12/03/22 22:24:06.67 rFpBSyKn
>>1
このネタ、実は「穏当な妄想」が出来てしまうんだよなあ。穏当すぎて面白くないが、
逆に、「常識」とされていたことは、いくつも誤りがあることが浮き彫りになることになる。
まず、幕末の京都は、「京都盆地枢要部の、東側1/3しか市街化されていなかった」ということがある。
今の中京下京で、大宮より西側、上京では千本より西側には、田畑が広がっていた。
つまり、実は、京都盆地の中で、1860年代には、「開発の余地」は余裕で存在した。
新政府は、ここに、(多分新宮殿を含む)政府枢要施設と、官吏政治家の住宅地を開くことになるのだろう。
このスペースくらいで、多分19世紀のうちは十分間に合うことになる。
そして、京都の外港は、これは確実に兵庫(神戸)一択になるので、
京都から西へ伸びる交通路は、鉄路も含めて、西国街道(国道171号)ルートになるだろう。
そうなると、大阪の立場は微妙になる。
今の堺のような、交通軸線を外れてしまった、独自の道を歩む工業都市に特化するのではないだろうか。
20世紀になってから、ついに嵯峨野や乙訓も埋め尽くして、
京都盆地からあふれ出した人口が、摂津国へなだれ込むことになるのだろうな。
そこで、北摂が優良な住宅地として着目される。ここから先は、多分あんまり変わらない。
ただ、通勤先は、梅田ではなく西院か大宮になるんだろう。
ちなみに、この仮定だと、もし日米戦争が史実通りなら、京都は確実に焼け野原になる。