オルフェウスの窓でエロパロ 【5】at EROPARO
オルフェウスの窓でエロパロ 【5】 - 暇つぶし2ch2:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:24:44 h2vNUIt3
序章

1911年初春 ペテルスブルグ

闇の中、金髪をなびかせて彼女は走っていた。真夜中もとうに過ぎた静かな街頭に、
彼女の足音だけが鳴り響いていた。女が一人で外にいるにはあまりにも危険な時間で、
少し離れたところでは一人の男がその足音に耳をすましていた。
だが彼女の念頭にそんな危惧は浮かびもしなかった。
闇の中を必死に走る姿、それはいつもの悪夢とそっくりだったが、夢とは違い彼女の心は
例えようもない晴れやかさと希望に満ちていた。
なぜなら彼女はたった今長年の桎梏から解き放たれたばかりだった。
その肺に思い切り吸い込むのはただの空気ではなく、ここ数年は思い出す事さえかなわなかった
自由そのものとさえ感じられた。初春とはいえまだ凍て付くように冷たい大気を一息吸うごとに
清新な新しい力に満たされ、彼女は息の続く限り走っていく。
その先には、ずっと見失っていた真実が自分を待っている筈だった。
駆けて駆けてようやく彼女は目的の館に達し、激しく息切れしながらその扉に倒れこむように
手をかけた。
そして重い扉を思い切って引き開けると、真夜中だというのに明るい光と人々の哄笑が
どっと街路にまで溢れ出してきた。

だが物語はその数年前、彼女が自らを虜囚であるとは知らずに過ごしていた日々から語り起こされる。


第一章
(1)

ユリウス!
ユスーポフ家の静かな邸内にリュドミールの声がこだました。
「姉様、ユリウスを知らない?」
「さあ・・・昼食の後は知らないわ。リュドミール、今日はユリウスに見てもらう日ではないでしょう?」
「だって・・・約束したんだ、レンスキー先生の課題ができたらつきあってくれるって!
厩舎の子馬を見にいくのに、ユリウスと一緒ならいいって兄上だってこないだ。」
「はいはい、リュドミールはすっかりユリウスびいきになってしまったわね。」
「だって火曜だってさ、僕が先に約束していたのに急に兄上の使いがきて連れて行ってしまったし、
昨日は姉様がコンサートのお供にしちゃって、僕は3日も放りっぱなしだ。」
「リュドミール、このユスーポフ侯爵家の男子がそんなことで駄々をこねてどうするの。」
とヴェーラも言葉だけはいかめしく咎めたが、顔は笑ってしまっていたので威厳は台無しだった。
「でも本当にどこにいるのかしらね。今、部屋と書斎の前を通ったけれど見なかったわよ。
サロンにもいなかったし、庭かしら?」

そんなところに当の本人が入ってきた。ヴェーラの言った通り庭に出ていたらしく、
秋咲きの白いサルビアを腕一杯に抱えて涼やかな様子だった。
「ヴェーラ、東の奥でもう咲いてたよ。ライサに生けてもらえるかな?」
リュドミールは「もう!ひどいじゃないか、ユリウス!」とふくれっつらをしてみせた。
「何を言ってるのリュドミール」と笑いながらその金髪の人は答えた。侍女に花の束を渡しながら、
「確かに僕は君の家庭教師の一人だけど、専属のお守りではないんだよ」
と歌うように抑揚をつけて答え、
「甘えん坊のリュドミール」とさらに今度は明らかに節をつけて歌った。
今度こそリュドミールは笑い出しながら彼女に向かって走り出し、ユリウスは少年というには
まだ幼い彼をひらりとかわすとその手をとり、くるりと体を回してやった。
そのまま二人は笑いさざめきながら庭へ出て行き、ヴェーラと召使達は微笑して彼らを見送った。
「あの子達に飲み物と帽子を持っていってやって。」
ヴェーラは言いつけると書きかけていた手紙の続きのため自分の部屋へ上がった。
だが、ペンを手にはしたものの、頭は書かねばならぬ文面よりも、弟がいまやもう一人の姉のように
慕っているユリウスについて向かっていった。

3:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:25:05 h2vNUIt3
彼女がこの屋敷にかつぎこまれてから早3年半が過ぎていた。そして記憶を失ってからは3年近く・・・。
リュドミールはいざ知らず、ヴェーラとその兄は彼女を騙しているも同然だった。
(ユリウスが・・・その事を知ったらどうするだろう?)とヴェーラは彼女がこのユスーポフ家に
姿を現した当初の烈しい眼差しと身にまとっていたはりつめた空気を思い出し、ため息をついた。

兄の政敵、ラスプーチンの企みで連れ去られたユリウスが宮廷から戻る途中で行方不明になり、
次いで意識を失った姿で発見されたあの時。目覚めた彼女は何もおぼえていなかった。
ロシアに来た目的も、自らの過去も、名前すら。
全ての記憶を失った彼女は自分が誰であるかさえわからず、パニック状態に陥った。
それを知らされた兄は驚き、しばらく沈黙していたが何事か決意したらしく、
ヴェーラにユリウスには彼女自身について何も教えるなと厳命した。
もっとも教えようにもヴェーラが知っていたのはただ「ユリウス」と名乗る彼女がドイツ人であること、
反逆者アレクセイ・ミハイロフを追って一人ロシアまで来たらしいという事ぐらいだった。
おそらく亡命していた彼の恋人だったのだろうが、それも推測に過ぎなかった。
いわばアレクセイ・ミハイロフを釣上げる餌として、この屋敷に監禁されてしまったユリウスは、
以後周囲を敵と見なして貝のように口を閉ざし、それきり自分については何も明かそうとしなかったのだから。
ユリウスの精神状態と負傷した体がだいぶ落ちついた頃、レオニードはヴェーラを伴って彼女を見舞った。
そしてヴェーラが唖然とするほどあっさりとユリウスを罠に落とした。

ユリウス、それが君の名だ。だが残念ながら我々も君についてさして知っているわけではないのだ。
君はこの間の春、まだ雪も溶けないうちに偶然、我が家にかつぎこまれた。
暴動にまきこまれ被弾して倒れていたところを身なりの良さから部下が不審に思い、我が家に運びこんだのだ。
意識を取り戻した君は荷物のことを尋ねたが、ここにはあいにく身一つで運ばれてきていた。
だから君はその時全財産を失ったわけで、何も身元がわかるようなものも残っていない。
とりわけストラディヴァリの事を気にしていたな。いや、なぜそんな名器を持っていたかはわからない。
君は音楽の勉強をしていたようだが、ヴァイオリニストではないらしかった。
・・・何か思い出せたか?そうか、駄目か。

正直、我々の眼には君は少々怪しい人間だった。
男装したうら若い外国人の女性で(何せ君はロシア語を全く理解できなかったのだから)、
なぜか自分の事を語ろうとしなかったのでロシアに来た目的もはっきりしない。
おまけに言いにくいことだが、君の体には古い銃創まであった。パリやロンドンならいざ知らず、
ロシアではまっとうな女性で男装だの銃創だのは考えられないからな。
(この辺りでユリウスの過去へつながる何かを知る期待を失い、だんだん心もとげなものになっていった。)
とは言うものの、君はそう邪悪そうには見えなかったし、実際のところ、取調べの過酷さには
定評のあるロシアの警察に引き渡すほどの証拠が何かあるわけでない。
かと言って無一文になって途方にくれている女性を今のロシアの荒れた社会に放り出すわけにもいかず、
我々は何となく君をここに留めてしまった。
さして役に立つ情報が無く申し訳ないが、これが君についてわかっている全てだ。
そうだ、もう一つあった。大事な事だ。おそらく君は自分でははっきり言わなかったがドイツ人だろう。
君の話すフランス語にはかすかだがドイツなまりがあるし、何より当初身につけていた衣類はドイツ製だったから。
いや、その衣類は全て処分してしまった。何せその時の怪我で、血の汚れがひどかったからな。

兄の話は全てが嘘ではないだけに、たちが悪かった。ただ本当に重要な情報を隠しているだけだ。
ヴェーラは呆れつつ、目的はわからないが口裏を合わせるために自分が同席させられている事は
承知していたので、兄に言われた通り口を挟まなかった。そして表情を変えないよう努力しながら
ユリウスと共に話の続きを聞いた。

4:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:25:26 h2vNUIt3
何か思い出せたか?そうか。残念だな。
・・・少し考えたのだが、君さえよければもう少しここにとどまっていくか?何か記憶の糸口が見つかるまで。
君も結構いいみなりをしていたので、誰か身寄りが探しにくることもあるかもしれぬ。
何もしないのが退屈なら、リュドミールの勉強を少し見てもらってもよい。
もちろん正規の家庭教師はつけているから・・・そうだな、音楽でも少し見てもらえると助かる。
なに、ユスーポフ家は軍人の家系で弟もあと数年で幼年士官学校に入る。
だから音楽教育もそう本格的なものでなくてよいのだ。気が向いた時でいい。気楽に考えてくれ。
ただし、申し訳ないが、行動は少し制限させてもらう。
記憶を失った君が知らないのは当然だが、ロシアは今、非常に治安が悪くなっている。
ことにこの家は私の妻が皇帝の姪であることも手伝って、警護を厳重にせねばならない。
あまり好き勝手に出歩いてもらうわけにはいかない事だけは、承知してくれたまえ。

もちろん記憶も金銭も他に係累もない彼女には他の選択肢などある筈もなかった。
以前とは別人のように素直になってしまったユリウスは、何も疑わずにレオニードの「提案」を受け入れた。
ヴェーラは兄のやりくちにすっかり呆れ果てた。これで兄はユリウスをしっかりと監視下に置き、
行動を制限する権利すら彼女本人に認めさせている。そのうち兄に聞かされた話の穴に気づいても、
客人と雇い人の間の中途半端な立場では兄に詰問もできないだろう。
もっとも今のところユリウスは騙されていることに全く気づかず、兄に感謝すらしている始末だ。
それもこれもアレクセイ・ミハイロフへ繋がる線を握っておくためだろうか?
だがそもそも兄は近衛隊の軍人で、革命派の捜索・逮捕は管轄外だ。何もアレクセイ・ミハイロフを兄が
自らの手で捕らえる必然性はない。国の治安のためを思うなら、捜査のためには(そうなればいいとは決して思わないが)
ユリウスを専門の者・・・治安維持をあずかる憲兵か、革命派の捜査が専門の秘密警察に渡してしまうのが一番確実なのだ。
ヴェーラは兄の目的をいぶかしんだ。
過去を知る希望を失い疲れた様子のユリウスに休むように勧めた後、別室に移りレオニードは妹に言った。
「さぞ不審に思っているだろうな。」
「ええ・・・。なぜそこまでして彼女を?」
「そうだな・・・。詳しい理由は言えぬが、政治向きのことで彼女を監視下におかねばならなくなった。
これは皇帝陛下の命と了承してくれ。だがその事は私とお前だけがわかっていればよい。
アデールはおそらくもうこの屋敷に戻るまいから。召使達にはユリウスに関することは勝手を許さず、
必ず私に許可を得るように伝えてくれ。そして今まで通り、フランス語が話せる者だけをつけるように。
ロシア語は学ばせるな。」

不審な気持ちは消えなかったが、兄の任務がらみで、しかも皇帝陛下の意思が働いているとあっては
従うしかなかった。
そしてモスクワ蜂起でアレクセイ・ミハイロフが捕らえられ終身刑に処された後も依然としてユリウスは
解放されず屋敷に留め置かれたので、「政治向きのこと」とは、ミハイロフ以外にも何かあるのだなと
初めて察しがついた。だが、皇帝陛下が関わってくる程のその事情を、兄は決して自分にも教えないだろうと
ヴェーラはわかっていた。

5:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:25:47 h2vNUIt3
ユリウスとリュドミールは庭の大きなニレの木陰で横たわり、姿勢は行儀が悪いが、
感心にも他の家庭教師が出したリュドミールの課題の口答試験をしていた。
結果はまずまず合格、ユリウスを今日は独占できそうな事に満足して、
リュドミールは思い切り伸びをしながら寝返りをうった。そしてうつぶせになるとひじをつき、
傍らに仰向けで横たわるユリウスの美しい顔をじっと見おろした。
もちろんリュドミールはまだ幼なかったが、ユリウスがずばぬけて美しい人だということは
子供なりにわかっていた。
だがユリウスの美しさは義姉のアデールのように香水の香りと宝石に包まれた貴婦人の近寄りがたいそれではない。
むしろ女くささを感じさせない、清潔な・・・そう、若木のような美しさだった。
それにリュドミールが彼女を慕う理由はその美しさのためではなく、ユリウスがユスーポフ家にもちこんだ、
一種、風のような自由さだった。
年の離れた兄と姉は両親代わりでリュドミールは彼らの愛情に常に包まれていたが、
威厳を重んじるその家風はまだ幼いリュドミールには重圧を感じさせることもあった。
だがユリウスが加わって以来、その厳格さは少しやわらげられていた。ことに、兄には弟の自分ですら
時には近寄ることさえためらわせる威圧感があったが、そんな彼の心をほぐすのがユリウスはうまかった。
もっとも彼女はそれを意識してやっているのでなく(だいたい、レオニードに対して自分が影響力を
持っていることに気づいているのかどうかすら怪しいものだった。)、
ユリウスの発散する疑いを知らない純粋さが周囲の人間の構えをほぐしてしまうのだ。
幼いながら、いや幼いからこそリュドミールはその純粋さを感じ取り、慕わしかった。
ラテン語の授業でユリウスが“光り輝くもの”という意味と知った時にはなんて彼女に
ぴったりな名前なんだろうと思ったものだ。

6:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:26:35 h2vNUIt3
だがリュドミールは最近少し知恵がついてきたので、ユリウスの顔を見下ろしながら、
(不思議だな。)と思った。
(ユリウスはこんなに賢くて(他の家庭教師と比べても教え方は断然上手で、彼女の頭の回転の良さは
子供の目にも明らかだった)、物知りなのに、なんで自分の事、何もおぼえていないんだろう・・・)
その話をするとユリウスが悲しい顔をすることはもう知っていたので、その事はリュドミールは言わなかった。
だがもう一つの疑問を口に出してしまった。
「・・・なの?ユリウス」
「・・・なあに、何か言った?リュドミール。」
秋の始まりで戸外は過ごしやすく、1年で一番気持ちのいい風が吹き過ぎて行く。
その感触を目をつむって楽しんでいたユリウスは、リュドミールの質問を聞き逃してしまった。
「ユリウスは、もしも誰かが探しにきたらその人と帰ってしまうの?」
これは最近のリュドミールにとっては大変重要な懸案事項だった。
一度思い切って姉に尋ねてみたのだが、ヴェーラは珍しく「そうねえ・・・。」と言葉を濁すだけで、
何もはっきりした返事をしてくれなかったのだ。
「・・・」ユリウスは瞳をひらいて、じっと空を見た。すこし緑がかった色の澄んだ瞳に青空が写っていた。
予想に反してしばらく返事をしないユリウスにリュドミールはじれた。
だがもし自分の望まない答えなら聞くのが怖くてせかす事もできず、自分から聞いておいて
宙ぶらりんな気持ちでリュドミールは待った。
(彼はもちろんユリウスが「行かないよ」と即答してくれると思っていたのだ。)

ようやくユリウスが言った。
「どうだろう・・・。もうそんな事は起こらないんじゃないかな。」
ユリウスはリュドミールのような子供が相手でも常にしごく真面目に話した。
「え・・・。」
「だって考えてもみてごらん。僕が最初に君たちの屋敷にごやっかいになってから
もう3年以上たつんだろう?結構長い年月だ。リュドミール、君だってすごく3年前とは違うだろう?」
リュドミールは確かに3年前の自分は赤ん坊ですっかり大人になった今とは全然違う、としかめつらしく考えた。
「もし僕を探してくれている人・・・家族にせよ、誰か他の人にせよ・・・がいるなら、
とうの昔に探し当ててくれてるんじゃないかな。レオニードだって警察には届けてくれてるんだし。
(もちろんこれはレオニードの真っ赤な嘘だった。)」
「でも・・・だって、兄上も誰か探しにくるかもって、そう言ったんでしょう?」
「あれは・・・多分、レオニードが僕に気をつかったんだと思う。行くところの無い僕をかわいそうに思って、
ここにいやすいようにそんな事を言ってくれたんじゃないかな。」
「・・・ユリウス・・・」
上体を起こして、にっこり笑ってユリウスは言った。
「リュドミール、君のお兄さんは優しい人だね。もちろんそんな事、君は僕よりよく知ってるだろうけど。
レオニードは強いだけでなくて優しい。そんなお兄さんがいて、君は幸せだね、リュドミール。」
家族と再会することをあきらめているユリウスに、リュドミールは子供ながら何と言っていいのか
わからなくなってしまった。
また、ユリウスが兄の気づかれにくい優しさをほめた事で、彼は改めて兄の良さを言葉に表わして認識できた。
(そうなんだ、兄上は怖そうでも、いや怖い時はとてもとても怖いけど、でも本当はとても優しい・・・。
そう言葉にして考えたことはなかったけど、ユリウスの言う通りだ・・・。)
リュドミールがユリウスを好きなのは、こんな風に自分の世界に違う光をあてて、そこに自分が持ってても
気づかなかった宝物を見つけてくれるからだ。
彼の中で様々な感情がうずまいて、そしておそらく寂しさを抑えて(それがわかるくらい、リュドミールは察しの良い
子供だった)微笑むユリウスがあんまり美しく見えて、リュドミールは何を言えばいいのか混乱してしまい、
とりあえず、一番気になっている疑問をもう一度確かめた。
「じゃあユリウスはどこにも行かないね?」
ところがユリウスはまたもやじっと考え込んでしまった。
「もう、ユリウスったら、何もいちいち考えることないじゃないか!」と今度はついにせっついてしまった
リュドミールだが、ユリウスは今度もすぐには返事ができなかった。

7:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:26:56 h2vNUIt3
その事は彼女自身、さいさい考えこんでは結論の出ていない事だったからだ。
リュドミールは早ければ1年後、どんなに遅くても2年後の秋には士官幼年学校の寄宿舎に入る。
それ以後もこの由緒正しいユスーポフ家で厚意に甘えて寄宿を続けて良いものか。
頼めばレオニードかヴェーラがどこか他の家の家庭教師に推薦してくれるだろうか?
しかし身元不明で記憶喪失の外国人など、いったいどこの家が受け入れてくれるだろう?かといって、
音楽で身をたてていくことも今の腕前では難しそうだった。
おまけに、なぜかレオニードがユリウスがロシア語にふれるのを嫌がるせいで、未だに彼女のロシア語はお粗末なものだ。
いくらロシアの上流階級の会話はフランス語中心とはいえ、彼女自身はこの国の貴族でもなんでもないのだから
今後ロシアで生きていくのならこれは大問題だ。
しかしそんな事よりなんといっても、一番の問題点は、自分には冬は魔の季節であることだった。
あの恐怖!激しい吹雪とその音が自分をどんなに脅えさせ、追い詰めて取り乱させてしまう事か。
恐らくレオニードが言う通り自分の失った過去に理由があり、それは忘れていた方がいい事なのかもしれない。
しかし、あの恐怖感を克服しない限り、日常生活もおぼつかない有様で、ましてやどこかに雇われるなど無理な相談だ。
と、思考がいつものどうどうめぐりをしかけた所で、ユリウスはリュドミールを待たせすぎている事に気づき、
考えを断ち切って言った。

「リュドミール、僕は君がきちんと幼年学校に行くまではこの家にいるよ。
もちろんそれまでクビにならなければの話だけど。」
「ユリウス、クビになんかなるわけないじゃないか。でも僕が幼年学校に入るまでってどういうこと?
その後はいなくなっちゃうってこと?」
「だって、もう僕が教える人はこの家にはいなくなるわけだからねえ。
君はレオニードみたいに立派な軍人になるんだから、音楽教師には用がないだろう?」
「そんなの・・・関係ないよ!こないだ姉上と訪問したナボコフ家なんて、夫人の家庭教師をしてたっていう
90歳のおばあさんがいたよ!だからユリウスだって90歳まででもここにいればいいじゃないか!」
「9、90歳か・・・、う~ん」とユリウスは苦笑して、だがこの素直な少年が
これだけ自分を慕ってくれる気持ちはとても嬉しく思った。
「リュドミール、僕は約束するよ。ひとつ、君が学校に入るまでは、僕にできる限りの事を君に教える。
ふたつ、もし僕がこの家を離れる事があっても、君と僕はずっと友達だ。わかるかな?」
「本当に?僕達は友達?ユリウス!」
「そうだよリュドミール。」
「じゃあ誓ってくれる?絶対に、その約束を忘れないって」
「忘れない。誓うよ、リュドミール」
それはロシアの黄金の秋の始め、とても美しい日に行われた微笑ましい友情の誓いだった。
リュドミールはユリウスがそう誓ったことで非常に満足した。
それは幼い彼にとっては彼女がずっと側にいることを約束したのも同然の言葉だった。
そしてユリウスの方も、この小さい友達を自分は終生愛しく思うだろうと感じていた。
だがこの誓いこそが、やがて彼らを奈落へと突き落とす最後のひと押しになろうとは、この時の二人には
とても予測などつく筈がなかった。

8:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:27:41 h2vNUIt3
「リュドミール様、ユリウス様!」と召使が邸のほうから二人を呼びに来た。「旦那様のお帰りでございます。」
「兄上が?今日は早いんだ!」とリュドミールは跳ね起きて「ユリウス!こっちから!」と叫ぶと木々の間を縫って走り出した。
ユリウスも笑いながらリュドミールを走って追いかけたがほどなく足元を何かにとられ、
落ち葉の中に頭から見事にころんでしまった。
「・・・?」と自分を躓かせたものを見ると、夏草の残りを短く結び合わせたものだった。
「・・・!」リュドミールが立ち止まって笑ってこっちを見て言った。
「わあっ、ひっかかったねユリウス!」
「リュドミール!」笑いながらユリウスが叫ぶと
「3日も僕をほっとくからだよ!何てったって僕は「甘えん坊」なんだからね!」と
笑って言い返し、今度は一気に館に向かって走っていった。
「もう!」と言いながらユリウスはリュドミールを追った。
子供の足とはいえ結構差をつけられてしまったので、ユリウスが帰館したレオニードと
サロンで顔を合わせた時には、リュドミールはちゃっかり出迎えの挨拶を済ませて
自室に上がってしまっていた。

9:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:28:02 h2vNUIt3
「どうしたんだ、その有様は。」
落葉だらけの彼女の姿にレオニードはいささか呆れた様子で尋ねた。
ユリウスは石張りのテラスで体のあちこちについてしまった落葉をはたきながら、
「今日はリュドミールにしてやられちゃった。あの子の作戦勝ちだ、士官としては将来有望だね」
と笑った。レオニードは苦笑しながら無造作にユリウスの金髪を荒く揺すり、
残った葉のかけらをふるい落としてやった。
その荒っぽさにユリウスは「わぁっ」と笑って、だが素直にされるがままになっていた。
「全く・・・僕は犬じゃないんだからね!」
「我が家の犬どもはこんな落葉まみれで屋敷の内に入ってこぬぞ。」
「あはは、確かにそうかも。ユスーポフ家では犬も僕より規律正しいよ。」
普段からまとめもせず降ろしている髪からようやく落葉を落とし終えて、
「リュドミールは部屋に上がったの?今日はあの子に一日付き合う約束だから行くね。じゃあ晩餐の時に。」
と言ってユリウスが去ろうとすると
「いや、ちょっと要するものがあって立ち寄っただけだ。今宵はもう戻らん。」とレオニードは答えた。
「ああ・・・そうなんだ。」とユリウスはあからさまに落胆した顔になった。
そんな彼女に微笑んでレオニードは「なんだ、何か私に用でもあったのか。」と言った。
「ううん、そういうわけじゃないんだけど・・・。そうだ、おとついの馬、よかったね。
あれならリュドミールは本当に喜ぶと思うよ。」
「ああ、つきあわせて済まなかったな。だが助かった。お前で御せれば、リュドミールにもちょうどいい。」
「来月のあの子の誕生日が楽しみだね。」
二人は小さな秘密を共有する者同士の気安さで目を見交わし微笑んだ。
そこへ召使が紅茶を運んできたのでユリウスもよばれることにした。
(リュドミールにはさっきのいたずらのお仕置きにもう少し待ってもらおうとユリウスは考えた。)
カップを持ったまま、二人はなんとなくサロンからユスーポフ家の庭園を眺めやった。
さっきまで微笑んでいたユリウスの表情にふと影が差したのをレオニードは見逃さず、
「どうかしたのか?」と訊ねた。
「ううん、ただ・・・。」「なんだ。」
「また冬が来るな、と思って・・・。」
ユリウスはそう言うと、再び窓の外、木々の梢が黄金に色づき始めた庭園をじっと見つめた。
レオニードはわかっていたが、「またあんな風になるかと脅えているのか?」とあえてはっきり聞いた。
「・・・うん・・・。構えすぎなのかもしれないけど・・・。冬が近づいてくると思うと・・・
ものすごく胸の奥がざわざわする気がして・・・。そしてあの時の気持ちを思い出してしまう・・・。」
「気にしすぎるな。あまり考えると、自分を暗示に掛けているのと同じだ。
戸外の吹雪がお前に一体何をする?脅え過ぎるとそれこそ前のように命取りになりかねんぞ。」
「うん・・・。」
「まあ、どうしても怖ければまた駆け込んでくれば良かろう。」とレオニードは笑い、
ユリウスは真っ赤になって「もう!レオニード!」と怒ってみせた。
記憶を失って以来(もっとも以前がどうだったのか知る術はなかったが)、吹雪に対する恐怖は
小さくなるどころか募る一方で、去年など脅えたユリウスは事もあろうに薄い寝巻き一枚の格好で
書斎のレオニードのもとに駆け込んでしまったのだ。
それを思い出すと耐えられない恥ずかしさで一杯になってしまう。
だがその時、レオニードは嗤わずにそんなユリウスを受け止めて、彼女が落ち着くまで
辛抱強くつきそってくれた。その優しさで彼女は昨冬をなんとか乗り切れたようなものだった。
だから今、からかわれて怒る一方で、大きな安堵感で彼女は暖かく満たされ、小さな声で言った。
「・・・ありがとう。」
レオニードはまるで子供を安心させるように彼女の後頭部を軽くポンポンとたたくと、
戸口に待たせていたロストフスキーとまた軍務に戻っていってしまった。

10:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:28:22 h2vNUIt3
ユリウスは窓から彼らを見送りながら、もう一つ、冬が彼女に思い起こさせる事を
今回もレオニードに言えなかったな・・・と思った。それはある反逆者の面差しだった。
記憶を失って混乱していたあの冬、いや言い方を変えれば彼女にとっては記憶が始まる最初の冬、
レオニードはなぜか彼女と弟をモスクワ蜂起に失敗した反乱分子達が処罰を言い渡される広場へ伴った。
リュドミールへの教育の一環だったのかもしれないが、まだ記憶を失って日も浅く精神的に不安定な
ユリウスには正直、辛い経験だった。
次々に名を呼ばれ、処罰を言い渡される罪人達の中にその若者はいた。
彼は亜麻色の髪を寒風にさらし、罪を言い渡されているにも関わらず、まるでそこに居る事を誇るかのように
広場一杯の群集の前に傲然と胸を張って立っていた。
なぜか彼女の心は激しくゆさぶられ喉が詰まるような思いで一杯になり、彼以外の何も目に入らなくなってしまった。
名前も顔も知らない青年だというのに・・・。
偶然にも彼はリュドミールの命の恩人だったらしく、リュドミールがすっかり興奮してしまったので、
彼らは早々に広場を引き上げた。
その青年の名はアレクセイ・ミハイロフ。
ユリウスはその名前をしっかりと記憶に刻み込んだ。レオニードには正直に言ってみたのだが、
「名門貴族の家柄だったが、兄弟そろって革命派に転じて破壊活動に従事していた男だ。
そんな危険な男とお前に接点があった筈があるまい。リュドミールが騒ぎ立てていたから、
そんな気分になったのだろう。」と片付けられてしまった。

