と記述している。豚、鶏を飼い、トウモロコシなどの菜園をつくり、日雇いや「立ちんぼう」と呼ばれる労務者
の仕切りが朝鮮部落の主な仕事だった。
その仕切り屋たちのわきに、辛格浩(シン・キョクホ)と名乗る男が小さな工場を建てた。18歳のとき、慶尚南道の
寒村から渡ってきて、蒲田の工場の雑役、荷受仕事をしてきた男だった。
日本の敗戦により、祖国・韓国は植民地から解放された。それから幾日も経たない時期、辛は鍋釜と石油缶で
石鹸を作り始めた。ポマードも石油缶で作った。いずれも飛ぶように売れ、翌年、化粧品に手を出した。これも
鍋と釜でできた。商品に名をつけなければならない。
青年時代に深い感銘を受けた『若きウェルテルの悩み』の主人公が恋した相手の名を採った。<ロッテ>。
のちに進駐軍の噛んでいるチュウインガムがいい商売になりそうだと、ガムの製造販売にも本腰を入れる
ようになった。大久保近辺にできた初めての本格的な工場だった。<朝鮮部落>の労働力をあてにした。
日本名を<重光武雄>と名乗った。歌舞伎町が、葦の生える湿地と大根畑で、大久保病院にまだ<陸軍伝染病院>
の名残りがあった時代である。
在日は、国鉄の国有地や河川の堤防ぎわのゼロ番地のバラック小屋などに住み、貧しく、ゆえのない被差別を
強いられた。
「(辛氏は)ハンジという朝鮮風の大きな木製のたらいを使って手作業でガムをつくっていた」と前出の民団冊子にある。
いまもそのときのままに<ロッテ>は山手線・高田馬場と新大久保の間で操業している。