言われてしまえば確かにその通りなのかもしれない。だが心の中で彼と冬が結びついてしまったのか、
冬になると彼をひんぱんに思い出してしまうユリウスだった。
遠目に見えたに過ぎないその姿を、彼女は何度も何度も脳裏に描きなおしては飽く事がなかった。
だってささやかだが、それだけが彼女の失われた過去との糸口なのかもしれないのだ。
ただの勘違いかもしれなくても、決してその記憶の感触を手放すわけにはいかなかった。
しかしもしそれが勘違いでなければ、シベリア流刑に処せられた破壊活動家と繋がりがあったかもしれないなんて、
自分は一体何者だったのだろう。
自分自身が何者かわからないというのは実に恐ろしいものだった。
こうしてユスーポフ家で周囲の優しさに守られて暮らしていても、そこには薄氷を踏みながら歩いているような
恐怖が常につきまとっていた。そしてその薄い氷の下には一体何が隠されているかは自分にもわからないのだ。
氷が割れた時に自分を飲み込むのは何なのだろう。
そう思うと、たとえ今の安寧を失っても自分の過去は何としても探し出さねばと、時折ユリウスは
駆り立てられるように感じていた。
だが、もしもそれでユスーポフ家の人々に迷惑をかけるような事になれば、どうしたらいいのかわからない。
とにかくもう一度、あの反逆者についてレオニードに相談してみようと思ったのだが・・・。
ユリウスは小さくため息をつくと、冬はまだまだ先だと自分に言い聞かせ、
今頃しびれをきらしているだろうリュドミールの部屋へ向かっていった。

11:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:28:47 h2vNUIt3
(3)

その一月後、リュドミールの誕生祝いがユスーポフ邸で名門貴族としてはずいぶんささやかに、
家族とごく親しい身内だけでとりおこなわれていた。アデールとレオニードの事実上の別居は
すでに半ば公然としたものになっており、女主人(ホステス)を失ったこの屋敷はここ数年、
公式・非公式を問わず社交的な集いから遠ざかっていた。
もともと社交の場には義務として熱意無く参加する程度のレオニードとヴェーラだったので、
女主人の不在をいいことに、二人は静かな生活を満喫していたといってもいいいかもしれない。
だがレオニードはもとより軍務に忙殺されがちな身とあって、最低限避けられない
宮廷での公式な宴などでその時ばかりはアデールと並んでいれば事は足りたが、
ヴェーラは未婚の娘としては「変わり者」のレッテルを貼られかねないほど社交の場から遠ざかっていた。
もともと華やかな場にうつつをぬかす種類の娘ではなかったが、その簡素な暮らしぶりはすでに
家を守る未亡人といった趣にまで達していた。
そんな彼女もそろそろ縁談を決めないといけないぎりぎりの年齢にさしかかっており、
レオニードは保護者として一族の者から苦言を呈されることも度々だったが、
彼は多忙を口実に言を左右にしていた。
なぜなら、どんな縁談がこようがヴェーラが行く筈は無かった。
どんなに気丈を装っていようが、無残な結果で終わった恋の痛手が彼女をいまだにしっかりと
掴んでいるのは兄の眼には明らかだった。
それに爛熟したロシア貴族社会とはいえ、ユスーポフ家ほどの名門の娘であれば処女でない身で花嫁になった場合、
万が一相手に騒ぎ立てられてはどんなスキャンダルになるか、兄妹ともによく承知していた。
彼らは過ぎた事にお互いを責めるような事は無く、むしろ相手に思いやりを持って淡々と暮らしていたが、
二人の間にはエフレムの流した血がいまだ拭い去れずこびりついていた。
そんなレオニードとヴェーラには無邪気なリュドミールとユリウスの存在は一種の緩衝材でもあったのだ。

もちろんリュドミールはそんな兄達の事情など気づく由もなく、すこぶる楽しく誕生日を過ごしていた。
昼間は一族の中でもごく近しい者達が、リュドミールに年の近いいとこ達を中心に呼ばれており、
やや年長の者の中には若く美しいユリウスに好奇の目を向ける者もいた。(といっても10代の少年だが、
早熟な者ならこの年頃のロシア貴族はなかなかこういった面には油断がならないものだった。)
そんな一人が部屋の隅で彼女をつかまえて話しかけているところに、ちょうどレオニードが帰邸した。
彼は客人たちに遅刻の無礼を詫びながらさりげなくユリウスを下がらせ、彼女はむしろほっとしてその場を退いた。
リュドミールへの祝いに用意した馬を見せに厩舎へ弟と客人達を誘導しながら、
レオニードはユリウスを人前に出したヴェーラにちらりと咎めるような視線を送ったが、
妹は素知らぬふうを装った。

12:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:29:08 h2vNUIt3
客人達は夕刻には帰り、晩餐はいつもの顔ぶれだった。
リュドミールは贈られた馬に夢中でその話ばかりをして飽きず、その様子にレオニードとユリウスは苦笑まじりで目を見交わしあった。
夜も更けてようやくリュドミールもベッドに入り、ヴェーラはお休みのキスに枕元に来た。
「いい誕生日だった?」
「はい姉上。本当に・・・楽しかったな。今年は兄上も早く帰ってこられて一緒に過ごせたし・・・馬には本当に」
「リュドミール、その話はもう勘弁してちょうだい」と笑うヴェーラにさすがにリュドミールも照れ笑いをした。
だが次いでその表情からふっと笑いが消えたのでヴェーラは「どうしたの?」と優しく尋ねた。

「姉様・・・。兄上が昼間、途中でユリウスをお茶会から引っ込めてしまったよね。」
「ええ・・・。それが何か?」
「僕はユリウスにはずっと一緒に祝っててほしかったのだけど。」
「リュドミール・・・ユリウスは家族ではないのよ。とても仲良くはしているけれど・・・。
さっきも兄上に無理にお願いして一緒に写真も撮っていたけれど、その事には兄上、怒ってらっしゃるのよ。
あなたも自分の立場というものをもうそろそろわからねば。」
「うん・・・。それはわかってるけど・・・。」ヴェーラは急にしょげたリュドミールがふと不憫で言葉を足した。
「まあ・・・あの時はセルゲイがユリウスにちょっかいをかけようとしていたから、お兄様はそれがお嫌だったのでしょうね。」
「ちょっかい?」
「あなたにこんな事言うのはまだ早いけれど、ユリウスはたいそう美人ですからね。殿方が彼女に惹かれるのは仕方ない事だけど、
我が家としてはほっとくわけにはいかないわ。もしユリウスがもて遊ばれるような事があればいやでしょう?」
「遊びでなければ・・・いいの?そうか、そういう理由でユリウスがいなくなる事だってあるんだ・・・。
誰かに連れていかれちゃうのかも・・・。」
「リュドミール?」
「姉様、僕、ユリウスがここから居なくなってしまわないか心配で・・・。だから僕とユリウスはこないだ約束したんだ。
ずっと友達でいようって。でも、そんな理由でユリウスが居なくなるかもしれないなんて考えた事も無かった・・・。」
「リュドミール・・・」ヴェーラはそんなにも弟がユリウスを思っていることに胸をつかれ、彼の手を優しく握った。
「だいじょうぶよ、ユリウスはきっとずっとこの屋敷にいてくれるわ。」
「本当に?姉様。僕が寄宿舎に入っても兄上はユリウスをこの屋敷から追い出したりしないよね?」
「ええ大丈夫よ。兄上は決してそんな事はなさらないわ。だから心配せず、もうお休みなさい。
楽しい一日だったでしょう?その気持ちのままお眠りなさい。」
そっとヴェーラはリュドミールの手を冷えないように羽根布団の中に入れてやり、
リュドミールはにっこりして姉の顔を見つめると瞳を閉じた。そしてほどなくことんと音がするように眠りに落ちた。
ヴェーラはしばらくその寝顔を見つめていたが、やがて灯りを落として弟の寝室を去った。

13:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:29:32 h2vNUIt3
そして廊下に出て小さくため息をついた。自分の偽善者ぶりには我ながらほとほとうんざりだった。
次いで、確かにリュドミールの家庭教師という口実が無くなりもしユリウスが出て行くことを望んだら、
兄は今度はどう彼女を言いくるめるつもりなのかと苦笑した。
兄は絶対にユリウスをこの屋敷から自由にする事はできないのだ。
さすがにユリウスも少しおかしいと感じるのでないだろうか。
何も知らないユリウスは兄を信頼しきっており、兄も彼女の記憶喪失前とはうってかわって優しく接していた。
今夜の晩餐でも二人は微笑を浮かべあい、その姿はまるで気を許しあった恋人同士のようだった。
もっとも兄は傍目からそのように見えているなど全く想像もしていないだろう。
ヴェーラの見るところ、笑止な事に兄は自分の気持ちに気づいてすらいない。

そもそもの最初から、反逆者を追ってきたユリウスに彼がロシア帝国の軍人として反発しつつも、
一方では男として関心をおさえきれないでいるのが、妹の目からは明らかだった。
そして彼女が記憶を失った後の彼は監禁者というよりは保護者といった方が正しいような立場に、
(彼は絶対に認めないだろうが)嬉々としてたっており、その関わり方はあきらかに任務の域を逸脱したものだった。
だが何と言ってもユリウスは皇帝陛下からの預かりもので、監視の対象である彼女に惹かれる事は
あの忠勤な兄にはかなりのジレンマの筈だ。おそらく兄は自分の気持ちに気づく事すら無意識のうちに己に禁じているのだろう。
それが恋なのかどうかまではわからなかったが、どのみち感情の歯車が動き出してしまえばどうしようもない事を
ヴェーラは自己の経験としてよく知っていた。
ヴェーラがともすれば兄とユリウスの関係におそらく本人達より敏感になっているきらいがあるのも無理は無かった。
彼女はやむをえなかったとはいえ彼女の恋人を射殺した兄をまだ心のどこかで許せていなかった。
あの冷徹な兄、常に情よりも皇帝陛下への忠誠や貴族としての矜持、軍人としての責務を優先してきた兄が
それと激しく矛盾する気持ちを抱いた時、自分の感情にどう落とし前をつけるのか見てみたいという意地の悪い気持ちが、
ほんの少しだけだが彼女の中にはあった。
ヴェーラの目には、レオニードが抑制を失わない限りこのまま永遠に続くのかとも思えた奇妙に無邪気な彼らの関係。
だが、それはその後意外と早く幕を下ろす事となった。

14:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:29:53 h2vNUIt3
(4)

それはリュドミールの誕生日から少し日が過ぎ、秋もだいぶ深まった深夜の事だった。
レオニードは書斎で軍部から持ち帰った報告書を読んでいた。
内容に集中して時間を忘れ、気が付くと真夜中をだいぶ過ぎていた。
少し迷ったが今夜はもうここで切り上げることとして立ち上がった時、
ふと冷たい風を感じて振り返ると書斎の奥のカーテンが窓が僅かに開いていたらしく、ゆれている。
レオニードは今まで気づかなかったのを不思議に思った。だがこの夜中に下僕を呼んで閉めさせるのも面倒で、
全く警戒せずその窓に近づき、そして潜んでいた賊と顔を会わせた。

己のうかつさに思わず笑い出しそうになったが、血走った目でレオニードの胸元に銃をつきつけてきた男には
そんな余裕は無さそうだった。
彼は「声を出すな。」と言わずもがなのセリフを発しながら銃口でレオニードの胸板を押し、
書斎の中央近くまで下がらせた。レオニードよりわずかに背は低いが腕力はありそうな恰幅のいい男だった。
何も声を出さずともそこらのランプ一つでも倒せば隣室のロストフスキー達が駆けつけてくるだろう。
だが問題は男が銃口をレオニードの胸板から外さず、引き金には指をかけていることだ。
それをなんとかせねば、この緊張しきった男はわずかな刺激ですぐに引き金をひいてしまいそうだった。
一方で男は誰か入ってくるのを警戒してかひどく戸口の方を気にしており、
せっかく脅しているレオニードの顔をろくに見ようともしなかった。それはレオニードにとっては大変な幸運だった。
なぜなら彼は視界の隅に何か動くものを感じ、次いでその正体がわかった時、大層唖然とし、次に激しく動揺していたからだ。
ユリウスが奥の衝立の陰にある、もう一つのライティングデスクの向こうで呆然としていた。
(一体いつからいたんだ!)とレオニードは今夜の己の鈍さを心底から罵りつつ、必死で表情をおさえた。
賊が気づかぬうちにユリウスを一刻も早く無傷でこの部屋から出さねばならない。
だが戸口との間に自分達がいる以上、自分達の位置を変えるか、賊が彼女に気づく前にカタをつけてしまわねば。
言葉で挑発してみるか・・・?と思案したが、ユリウスがそっとペーパーナイフに手を伸ばした気配に気づき、
(ばかもの!)と心中でうめいた。あの細腕でどうなるものか。逆に最悪の事態を招きかねなかった。
レオニードは焦った。彼女が馬鹿な事をする前になんとかせねば。

「あまり突きつけるな。痛い。」わずかに足を進めながらレオニードは言ってみた。
男は「勝手に動くな。侯爵様よ。俺の気分次第であんたは痛いも何も言ってられなくなるんだぜ。」
と答えながら、レオニードにつられるように歩みを進めた。
賊がユリウスに背中を向ける姿勢になったところでレオニードは立ち止まった。
「ほう・・・。私が誰なのかはわかっているのだな。勇気のある事だ。」と言い、言葉を続けた。
「物取りか?欲しいものがあれば取ってさっさと出て行け。」男は少し迷うような目つきをし、
「欲しいものねえ・・・」と口元を曲げ、ピストルを握りなおそうとした。

15:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:30:14 h2vNUIt3
その瞬間をレオニードは見逃さず、手刀で男の手首を思い切り叩き落とし、次いで足元を払った。
そしてその刹那、レオニードが止める暇も無くユリウスが飛び出してきて、賊の体に体当たりしてナイフを突き立てた。
だが急所ははずれ、ナイフごと振り払われた彼女は近くにあったコンソールにぶつかり倒れた。
その間にレオニードは賊の腕を逆手につかみ短銃を握る手をねじりあげた。
その痛みに相手は思わず銃の引き金をひき、銃声が響いたが、銃口は天井を向いていた。
これで隣室の部下らをはじめ、屋敷中の者が駆けつけてくるだろう。
男の目が絶望と憤怒に燃え、だが腕をねじりあげられる痛みに耐え切れずついに銃を放してしまうと、
今度は逆に死に物狂いの力でレオニードの喉首を締め上げてきた。
レオニードはその姿勢から膝で思い切り相手の足元を払い、腹を蹴り上げ、
その弾みで男の腕を振り払い体を引き離した。
そこへ他の者達が駆けつけて来て、倒れた賊が床のピストルに手を伸ばそうとしているのを見てとるや、
ロストフスキーはとっさに自らの短銃を抜き、一発で男の胸板を撃ちぬいた。

ユリウスは自失した様子で床に膝をついていた。
レオニードは「ユリウス!大丈夫か!」と急ぎ駆け寄ったが、
ユリウスはひどくのろのろと顔を揚げて彼を奇妙な目つきで見上げた。
「・・・ユスーポフ候・・・?」
その手にはいまだしっかりと血のついたペーパーナイフが握られていた。
「・・・? もうそれは用が無い。手当てをするから離しなさい。」
と言って延ばしたレオニードの手をユリウスは振り払うと、彼の目を正面から見据え、
歯から押し出すようにして「・・・僕に触れるな・・・!」と言った。
その烈しい眼差しを見た時、彼はユリウスが記憶を取り戻したことがわかった。
二人の間に緊張が走り、レオニードはユリウスに刺される事を一瞬だが覚悟した。

16:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:30:57 h2vNUIt3
(5)

そこに近づいたロストフスキーは彼らの様子がおかしいとは感じたが、まさかそんな事とは思わずレオニードに声をかけた。
「候、ご無事ですか。賊は既に絶命しております。私どもが控えていながらこのような・・・!」
レオニードは立ち上がるとナイフを握ったままのユリウスにあえて背を向け、遺骸の方に向かった。
「よい、もともと私が油断していたのだ。この屋敷に賊を入り込ませるなど己の管理が行き届いていなかった証拠だ。
こいつを死なせてしまったのは残念だったがやむを得まい。手間をかけたな。」
賊の体をあらため、一方ではユリウスが自失したままなのを見ながら彼女に聞こえないように続けた。
「身元がわかるようなものはさすがに身につけていないな。革命分子かラスプーチンの手のものだろうが、どうせ何もわかるまい。
ユリウスの事もある。あまり表沙汰にするな。」
もっともレオニードはこれは革命派の仕業ではあるまいとふんでいた。爆弾での暗殺がお家芸の彼らなら、
自分は今頃とうに肉片になっていた筈だ。彼をすぐに殺さなかったところを見るとむしろこれはユリウスを狙ったものだろう。
ラスプーチンの手の者なら組織だったものではなく、また捕らえたところで大元との関係まで探れる筈は無かった。
「承知いたしました。まだ、仲間の者もそこいらに潜んでいるやもしれません。私どもで捜索してまいりますので、
どうぞ候はもうお休みください。」

ロストフスキーらに後を託し、レオニードはユリウスと共に彼の居室に移った。彼女はまだ呆然としたままで、
その手にはいまだしっかりとペーパーナイフが握り締められ、片腕から血を流しながらもユリウスはそれを離そうとしなかった。
自ら握ったナイフの切っ先がかすっただけの軽い傷だったので手当て用の医薬品を運ばせた後、レオニードは人払いをし自ら
ユリウスの傷の手当てをした。軍人らしく手馴れた、しかし意外に優しい手つきで応急処置をほどこされながら
ユリウスはいまだ自失した様子だった。

ナイフを手にした時から奇妙な感覚が這い上がってきてはいた。
だがあの状況ではその理由を探る余裕は無く、レオニードを守らねばという一心でユリウスは賊にぶつかっていったのだ。
しかし、男の背中にナイフを突き刺した刹那に奔った、ナイフが人の肉に食い込み、骨に当たるその感覚!
そんなはずはないのに、「この感覚を知っている」という認識が体を貫き、ユリウスは絶叫しそうになった。
そして賊に振り払われて倒れながら机にぶつかり、倒れ、だが、ナイフを握る手を通して身を貫く感覚はそのままで・・・
続いて失われていた記憶の奔流が起こったのだ。

(いったいなぜ・・・)忘れていることなどできたのか。
自分自身を、クラウスを。
そして彼に耐え難い形で見捨てられたことを・・・。そして自分が何から逃れてロシアにやってきたのか。
一見呆然として見えるユリウスの内面では嵐が荒れ狂い、彼女は身じろぎ一つできずにいた。
その嵐はあまりにも大きすぎ、あとわずかの刺激で口からは絶叫が飛び出し、そうすれば今度こそ自分は本当に狂ってしまうだろう
としか思えなかった。
一方のレオニードは先ほどの乱闘中にユリウスが記憶を取り戻したらしい事には気づいていたので、彼女の沈黙をそのための混乱と受け止めていた。
同時に、ユリウスがここ数年自分に寄せていた全幅の信頼も消えうせたであろうことも察し、なぜかその事にほろ苦さを感じた。
そして、以前のユリウスに対して示していた自らの暴君ぶりを思い出すと、記憶を取り戻した彼女にどのような態度をとればいいのか
正直彼自身も少し迷い、しばらく部屋には沈黙だけが降りていた。だが記憶を失っていたからこその行動で手段としては愚かだったとはいえ、
この女が自分の身の危険を顧みずに彼を救おうとしたのは確かで、さすがにその事に知らぬ振りはできなかった。

17:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:31:18 h2vNUIt3
「すまぬ」「・・・え?」
レオニードの思わぬ言葉にユリウスの意識はふっと混乱する内部から浮上した。
彼はユリウスがきつく握り締め過ぎて離せなくなってしまった銀製のペーパーナイフから優しく、
しかし断固とした力で1本づつ指を外させながら言った。
「人が死ぬところなど見せてしまった。しかもこの屋敷の中で・・・。お前にまで刃を持たせるなどあってはならぬ事だった。
さぞや恐ろしかっただろう。悪かった。」
ユリウスは苦い思いで呟いた。
「・・・。初めてではない。」
「?」
最後の指が外されると同時にユリウスはついに抑制を失い、
「初めてではない・・・!僕は・・・僕は・・・人殺しだ!」と悲鳴のように言葉をしぼりだすと同時に床に崩れおちた。
がっくりと床に手をつき、
「僕は・・・僕は・・・この手は・・・!クラウスにはきっとあの時見えたんだ・・・。この手が血に染まっている事を・・・。
だから僕を置いて・・・。」
レオニードは虚をつかれてユリウスを眺め、それから傍らに膝をつき覗きこむような格好で
「ユリウス・・・?何を言っているのだ・・・?」と尋ねた。
しかしユリウスはもう言葉にもならずただ頬に滂沱と涙を伝わせるのみだった。その目には目の前のものは何も映らず、
ただ自分の内部で荒れ狂う記憶と悔悟の苦しみだけを見つめており、傍らにレオニードがいる事すら、意識していなかった。
大きな悲嘆と絶望のかたまりがのどまでこみあげ、もう自分自身をどうすることもできなかった。
額をつけるようにしてしばらくその様子を見ていたレオニードはやおらユリウスを抱き上げると近くの寝椅子まで運び、
彼女を横たえると自らも傍らに椅子をひき、腰掛けた。
そしてユリウスの濡れたほほに指でふれたが、ユリウスは無反応でただ天井を見上げて涙を流すのみだった。

一刻ほどもそのままだったろうか。
レオニードはかたわらにあった水差しにナプキンをひたし軽く絞るとそっとユリウスの瞳にそれを載せた。
「話すがよい。それで楽になるのなら」
沈黙のまま、また小半時が過ぎたがやがてユリウスはゆっくりと語り始めた。
誰にも語る筈のなかった、自らの罪を。

「これでわかっただろう・・・。僕は罪人だ。
ドイツに送還するなり、ロシアの監獄に入れるなり好きにしてくれ・・・。」
長い告白のあと、かすれた声でかすかになげやりな響きでユリウスはつぶやいた。
ああ・・・とうとう・・・何もかもを明るみに出してしまった・・・。
しかも最悪の敵に・・・。
遠くロシアまで死ぬような思いでクラウスを追ってきたが・・・めぐり合えた彼には一瞬で置き去りにされ・・・。
そうだ。この男に言われたように、革命の闘士に恋など何の意味があったろう。
僕は一体彼の何を知っていたのだ。ドイツで置き去られた事が既に彼の答えだったのに、
それでもロシアまでも来てしまったのだ・・・。
僕の独り相撲だ。いや、違う、自らの罪から逃れるためにクラウスを利用しようとしていたんだ。
だが結局逃れきることはできなかった。この男は僕を官憲に引き渡すだろう。
僕がロシアに来たのは・・・クラウスに打ち捨てられたのも・・・もしかして神に罰されるための
長い道程だったのかもしれない・・・。

長い沈黙が部屋を鎖していた。すっかり観念したユリウスはむしろ今までに無い平安を感じていた。
かつてないやすらぎの中、このまま眠りにおちてしまいそうだった。だがレオニードの答えは意外なものだった。
「お前は罰されたいのか?だがあいにくここはドイツでなくロシアだ。お前はロシアでは何の罪も犯していない。」
ふいと立ち上がるとレオニードは酒を2杯注ぎ、横たわっていたユリウスを座りなおさせ、
自らも口をつけながらもう片方の杯を渡した。
「飲め」
呆然と、言われるがままに酒を口に含むとカッと熱いものがのどを伝いおり、ユリウスの意識を先ほどの麻薬めいた平安から
現実に引き戻した。

18:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:31:40 h2vNUIt3
傍らに椅子を引き、腰掛けたレオニードはユリウスと向かい合う形になった。
「それでおまえはロシアに来たのだな。そして今、罪以外の全てを失い、いっそ罰されたいと願っているのか。
だが私はお前を裁く裁判官でもお前を赦す聖職者でもない。そしてたとえお前が裁きを受けたいと望んだとしても、
官憲に引き渡すことはできぬのだ。それでもと望むなら、お前の罪はおまえ自身であがなう道を探してくれ。」
ユリウスはぼんやりとレオニードの言葉を繰り返した。
「罪を・・・あがなう・・・。」
「ユリウス。私は軍人だ。任務とはいえ多くの人の命を直接、間接に左右する。
軍人でなければ罪として裁かれるであろうことも多い。
常に最良と思われる道を選び後悔はしないが、神の目にはどうなのか、所詮わからぬ。
私にできるのは多くの命を左右した己の行為の帰結を引き受けるだけだ。」
レオニードはユリウスの目を見据えて言った。
「お前も同じだ。お前はまだ人生を始めてもいなかった子供だ。だが過ちを冒してしまったのは確かだ。
いつか、道が見つかることもあるかもしれぬな。それまではお前が忘れられないのならその罪と生きていくしかあるまい。
それがいやなら全て忘れてしまえ。」

ユリウスは呆然とレオニードを見つめた。ユリウスは自殺も同然にいま全てをなげうったのに、あれだけ彼女を苦しめてきた
罪の恐怖と重さをこの男はあっさりとかわしてしまった。まるで肩透かしをくわされたようで、そんな気楽に全てを忘れるなど
できるものかと、(もっともここ数年は確かに忘れていたのだが。)急にユリウスの胸には怒りがこみ上げてきた。
レオニードはそんなユリウスの表情を見極めて、もう一つゆさぶりをかけた。
「ドイツの刑罰の事はよく知らんが、実際、捕らえられてもたいした刑になったかどうかもわからんぞ。
最初は過剰防衛で、2つ目は毒殺犯本人が進んで飲んだも同然だし、結局彼女の死も確認していない。
どちらにせよお前は未成年だったのだろう?発端になった詐欺罪にしてもお前は主犯ではない。
そういう意味ではお前の過ちの全ての元凶はお前の母だ。」
カッとしたユリウスは杯を握り締めて思わず叫んだ。
「母さんを悪く言うな!」
「そうか?お前の話だと諸悪の根源はお前の母親だぞ。ここロシアの貧民ならばいざ知らず、何もお前の人生を捻じ曲げなくても
貧しくとも親子が生きる道はあったのではないか?本当に娘を愛すればそのような偽りの過酷な道を歩ませる事は無かった筈だ。」
「何も・・・何も知らないくせに・・・!母さんがどんなに僕を愛していたか・・・!
父さんがどんなひどいやり方で母さんを捨てたか!僕らがどんな貧窮をしのいだかを。そうだ今ならわかる、
僕を娘として育てれば早晩親子で春をひさぐしかなかったろう。私生児を生んだ母さんには他に道は無かったんだ!」
杯を暖炉に投げつけユリウスは力いっぱい叫んだ。

19:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:32:00 h2vNUIt3
だが頭の片隅では不思議な明瞭さが、レオニードが言った事もまた真実の一面であるとユリウスに告げていた。
母はなぜあんな事ができたのか。十数年もかけて周囲を欺き、その間、娘には虚偽の人生を強いたのだ。
もしかしたら一生続けさせる気だったのか。
ああだけど自分はどれだけその母を愛し、必要としていたことか。
クラウスに恋をするまで、いや恋をした後も母が生きている間は母こそが彼女の全てだった。
それなのに、母は彼女を母が仕組んだ偽りの中に一人置き去りにしていったのだ。

再び混乱に突き落とされ、今度はユリウスは声をあげて子供のように泣き出してしまった。
拳で寝椅子を叩くユリウスをレオニードは引き寄せ、胸に抱いた。
彼の胸の中でユリウスはまた声をあげて泣き、しゃくりあげ、彼の胸を拳で叩いたがそれは抵抗ではなく、
ただかんしゃくを起こした子供のしぐさだった。
思えば幼い頃からユリウスは母の前でもそのように泣いたことは無かった。彼女は母のため、いつも強い
「息子」を演じてきたのだから。自分でも気づかなかった、常に胸の中にあった何か大きな堅い塊が
しゃくりあげる度に少しづつ砕け散り、小さくなっていった。
やがて段々泣き声もしぐさも小さくなり、先ほど感じたやすらかさと眠気にユリウスは少しづつ包まれていった。
レオニードは眠ってしまったユリウスをそっと抱きしめた。それは性的なものを全く含まない、
傷ついた子供を抱きしめるのと同じものだった。
確かにユリウスの告白は意外なものだったが、軍人であるレオニードは人の生死に対して一般人とは少し違う感覚を持っていた。
彼女に告げたようにユリウスの最初の殺人は母親を救おうとした過剰防衛に過ぎないし、第2の殺人も完遂したのか未確認だ。
だがこの告白で財務長官が言っていた「不可思議な不幸続きのアーレンスマイヤ家」に何が起こっていたかはおおよそ掴めた。
何より母親によって始めからゆがめられてしまったユリウスの人生に哀れみをおぼえたのだ。
だがたとえ本人が本気で罪の裁きを望んでも、ロシア皇室の隠し財産の事を知る彼女にそれを許すわけにはいかない。
もっともレオニードが見たところ彼女にはまだその覚悟ができているわけではなく、今はただ混乱しているだけだった。
姑息かもしれないが、彼としてはユリウスには自分自身の罪と折り合いをつけて生きていく方向に誘導するしかなかった。

ロストフスキーが処理がすんだことと今後の処置について報告するべくやって来たが、レオニードは黙って手振りで
(明日聞く)と伝えた。ユリウスがレオニードに抱かれて横たわっているのを見ても、さすがに付き合いの長いロストフスキーは
驚いた顔ひとつせず、下がっていった。
レオニードは今夜はユリウスを一人にするつもりは無かった。彼は混乱し絶望した彼女が自らを害する可能性を恐れた。

20:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:33:23 h2vNUIt3
(6)

ユリウスが目覚めた時、部屋の窓には朝日の昇り初めの光が差し込んでいた。
濁流から打ち上げられた思いでユリウスは厚いカーテンから差し込む光の筋を眺めながら、全てを忘れて呑気に過ごしていた
昨日までの日々とは全てが変わってしまったことをしみじみと噛み締めた。
昨日までの自分は無感覚な夢の中にいたようなものだ。ある意味では、自分があんなにも望んでいた平安を得た日々
だったのかもしれない。だが、もう二度とあんな時間は自分の人生には訪れる事はないだろう。その全てはまやかしだったのだ。
朝の清らかな光にいままでの欺瞞を責められるように感じてそれ以上耐えきれなくなり、目を閉じてうつむけに
なろうとした次の瞬間、ようやく彼女は自分がレオニードの膝で寝ている事に気づき跳ね起きた。
「まさか一晩中・・・?」
呆然としてユリウスは寝椅子の背もたれに肩を預けた彼の寝顔を見つめた。記憶を失っていた間でもこんなに
間近でレオニードをしげしげと見つめたことは無かった。ユリウスは少しぼんやりと、彼の寝顔を眺めていた。
やがてレオニードがみじろぎして目をさましそのまままっすぐに黒い瞳で彼女を見た。ユリウスは今まで自分が
彼を眺めていたことに咄嗟にバツの悪さを感じる一方で、自分が全てを告白し、おそらくもっとも知られてはいけない
相手に弱みを握られてしまった事を改めて思い出し、目を閉じた。
(もう、これで全て終わりだ・・・。ゆうべは官憲には渡さないと言ったが・・・。これで文字通りこの男に
生殺与奪を握られてしまった・・・。)

「起きたのか。」
ユリウスは返事をせず、目を落とし床を見つめた。だが聞こえてきたのはレオニードが軽く吹きだす音だった。
「?」目をあげたユリウスの顔を見てレオニードはさらに笑った。
「おまえ、ひどい顔だぞ。」
「・・・!」
「まあ冷たい水で洗って少し冷やすことだな」立ち上がってひらりと上着を肩にかけると
「私は寝室で寝なおす。これで軍務では体がもたんからな」と赤い顔のユリウスを尻目に隣の寝室に向かった。
「あ・・・」とユリウスは思わず1歩踏み出した。レオニードは振り返ると
「何だ?まだ一緒に寝足り無いのか?寝室までついてくる気か?」とユリウスを思いがけずからかった。
今度こそ真っ赤になったユリウスは思わず手近なクッションをつかむとレオニードの背中に投げつけたが、
彼はかまわず笑いながらいってしまった。

空しく床に落ちたクッションを拾い上げるとユリウスもふいに脱力し、笑いの発作におそわれそうになった。
「こんな時に・・・ばかな・・・」と首を振ると、壁にかかっていた鏡に、泣きはらして、かつて見たことも
ないほど目を腫れあがらせた自分の顔が見えた。ユリウスは今度こそ狂気じみた発作に逆らえず笑い出してしまった。
涙が出てくるほど一人で寝椅子にころがって笑い、やがて笑いの発作が鎮まるとあおむけになって涙がほおをつたうに任せた。
ゆうべあんなに泣いたのに、涙はいつまでも止まる事はなかった。

21:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:33:45 h2vNUIt3
レオニードが予測したように賊の身元はわからなかった。アデールが戻らなくなって数年、屋敷の警備が手薄に
なっていた事を反省しレオニードは使用人の身元の洗い直しをはじめ、商人など屋敷への人の出入りをもう一度締め直させた。
そしてユリウスに釘をさした。
今の彼女を脅かしたくはなかったが、もしラスプーチンが依然としてユリウスを狙っているのなら、
記憶を回復した彼女が脱走したところで早々に彼の魔手に飛び込む羽目になるのがおちだった。
ユリウスとてあの異様な僧にまた捕らえられるのだけはごめんこうむりたかったのでその勧告は素直に受け止めた。

どのみち、すぐに脱走を図るような力など彼女には無かった。
記憶が戻ったことでユリウスはひどい苦しみに襲われていた。故国で犯した数々の罪の記憶、たとえここに監禁されて
いなくても還るべき故郷は自ら失ってしまったこと、それだけの犠牲を払ってまで追ってきたクラウスには瞬時にして
見捨てられたこと。そしてそのクラウス、いやアレクセイは終身刑に処せられてしまい、生きて再会できる望みは今度こそ
限りなく薄くなっている。それらの全てがユリウスの心を苛んだ。
何よりもそれらのことが過ぎてもう3年とは!
絶望に錯乱して己を失おうにも、若いユリウスにとっては3年とは取り返しのつかない長い時間に思えた。
知らないうちにクラウスは刑に処され、手の届かない遠い場所へ送られてしまっていた。
しかもその間、自分はのうのうとユスーポフ家で安寧を味わっていたに等しい。おまけに自分の監禁者を恩人とすら
思い、感謝し信用しきっていたのだ。自らのおめでたさにユリウスは歯噛みし、自分を騙していたレオニードを憎み、
何より自分自身に激しい羞恥と怒りをおぼえた。
そのくせ、この数年間レオニードに頼り切っていた自分がまだどこかにいて、実のところ怒りのですら彼への信頼感を
根こそぎ無くすことがどうしてもできなかった。それにしても動揺のあまりとは言え、自ら封印してきた全てを
彼にぶちまけてしまったことは取り返しのつかない失策だった。だが不思議なことに「彼が全部知っている」という
事実はなぜか今までの人生で味わったことの無い安堵感と、一方で矛盾することに彼自身に対しては自分がひどく無防備に
なってしまったような寄る辺無さを感じさせた。これは自ら虜囚の立場に甘んじ始めているということではないのか?
ユリウスはどこか後ろめたい疑問を自分に感じた。


だがそんな事は本当に彼女を苦しめている事に比べればささいな問題だった。
何より彼女を強く苛んだのは再び肩に戻ってきた自らの罪の重さだった。
自分は殺人者なのだ。よくも今まで罪無き顔で生きてこれたものだ。ロシアに来た当初はクラウスに会えるという
期待や幻想がそれを遠くに押しやっていたが、いま取り戻した記憶は
(お前は母と共に周囲を欺き、人を殺めたのだ。おまえは未来永劫殺人者で、その罪は消えることがない。
それだけでない。いまやたった一人の肉親となったあの善良なマリア・バルバラの人生におまえが何をしたか考えてもみろ。
彼女は家族を全て失い、傾きかけた家門とスキャンダルだけを背負わされ独りで取り残されたのだ。
お前を愛し、信じた高潔な姉。その愛にも信頼にも値しなかったおまえが彼女を破滅させたも同然ではないか)とささやいた。
全てが今さらどうにもならない事だったが、腹違いの姉にだけは心からユリウスは悔恨を抱いた。
だが、ここロシアで深く悔いても、まさにそれはユリウスの心の中だけの問題であり、彼女はレオニードの言葉を思い出して
いつか自分がこの罪を贖うことがあるのだろうか、それにはどうしたらいいのかとあやぶんだ。
だが彼の言うとおり、忘れられないのなら、結局それが分かる、あるいは裁きの日を迎えるまでは重すぎる罪の記憶を
再び背負っていくしか無いのだった。

22:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:34:15 h2vNUIt3
そして同じくらい彼女を苦しめたのは、クラウスがシベリア流刑、しかも終身刑に処されているという冷厳な事実だった。
シベリア流刑という事が何を意味するのか、外国人の彼女には本当に理解する事はできなかったが、革命派として終身刑に
処された彼がむごい処遇をうけているだろう事は、明らかだった。
ああ・・・!でも生きていてさえくれれば!しかし、生き抜く事、この弾圧の時期において、それがシベリアの監獄での
革命派にとっていかに過酷で難しいことか、ユリウスは知らなかった。アレクセイがどんな日々を耐えているかを知れば、
おそらく彼女はどんな手段を使ってでも出奔しただろう。しかしその頃の彼女はロシアについてあまりにも無知だった。 
おまけによみがえった記憶の辛さで彼女の意気は少し挫けてしまっていた。憲兵たちの中に慌ただしく自分を突き放して
去っていった彼の姿。ドイツで置いていかれた時とは事情が違う。追われていた彼に他の選択肢は無かったろうとはいえ、
思い出すたびに彼女の胸は鋭い痛みに貫かれた。そして、もう一つ、もしかしたら一番苦しいかもしれないのは、記憶を
回復した時の透徹した自己認識、自分はとにかく逃げ出したかったのだ・・・クラウスを逃げ場に利用しようとしたのだ
・・・というあまりにも苦い真実だった。
無理とわかっていても今すぐにでもこの屋敷を脱走してシベリアまで駆けつけたい、例え終身刑でも少しでも傍にいたいと
いう狂おしい思いと、それでも又拒まれるのではという恐れに彼女の気持ちは引き裂かれた。決してクラウスの事をあきらめた
のでは無かったが、この頃の彼女は自分自身にすら懐疑を抱き、いわばバラバラになってしまった自己のかけらを拾い集めるのに
精一杯になっていた。そしてやっとの思いで集めたそれらを繋ぎ合わせた所で、できあがる模様が以前と同じものになるのか
どうかすらわからなかった。

そのように自らを苛んでユリウスは日々を過ごしていた。悔恨と疑惑に毎夜眠れずに横たわり、天井を見つめ、いつか疲れ果てて
涙もかれていた。それでも朝は毎日訪れてくるのだった。
だがやがて彼女は少しづつ力を回復させていった。彼女の精神はもろいものだったが、肉体そのものに、自己を再生させるエネル
ギーがまだ残っていたようだった。全てを崩壊させてしまうには、まだあまりにも彼女の心も体も若かったのだ。
皮肉なことにユスーポフ家に軟禁されて外界の刺激から隔離されていることはいわば修道院の僧房に入ったように、苦しむ彼女が
傷を癒すのに必要な孤独と静寂の時間を与えていた。それに彼女自身は気づかなかったが、レオニードに全てを語ってしまった事で
肩に背負った罪の重みはかなり軽くなっていた。彼は裁きも赦しも与えはしなかったが、いわば聴聞僧の役割を果たしたのだ。
そしてあれからは一切何も言わず、ユリウスが自己と戦っているのをただ黙って見ていた。

記憶が回復したことを知らされたヴェーラは驚き、逆に気の毒にすら思った。リュドミールには、ただユリウスが病気とだけ伝えられ
見舞いも禁じられた。彼は心配でたまらなかったが命には別状のあることではないと言い含められ、彼女が冬が苦手なことは子供ながら
承知していたので回復を首を長くして待っていた。そして毎朝必ず、自分で温室の花を摘んできて、彼女の朝食の盆に添えるように
していた。最初の頃は手付かずのままの朝食と共に花も戻されてきていたが、やがてそれがリュドミールからのものだと知らされて以来、
花だけは盆に帰ってこなくなり、やがて少しづつ食事もとるようになっていった。

23:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:34:36 h2vNUIt3
そうしてユリウスは、やがてゆっくりと日常生活に戻り始めた。記憶喪失以前のような攻撃的な態度はとらなかったが、
もちろん、もう子犬のようにレオニードにまとわりつく事はなくなった。一方でヴェーラとリュドミールには変わらず
友情をもって接していた。ヴェーラは黙っていたことを詫び、ユリウスは彼女を許した。(あなたが好きでそうしたん
じゃない事はわかっている。いいんだ。)
時折遠くを見つめていたが、そんな時、彼女の視線は何をとらえているでもなかった。その後、苦悶の表情を浮かべ一人
部屋にひきこもってしまう時、レオニードの視線は閉じられた扉に向けられたが、決してそこに入っていきはしなかった。

あの夜を期に二人の関係が劇的に変わったかといえば、傍目にはそうであるともそうでないとも言えた。記憶を失う以前の
敵対心に満ちて背中の毛が逆立つような関係にも、ここ数年間の子供と庇護者のような関係にも戻らず、二人の関係はいわば
新しい段階に入ったのだ。それは一見距離を置いたよそよそしいものに見えた。レオニードは相変わらず忙しく屋敷には不在がち
だったし、ユリウスも彼に会う少ない機会をむしろ避けていた。
アデール夫人が去った後、ユスーポフ家は兄弟だけの気軽な(と言っても規律には厳しかったが)家庭に逆戻りし、ユリウスは食事も
ヴェーラ、リュドミールと共に席に着くことが多かった。監禁された者でありながら友人、客、家族の間のような不思議な位置に
ユリウスはいた。ことに記憶喪失中の無邪気な時代にはほとんど家族同然だった。だからレオニードのたまの帰宅時も今までどおり
ヴェーラ達と一緒に彼を出迎えても少しもおかしくなかったのだが、ユリウスは巧みに席を外し、レオニードもユリウスのいる場所に
顔を出す事も無かった。
結局二人は急に距離が短くなったことに恐れをおぼえてお互いを避けていたのだ。あの夜、ある意味では記憶を失っていた頃よりも
さらに深い所で二人の心が隔てを失っていた事は確かだった。だが彼らのどちらにとってもそれは受け入れがたい事だった。
だから傍目には、むしろ二人の関係はユリウスが姿を現したころののよそよそしさに戻ったかのようにすら見えたかもしれない。
だが注意深く観察する人間がいれば、彼らが顔を会わせるほんのわずかな時間にレオニードが細心の注意を払ってユリウスの様子を
推し量っていることを、ユリウスが視線をレオニードに向けることを避けつつも、ふとあげる瞳がきらめき、頬がわずかに紅潮している
こと、彼らの間に新たに生まれた一種の緊張感に気づいたろう。次第にユリウスが一人で部屋にいても以前のような病んだ瞳で膝を抱えて
いることは少なくなったことにヴェーラもリュドミールも気づいていた。
「もうすぐ冬が去るからかしら・・・?」

24:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:35:36 h2vNUIt3
(7)

そんなある日、レオニードが言った。ユリウスはそろそろロシア語を学ぶべきだと。これまでは脱走を警戒され、
ロシア語を学ぼうとするユリウスの試みはさりげなくも悉く絶たれてきた。身の回りの世話をする者もフランス語を
理解する者だけとし、ヴェーラ達にもユリウスにロシア語の書物やことに新聞を与えるのを禁じてきた。
(それでもユリウスは数年を過ごすうちに自然自然と片言程度ながら、ロシア語を解しつつあったのだが・・・。)
ロシア語の習得が許されたことに、ユリウスは「ドイツに帰さない」というレオニードの意思を見る気がしたが、
それが彼女にとって官憲に渡されない安寧を保障するのか、ついにロシアに終生監禁されて故郷とは永遠に断ち切られる
事を意味するのかまではわからなかった。そして記憶を取り戻した今、ロシア語をマスターすれば、ユリウスが脱走して
自由を得ようとする可能性も高まるのに、あえて学習を許すレオニードの真意をユリウスは図りかねた。
だがちょうど彼女は少しづつ気力を回復してきたところで、何か集中できる事があるのはありがたかった。ロシア語の習得に
真剣に取り組んでいれば、その間は自らをさいなむ様々なことを考えなくて済みそうだった。突然の兄の方向転換にヴェーラも
とまどいながら、ユリウスの家庭教師をかってでた。(本来ならいくらでも家庭教師など都合がつくものを、レオニードは
ユリウスが外部の人間と接触を持つことは相変わらず禁じていた。)
ヴェーラはユリウスの記憶の回復と共に兄と彼女の関係も変化せざるを得ないだろう事は察しつつも、その方向性には第三者
としては傍観を決め込むしかなかった。

やがて春も半ばを過ぎ夏も近づいた頃、珍しく軍務を午前に終えて邸に戻り、平服に着替えたレオニードが階段を上がると、
踊り場の出窓に陣取ってユリウスが本を読んでいた。
そこは庭から生い茂った木々の梢に包まれたような場所で、レオニードの少年時代のお気に入りの読書場所でもあった。
彼は懐かしい気持ちでふと足をとめ、「何を読んでいるのだ?」と久しぶりにユリウスに声をかけ、本を覗き込んだ。
レオニードの足音にも気づかず、没頭していたユリウスは驚いて顔をあげ、だが素直に表紙を見せた。
「プーシキンか・・・。革命家どものバイブルだな。だが美しいロシア語だ。学ぶにはもってこいかもな。」
ユリウスは開いたページの詩をつぶやくように読み上げた。

25:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:35:57 h2vNUIt3
「日々のいのちの営みがときにあなたを欺いたとて
悲しみを またいきどおりを抱いてはいけない。
悲しい日にはこころをおだやかにたもちなさい。
きっとふたたびよろこびの日がおとずれるから。

こころはいつもゆくすえのなかに生きる。
いまあるものはすずろにさびしい思いを呼ぶ。
ひとの世のなべてのものはつかのまに流れ去る。
流れ去るものはやがてなつかしいものとなる」

(本当に・・・そうだといいのに・・・)
出窓に並んで腰掛けた二人の瞳には外の新緑が映りこみ、ユリウスの瞳はさらに若葉色に澄むようだった。レオニードは、
つと胸をつかれて、視線をユリウスからそらした。
一方のユリウスは久しぶりに彼がごく間近にいることをなぜか意識してしまい、頬に僅かに血が上るのを感じながら、
レオニードの顔は見ず傍らにある彼のシャツの肩先を見つめていた。軍服をまとっていない彼の姿はなぜかいつもユリウスを
とまどわせた。

「だがもうこれを読みこなせるとはずいぶん早い上達だな。」開かれた頁を指ではじき、ぶっきらぼうな調子でレオニードが
言葉を接いだ。
「おまえ、隠れてロシア語を学習していたのではないか?脱走に備えての独習か。ご苦労なことだったな。」
久しぶりの皮肉な物言いにユリウスは以前のような反発よりも、むしろ気持ちが傷つけられるのを感じた。
「そんな・・・。独習なんて・・・しようにもあなたは全て取り上げたじゃないか。新聞も、本も。
フランス語しか許されなくてもここはロシアだ。この館の中だけで暮らしていても自然に言葉は入ってくるよ。」
せいいっぱいの反論にもレオニードは答えず「どうだか」という顔で庭の方を眺めていた。
その冷たい横顔にユリウスは思わずつぶやいてしまった。
「記憶を失ってた頃はあんなに優しかったのに・・・。」
それが耳に届いたレオニードも窓を包む新緑をみつめながら言葉を返した。
「お前も人が違ったように素直だったな。どちらが本当のお前なのだ?」
いつもの低いがよく響く声と違う、かすれたかすかな声のつぶやきにユリウスは思わずレオニードを見あげた。
彼の顔にはユリウスが初めて見るなんとも形容しがたい表情が浮かんでいた。

 そして本当に久しぶりに二人の瞳が合い、彼らはそのまま凍りついたようにお互い視線が外せなくなってしまった。
息詰まるような数十秒、いやもしかしたらもっと長い時間が過ぎ、やがてレオニードはそっと手をあげユリウスの頬に触れた。
視線はユリウスの瞳に据えたまま、軽く曲げられた指の背だけが頬の輪郭をたどるように微かにかすっていき、その指がそのまま
ユリウスの金髪にもぐっていった刹那、ユリウスはその感触と、これ以上見つめられる事についに耐え切れなくなり、目を閉じてしまった。
その瞬間、レオニードは引き寄せられるようにくちづけしかけ・・・からくも留まった。
そしてユリウスの肩を邪険に押しやると、怒ったような顔つきと足取りでさっさと階段を降りていった。目を閉じていたユリウスには
何が起こったかわからず、いや本当はわかりたくなく、出窓に腰掛けたまま呆然と彼を見送っていた

26:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:36:18 h2vNUIt3
二人にとってそれは出来事とも言えない、小さな波紋に過ぎなかった。そしてその数日後の事だった。
「ユリウス、いい知らせがあるのよ!」
「どうしたのヴェーラ、楽しそうだね」
「聞いたらあなたもきっと喜ぶわ。いいことユリウス、夏の別荘にあなたも連れて行くお許しをお兄様がくださったの。」
「夏の別荘・・・?」
「田舎の本宅とは別で、それは小さな、小屋みたいなものだけど湖のそばにあるの、静かで素敵なところよ。
私も4、5年ぶりかしら。革命騒ぎも少し落ち着いて最近は治安も良くなったし今年の夏はここも暑くなりそうだから、
ひさしぶりに田舎で楽しんでこいってお兄様が。」
「・・・僕を外に出すのを許すなんて、信じられない。」床に目を落としたユリウスの手をとってヴェーラは
「ごめんなさいね、ユリウス・・・。何年もこんな状況で私達本当にあなたにひどいことをしている・・・」
「ヴェーラのせいじゃないよ。」
「でもお兄様がなさってることなら、ユスーポフ家の者も同じ咎だわ。別荘に行くぐらいで許されるとは思わないけれど、
このままでは誰だっておかしくなってしまう。だからお兄様の気持ちが変わらないうちにさっさと準備してしまいましょう。
矛盾する事を言うようで申し訳ないけれど、もちろん警護の者もつくわ。
あなたに完全な自由が与えられるわけではないのよ・・・。」
「・・・」さらに黙り込んでしまったユリウスを眺め、ヴェーラは言葉を次いだ。
「それに・・・ね、正直に言いましょう。兄には私たち妹弟と、そしてあなたをこの屋敷から遠ざけておきたい理由があるの。
この間アデールが来たでしょう。」
アデールの帰還は本当に久しぶりのことで、ユリウスは彼女の視界に入って機嫌を損ねぬよう自ら自室にこもっていたが
(直接言葉を交わす事は無かったが、アデールの彼女への視線の冷たさにはいくらユリウスでも気づかざるを得ないものがあった)、
すぐに階下からものすごい悶着の気配が伝わってきた。傍目には冷静沈着の鑑のようなレオニードと宮廷の貴婦人の中でも
群を抜いて優雅で美しいアデールの組み合わせなのに、二人を一緒にするとなぜこのような険悪な様相をきたしてしまうのか、
これは誰もが首をひねる謎だった。結局アデールは半日ともたずにまた屋敷から出て行ってしまった。
「正式な話し合いに入りたいようだわ。アデールに言わせると本来主人夫婦だけのものである筈の屋敷に余分なコブが
ついているのが諸悪の根源らしくって、そんなものがいては話し合いも冷静にはできないのですって。」
少し笑ってヴェーラは続けた。
「コブ扱いは失礼だけど、彼女の気持ちもわからなくはないわね。
コブとしてはおあいにく様としか言いようがないのだけれど・・・」

27:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:36:39 h2vNUIt3
 ユリウスは確かに、ユスーポフ家は兄弟の団結が強いと思った。3人の母はリュドミールを産んだ後ほどなく亡くなり、
父親も外交と軍務の重責を担う任務で留守勝ちだった上に妻の死後数年で暗殺される憂き目にあった。士官学校を出て間もない
レオニードが家督をつぎ、軍務に邁進しながらも妹弟の後見を果たしてきたのだ。大貴族といえど、いや大貴族だからこそ
油断していると狡い使用人や親戚に財産をかすめとられるし、当主が侮られると足元をすくわれ宮廷での地歩を失う。
稚いリュドミールを育てつつ、まだ若かった兄妹は支えあいながら名家であるユスーポフ家を守ってきたのだ。ユリウスは
ヴェーラの少し口の軽い侍女からそんな話を聞かされたことがある。(美少年めいた魅力のあるユリウスに夢中になる侍女は
常に数名発生していた。)
 苦労知らずのアデールには、そんな中に割って入るのはかなりの努力が必要だったろうが、お嬢さん育ちの彼女にはそもそも
努力が必要なことすらわからなかったのだ。
「まあそういうわけで、私達は邪魔者として、夫婦水いらずにするべく田舎へ追い払われるわけよ」と笑いながらヴェーラは言った。
「だからこれは許可というより命令ね。さあ、わかったらさっさと準備をしてしまいましょう。あまりもたもたしていると、
別荘が近いもの同士の招待合戦に巻き込まれてしまう、それはごめんこうむりたいのよ。」
もちろん、準備といってもユリウスには大層な持ち物など全く無く、せいぜい着替え少々と楽譜、それにロシア語の教本程度だった。
侍女が小さな荷物を造ってくれているのを眺めつつ、ユリウスはレオニード達の正式な話し合いとは離婚のためなのか、
復縁のためなのかふと訝しく思った。
だがすぐに、このユスーポフの宮殿を出て汽車に乗るなど本当に数年ぶりである事に思いを馳せ、自由の予感に頭がくらくらした。
(一体、レオニードは僕が脱走するという可能性は考えないのだろうか?道理がわかっていても僕がどんなに衝動的なことを
やらかす人間か知っているだろうに・・・。
ロシア語を学ばせ始めておいて、このタイミングで丸1日以上移動にかかる別荘に行かせるとは・・・。)
この処遇の意味にユリウスは頭を悩ませた。

28:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:37:18 h2vNUIt3
8)

もちろん、ユリウスは脱走などできなかった。車と汽車で移動する際も常にレオニードの配下の兵が数名まわ
りを固めていたし、だいたい金銭というものがユリウスには全く無かった。多少収まったとはいえ、いまだ混乱
が続く(らしい)ロシアに一文無しでろくに言葉もわからず飛び出したところでどうなるものでもなかった。それ
どころかレオニードに言われたようにあの不気味な僧侶の手に飛び込むのがおちかもしれない。ロシアに初めて
着いた頃のユリウスならばともかく、クラウスにあっさりと見捨てられた記憶に苦しむ今の彼女にはそんな気概
はもうなかった。それになんとか脱走したところでユリウスには行くあてがない。アレクセイ・ミハイロフがど
の監獄に収容されているかすら機密扱いで知るすべがなかったのだ。(せめてそれぐらい探っておくべきだっ
た・・・。レオニードの書斎に何か鍵になる情報があるだろうに。)だがもちろん彼女の手が届く範囲にレオニー
ドがそのようなものを放置しておく筈もない事はユリウスもじゅうじゅう承知していた。ユスーポフ家の豪奢な
生活のお相伴にはあずからせても、彼女には金銭も知識も自由もとことん与えないのがレオニードのやり口だ
という事をユリウスは実感した。
リュドミールはユリウスとの初めての遠出に興奮して傍を離れなかった。ユリウス自身、久しぶりの外界に圧
倒され、最初は過ぎゆく街角や道を行きかう人々に恐怖すら感じたほどだ。(ほんとうになまってしまっている・・・。
虜囚は牢獄を恋い慕うというが・・・)ヴェーラはそんなユリウスの様子を痛ましげに見ていたが、リュドミール
の「ユリウス、どうしたの、ねえまた気分が悪いの?僕、手を握っててあげようか?」無邪気だが真剣な声にユ
リウスも笑いを見せ、「ううん、病気じゃないよ。でもそうだね、そうしてもらえるかな?リュドミールももう幼
年士官学校の準備に入るんだもんね。騎士の仲間いりだ。この旅の間は僕の騎士になってもらおう。」
「いいよ、じゃあ約束だ。僕がユリウスをお守りする騎士でユリウスは僕の貴婦人。」早速膝まづくリュドミール
に接吻のため手を与えながら、ユリウスとヴェーラは思い切り笑った。

だが汽車に乗り込む時、あの頃と変わらぬ駅舎と雑踏にユリウスは立ち尽くした。4年と少し前の春この駅に
着いた時の、無鉄砲で根拠の無い希望に満ちていた己れを思い出し強烈に胸を締め付けられた。あの頃と今では、
何もかも状況は変わってしまった。そして自分は何て愚かだったことか。リュドミールは少年らしく汽車に気を
とられていたが、ヴェーラはユリウスの様子に気づき、声をかけようとしたがやめた。ユリウスの今の過酷な状
況は兄によるものだった。それに手を貸してるのも同然な自分が同情を示してどうなるというのだ。だが、車窓
の風景が田舎に移るにしたがって、しだいにユリウスは初めて見るロシアの美しい夏の大地に目を奪われた。や
がてその口元には小さな笑みが浮かび、ヴェーラをほっとさせた。

翌朝別荘に到着後、困った事態が判明した。ユリウスの着替えの鞄が紛失していたのだ。あまりにも荷物が少
なく、小さい鞄だったことが逆に災いしたのかもしれない。召使達はおろおろして互いに叱責しあっていたが、
ユリウスは別に数日着たきりでもかまわなかった。ヴェーラも少し困った顔をして「そうね・・・屋敷に連絡し
て持ってこさせても数日はかかるわ・・・。それまではリュドミールのでは小さいし。お兄様の幼年学校時代の
ものでも残ってたら寸法が合うかしら?」

29:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:37:39 h2vNUIt3
いくらなんでもそれにはぎょっとしてユリウスはあわてて拒否した。「とんでもない!ユスーポフ候の服なんて
着られないよ!いいよ2、3日くらいこの服で」
「そんな埃をかぶった格好で何を言うの?例えあなたが構わなくても私はごめんこうむるわ。そうだわ・・・」
と彼女にしては珍しくいたずらっぽい目になって
「私が休暇用に置いていたドレスがあるわ!5、6年前のでちょっと形が古いけれど、あれなら少し直せばあな
たの体にはぴったりな筈よ」
「いやヴェーラ、ドレスなんて冗談じゃないよ、僕は本当に着替えがくるまでこれで結構」「ではお兄様の服しか
なくてよ。着たきりなんて無作法は私は許さないのだから。」
ぐ・・・とユリウスが詰まったところでリュドミールが参戦し、「騎士の意見としては、もちろん姫にはドレスを
着ててもらわねばね。」と言い放ったので、ユリウスはついに根負けしてヴェーラのドレスを借りる羽目になった。
ありがたい事にヴェーラの趣味でドレスは簡素なスタイルのものだったのでユリウスは胸をなでおろし、初めて
彼女のドレス姿を見たリュドミールは最初感嘆の声をあげて、後は何かちょっと気まずそうにしていたが、すぐ
いつものようにまとわりつき、動きにくそうにしているユリウスを笑いながら手助けしていた。そして満足顔の
ヴェーラは当然ながら、屋敷に着替えの手配などしなかった。
レオニードが予告無く別荘に着いた時、ユリウスがドレス姿でピアノに向かっていたのはそういうわけだった。
やはりというべきか、アデールとの話し合いはあっという間に決裂し、おたがいの亀裂を決定的に深くしただけ
だった。怒り狂ったアデールが去り、屋敷に一人になった時、彼は異様なほどの開放感に包まれた。彼を苛立た
せる二大要素、アデールとユリウスの二人ともが目の前にいないということがどんなに心を安らげるかそれは滑
稽なほどだった。レオニードは女ごときに振り回されている己に気づかされて、自嘲で口元をゆがめた。だがア
デールは偶に現れて騒ぎ立てて終わりだが(皇帝陛下の命令がなければお互いがどんなに望もうと正式な離婚は
不可能だった)、ユリウスはそういうわけにはいかない。ここ数ヶ月の奇妙な緊張関係は彼を決して消耗とまでは
言わないまでも、必要以上に困惑させていた。
こうして一人になって、その異常さに改めて気づかされた彼は、ユリウスとの関係は当初の虜囚と監禁者の関
係が結局一番正しかったと思い至った。自分が平静さを取り戻した今、あの冷ややかな関係に戻ることは実に容
易な事のようだった。所詮、あいつはたまたま捕らえられた反政府分子の一人に過ぎない・・・。隠し財産の事
さえなければ、とうにアカトゥイかドイツに送られていただろう存在だ。父のアルフレートは皇室の忠実な協力
者だったが娘のあいつはそうではない。アーレンスマイヤ家に託された隠し財産については至急に何か対策を考
える必要があるだろう。久しぶりに頭がすっきりした気分でレオニードは眠りについた。
もちろん別荘に足を延ばす気は無く、この機会に軍務に集中するつもりだったが、来春以降に予定されていた
西部の補給線の検討がドイツとの関係悪化を鑑みて前倒しで早まることが決まった。この調子ではリュドミール
の幼年学校の準備にあまり意識と時間が割けなくなる。準備の実務的な面は執事や秘書に手配を任せられたが、
父代わりのレオニードとしては、入学に際してまだ幼い弟にいろいろ伝えておきたい事があった。だが彼らが屋
敷に帰ってきてからでは遅すぎる。レオニードは数日を別荘で過ごすしかないと腹をくくり、急ぎ休暇に入る手
筈を調えた。途中ちらりとユリウスの白い顔が脳裏をかすめ、「まずいな」という思いが浮かんだが、自分でもそ
の意味はよくわからなかった。

30:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:38:14 h2vNUIt3
(9)

 別荘につくとちょうど午睡の時間だったが、警護を言いつけた配下の兵達は感心なことに任務を怠っていなか
った。レオニードは彼らの労をねぎらい、別荘に足を踏み入れた。数年ぶりだったが別荘の変わらぬ様子に彼は
まだ父母が健在でここで夏を過ごした少年時代を懐かしく思い出し、ふと最近同じようなことがあったような気
がした。みな寝ていると思ったが、サロンのほうからピアノの音色が聞こえてきたのでそちらに足を向けた。
開いている扉で立ち止まると、ほっそりとした見慣れぬ若い女性がピアノを奏でているのが見えた。一瞬それ
が誰かわからず、ヴェーラが近くの別荘の客でも招いたか?と思ったが、その女性が弾きながら楽しげに頭を巡
らした時、ようやっとそれがユリウスだと驚きと共に了解した。一方のユリウスは半ば目をつむって弾いていた
ので戸口に立っているレオニードには気づかなかった。ヴェーラの白い簡素な夏のドレスをまとい、少し古風な
形にゆるく髪をまとめたユリウスはレオニードの知らない若い美しい女性に見えた。彼はしばらく無言でそのま
ま戸口にたたずんでいた。
長い曲を弾き終え、余韻にひたりながらユリウスが次は何を弾こうか迷う様子で首をかしげた時、警護の兵士
に知らされた召使がようやく「若様、これは気づきませぬで・・・!」と慌てて廊下を走ってきて、彼女は初め
てレオニードに気がついた。最初は軍服でないせいか誰かわからない様子できょとんとして彼を見つめ、逆にじ
っと見つめられて相手がレオニードだという事を認識した次の瞬間、自分の格好に思い至り、真っ赤になって席
を立つとあっという間に反対側の扉から走り去っていってしまった。あっけにとられたレオニードは召使のあた
ふたとした挨拶を手で制すると、急いで彼女の後を追った。
「ユリウス!」それは中庭に通じる扉だったのでレオニードはユリウスが庭の木戸にたどり着く前に容易に彼女
をつかまえることができた。
「なんなんだ、いきなり。私の顔を見るなり脱走か?」
両手首を掴んで強引に自分の方に振り向かせるとレオニードは笑いながら言った。両手の自由をそれぞれ奪われ
てユリウスは振り払うこともできず、レオニードの視線が自分を上から下まで眺めおろすのを感じて真っ赤にな
ってそっぽを向いた。
「どうしたのだ、その格好は」
「・・・仕方なかったんだ、着替えが無くなって・・・」とそっぽをむいたままユリウスが口をとがらせた。
その様子が可笑しくて、レオニードは左手は開放してやり、だが右手は掴んだままで「見せてみろ」と言って、
ダンスのように彼女を一回転させた。ひらりとドレスが翻り、ユリウスはまるで白い花のようだった。レオニー
ドが笑ってもう一度左手もつかまえようとした刹那、ユリウスは不意をついて思いもよらぬ力で彼の手を振り払
い、一気に館に向かって走った。召使から兄の到着を聞きつけてちょうど戸口まで来ていたヴェーラに勢いあま
って突き当たり、「僕の服を出して!ドレスはもう終わり!」と叫ぶと自分の部屋へ走り去っていってしまった。
「あらあら」とヴェーラは庭に出て、夏花を手折ると笑いをおさえながら兄に言った。「お兄様がからかうからよ。
かわいそうに。」
「お前の着せ替え人形か?しかしあれがおとなしくドレスを着るとは意外だな。いったいどうやったんだ?」
「彼女の鞄が紛失してしまって私のドレスか、お兄様の古着を着るしか無かったのよ。お兄様はご自分の服を着
せた方がよかった?」と言ってのけると、ヴェーラは折った花を兄に押し付けてさっさと上がっていってしまった。

31:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:38:35 h2vNUIt3
当主の急な到着のため、居間には急いでお茶とさまざまな軽食が並べられた。午睡からさめたリュドミールは
兄の到着を知らされて急いで走ってきて兄と姉に叱られた。笑いさざめきながらお茶を囲み、リュドミールが別
荘への道程と、ついてからのささいな出来事を息せき切って報告し、レオニードは笑みを浮かべてそれを聞いた。
夏の別荘の明るい空気が、ユスーポフ家の団欒をいつもより解放され華やいだ気分にしていた。
「そういえばお茶の時間なのにユリウスはどうしたの?兄上も到着されたのになんで降りてこないのかな?ああ
兄上、見たらきっとびっくりするよ!ユリウス、ドレス着ててすごくきれいなんだ。あ、しまった、黙っててび
っくりさせればよかった!」
「・・・さっき着いた時に顔はあわせている。さっさと引き上げられてしまったがな。」
「え、そうなの?なんだもう会ってたんだ。ねえユリウスってああしてるとすごくきれいだよね。僕が知ってる
女の人の中では一番だよ。(あ、もちろん姉さまは別格!) ユリウスは女の人なんだし、いつもああしてればい
いのに・・・。ねえ兄上もきれいだって思ったでしょう?」
「・・・まあ・・・そうかもしれないな」
急に言葉につまってしまったレオニードをおもしろがるような目つきで見ていたヴェーラは助け舟を出すように、
「でもリュドミール、ユリウスはもうドレスは着てくれないかもしれないわ」
「ええっ何で?」残念がっていぶかしむリュドミールにおかしそうにヴェーラは「さあなんでかしらね。」とはぐ
らかし、横目で兄を軽くにらんだ。レオニードは少し憮然とした顔をしていた。
「リュドミール、ユリウスの話はもういい。それより私はお前と話がしたくてきたのだ。」
「僕のため、ここまで?本当に?兄上が?」
「ああそうだ。おまえももうこの秋には家を離れる。その前にお前と少し時間がとりたかったのだ。夕食のあと、
二人でゆっくり話そう。それまで私は少し休む。」
「わかりました、兄上!」
忙しい兄がわざわざ時間を割いて自分のために別荘まで来てくれた喜びでリュドミールは顔を紅潮させた。
レオニードは予告なしに訪れたにも関わらず、主寝室には幸い風が通してあったので夕食までそこで少し休息を
とることにした。寝室の窓から見下ろすと、いつもの格好にもどったユリウスが中庭をそぞろ歩いていた。ユリウ
スが2階を見上げる前に彼は笑って静かに窓を閉め、寝台に身を横たえ、少しだけ眠った。

32:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:38:56 h2vNUIt3
 夕食の席はさすがにユリウスも逃げるわけにいかず、3人と共に卓を囲んだ。男装に戻ってしまったのでリュ
ドミールはしきりに残念がったが、ヴェーラが少しおかしげにたしなめたので(いい加減になさい、リュドミー
ル。あなたがそんな風だから、ユリウスもドレス姿ではあなたのお守りができないのよ)、ユリウスが何も言わな
いうちにその話は終わりとなった。レオニードは何事もなかったかのような知らん顔でその事にはふれず、ユリ
ウスをほっとさせた。兄弟はお茶の時間に彼らとしては珍しくよもやま話に花を咲かせていたので晩餐は静かな、
しかしリラックスしたものだった。ただユリウス一人だけが少々自意識過剰気味に居心地の悪い思いをしていた。
 レオニードが来るまでは晩餐の後はサロンでユリウスのピアノを聞いたりゲームをするのが常だったが、明日
の昼食後には発つレオニードは、さっさとリュドミールを連れて書斎に入っていった。なんとなく所在無げな気
持ちのユリウスはピアノの鍵盤に触れてみたが、弾く気にはなれなかった。そして、多忙なレオニードがとんぼ
帰りで遠く離れた別荘にくるなんて、彼は本当に弟思いなんだなと思った。まるでその気持ちを読み取ったよう
にヴェーラが「リュドミールはお兄様がここまで来てくれたことに、大感激なのよ。」と紅茶を飲みながら言った。
「リュドミールには嬉しいことだよね。・・・ユスーポフ候は・・・弟思いな人だね」(ユリウスは記憶を取り戻
して以来、どうしても彼のことをレオニードと名では呼べずにいた)
「リュドミールももうこの秋の半ばからは寄宿舎に入らねばいけないし、考えてみれば家族水入らずで過ごせる
時間もあとわずかね。兄様は軍務でまたしばらくお忙しいようだから、今のうちにいろいろ言っておきたい事が
あったようだわ。私も帰ったら準備に本腰を入れねば。リュドミールの入学には兄上の代わりにつきそわなけれ
ばいけないでしょうね。本当ならアデールの仕事なのだけど・・・。こうも早く兄上が来られたところを見ると・・・
ね。まあわかっていたことだけど。だからユリウス、私も秋からはしばらくモスクワに行ってると思うわ。」
「そうだね・・・。まだ先と思っていたけどあっという間だったね。ヴェーラも寂しくなるね。」
「そうね。でも弟の成長が嬉しいのも本当よ。あの子がいなくなれば、あなたも少しは寂しく思ってくれるかし
ら?」とヴェーラは微笑んだ。ユリウスも微笑み返しながら、このユスーポフ家の人々にとって自分は一体なん
なのだろうと思った。確かにリュドミールが寄宿舎生活に入ってしまうことは寂しかったが、自分はそもそもそ
のように感じる資格のある人間だろうか?気が付けばすっかり家族に準じる位置にいて、少なくともアデールよ
りはうぬぼれでなく彼らに近しい存在となっていた。だが、それは随分皮肉で、不自然な事ではないだろうか・・・。
ヴェーラ達と親しさが増す程、記憶を失っていた時期ならいざ知らず、今のユリウスには疑念がわきあがってく
るのだった。もちろんヴェーラは賢く一線をひいており、ユリウスとはお互いその境界線を認知していた。だが
心の距離という点でやっかいなのはレオニードとリュドミールだった。(馬鹿なことを・・・。なぜそこにユスー
ポフ候が?)とユリウスは首を振った。そこにリュドミールが入ってきた。
「リュドミール、お兄様のお話は終わったの?」「はい姉上。」と神妙に答えるリュドミールの頬はかすかに高潮
して、瞳はわずかに涙でうるんでいた。おそらく兄との対話で感動している事を見て取り、ヴェーラと二人にし
てやろうと気をきかせてユリウスは先に部屋に戻ることにした。だがそのためには書斎の前を通らねばならず、
ちょうど出てきたレオニードとあいにく鉢合わせしてしまった。

33:名無しさん@ピンキー
09/08/09 03:47:32 XtISsDvI
「あ・・・」
なんとはなく気まずい気分でユリウスはレオニードを見上げた。何も言わないのも変なので、「おやすみなさい」
とだけ言って急いで通り過ぎようとした。廊下は中庭に面していて、レオニードは壁際に置かれた長椅子に腰を
おろした。その夜は月がとても明るかったので明日帰る身としては、せっかくの田舎の空気をもう少し味わいた
かったのだ。
「少しつきあえ。」自分でも思わぬ言葉が口をついてでた。
ユリウスは少しためらったが、おとなしくレオニードの隣に座った。二人はしばらく無言で中庭を眺めていた。
月の明かりが夏花が生い茂る庭を銀色に照らし、どこかで虫が鳴いていた。ペテルスブルグの屋敷もまるで都
会とは思えないほど静かだったが、ここ夏の別荘はそれとは全く違う、命に満ちた静けさと清浄さに満ちていた。
その夜の空気のせいか、二人の間にはユリウスが記憶を回復して以来、常に付きまとってきたぎこちなさが嘘の
ように消えていた。
「・・・不思議なものだな。」決して不快でなかった沈黙を破ってレオニードが言った。
「リュドミールは我々の両親とここで夏を過ごしたことは無い。あれが生まれてまもなく二人は相次いで亡くな
ったからな。父上も母上も末っ子に伝えたいことは沢山あったろうに。・・・だが、ここに来ると私は彼らの存在
をペテルスブルグの屋敷より強く感じる。書斎でリュドミールと話している時、なぜか同じ部屋に父上たちが一
緒にいるような気がした。ただの感傷だろうが、おかしな事だな。」
ユリウスには、それが彼女に言っているのではないことがわかっていた。レオニードはいわば独り言を言って
いるのだ。だから彼女もあえて返事をせず黙っていた。レオニードも答えは求めず、ただ無言で隣にいるユリウ
スの存在になんとなくくつろぎを感じていた。その後もしばらく二人は黙って座っていたが、やがて夜空を細い
光の弧が流れ、同時に「あ・・・」と声が出て、彼らは目を合わせて笑った。レオニードが「つき合わせて悪か
ったな。」と言ったので、ユリウスはそれを引き下がる機会と承知して立ち上がった。
「おやすみなさい。」レオニードも静かに「おやすみ」と言い、再び庭に視線を戻した。

34:名無しさん@ピンキー
09/08/09 06:16:13 h2vNUIt3
翌朝、レオニードがいるという緊張感のせいかいつもよりずいぶん早く、夜明け前に目がさめてしまったユリウスは、
二度寝する気にもならず身支度を済ますと階下に降りていった。意外なことにレオニードとリュドミールも既に
起きていた。二人はレオニードが帰る前に、湖まで早駆けをするつもりだった。
「おはよう、ユリウスも早いね。」
「うん・・・。なんだか早くに目がさめてしまって。その格好は、馬?」
「そうだよ。兄様が帰るまえに、湖まで行くんだ。」
ユリウスも一緒に・・・と言いかけて、さすがにリュドミールもそれはレオニードは許さないだろうと気づき(彼
もこの頃には、ユリウスの行動はずいぶん制限がかけられていることはさすがにわかっていた。彼女の存在の意
味と謎に首をひねるようになるのは彼が家を離れもう少し成長した後のこととなる。)、ちらりと兄を見た。弟の
期待に気が付いたレオニードは朝から厳しい顔をつくるのも面倒になり、
「お前も行くか?」とブーツを履きながら顔も見ず無造作に彼女に聞いた。ユリウスは驚き、「え・・・」と思わ
ず問い返しそうになった。そして突然、自分も馬で駆けたい、体全体で風を感じたい、と痛切なまでの願いが
こみあげてきた。
「でも邪魔じゃないの・・・。せっかく兄弟、水いらずなのに」とリュドミールの気持ちも考えたが、当のリュ
ドミールは否である筈もなかった。冷えないように外衣をまとい、まだ薄暗い中、ユリウスは兄弟と厩舎に向か
った。もちろん自分に一頭与えられる筈はないとわかっていたが、レオニードに乗せられる気恥ずかしさよりも、
室内を出て遠出できる喜びのほうが上だった。そしてレオニードの前に乗せられ、「行くぞ!」との合図と共に、
一気に二頭の馬は早駆けをはじめた。
ユリウスにとって夜明け前のまだ冷たい大気の中、風が頬をうつ清涼さはここ数年味わったことのない素晴ら
しいもので、彼女は思わずのどをのけぞらして笑った。リュドミールがついてこれるよう速度を加減していたが、
レオニードは予想通り素晴らしい騎手で、危なげなくやすやすと馬を繰りながら、腕の中にしっかりとユリウス
をホールドしていた。いくつかの丘を駆け上がり、また駆け下る間に東の空は夏の朝の早さで白み始め、彼らが
湖についた頃太陽はちょうど湖の東岸から昇ろうとしていた。
レオニードは無言で馬を降りるとユリウスを抱き下ろした。馬を木立につなぐと、手をとるでもなく彼女を岸
辺に誘った。そして二人並んで、湖面のへりの光の筋が、やがて湖面の輝きと別れて朝日として昇っていくのを
眺めた。朝の光が徐々に周囲を鮮やかな色彩に変えていく間、二人は一言も口をきかなかった。だがこの美しい
時間は人生の中でそう度々は訪れてこないこと、彼らが今ささやかだが何かかけがえのない、純粋な瞬間を分か
ち合っていることはお互いがわかっていた。
そしてリュドミールが少し遅れて到着し、二人は同時に振り返った。輝く湖面を背景に朝日がユリウスの金髪
を逆光で透かして輝かせ、兄とユリウスの二人が微笑んで彼を迎えている。それは子供から少年へと成長しかけ
ていたリュドミールには一生残る、幸福の記憶のイコンとなった。やがて大人になり、思いもかけぬ運命の変転
を経た後もそれは時折彼のまぶたに甦り、少年時代の失われた幸福の切なさに彼の胸を締め付けさせた。だがこ
れはずっと後の話となる。
帰ってきた3人を朝の食卓とヴェーラが迎えた。丘に立ち、彼らが見えた時、兄とユリウスの騎馬の様子を見
て、ヴェーラは少しだけ胸が痛んだ。二人の間には静かな理解の空気が漂っていて、何かが始まりそうになって
いるのは傍目にも明らかだった。

35:名無しさん@ピンキー
09/08/09 06:17:33 h2vNUIt3
10)
その後数週間を別荘で過ごした後、夏の終わりはまだ先だったがユリウス達はペテルスブルグへ戻った。レオ
ニードは西部地域の視察に赴いており不在だった。そしてヴェーラとリュドミールは入学準備でにわかに忙しく
なり、ユリウスは一人で過ごす時間が増えた。しばらく違う空気に触れていた事で彼女の気持ちはやや明るさと
強さを取り戻していた。一人の時間でも以前のように己の過去と罪に溺死せんばかりに浸ることはなくなってい
た。
しかし、それは一方で彼女に現状を直視するよう迫るものでもあった。このまま、ユスーポフ家で虜囚として
奇妙に気楽な日々を過ごすのか?それともここを脱走してシベリアのクラウスを追うのか?ドイツへ帰るという
選択肢に全く現実味を感じられない以上、彼女の前には結局この二つの道のどちらかしか無いのだ。そしてどち
らに自分の真実があるかは明らかだった。だが同時に、まだその時期が来ていないことも認めざるを得なかった。
今の自分にはそのための準備も情報も、いやそれ以前にまずそこに至らせる何かが足りない、もしくは何かがそ
の邪魔をしていた。決断できない自分の弱さを振り払うように、彼女はピアノに向かった。長く、激しい曲を選
び、まるで何かをそこに探しているかのように没頭する姿はそれまで彼女がここで見せた事のないものだった。

ヴェーラと帰宅したリュドミールは、自分達に気づかずピアノに向かうユリウスのそんな姿を見て、初めてこ
の大好きな友達の中には自分が撥ねかえされそうに烈しいものがある事に気づいた。彼女との間に超えられない
距離感を感じ、なぜか傷ついた思いで彼は声がかけられず鍵盤に指を走らすユリウスをしばらく眺めていた。す
ると肩に手が置かれ、振り返るとレオニードがそこにいた。
「兄上!」
「お帰り、リュドミール。」「兄上も・・・お帰りなさい。長い任務、お疲れ様でした。」
ユリウスもようやく彼らに気づき、指を止めた。そして二人の方を見たが、その視線はリュドミールを通り過ぎ、
レオニードに向かっていた。
「・・・お帰りなさい。」「・・・うむ。・・・お前もな。」彼らが会うのはあの日以来だった。二人の視線は無言
のまましばし互いに留まり、リュドミールは微妙な居心地の悪さを感じた。それを振り払うように「僕、着替え
てきます。」と断ってその場を去った。ユリウスは視線を鍵盤に落とし、「みんなが帰ってきたことに全然気づか
なかった・・・喧しくしてたなら気をつけないと。」とつぶやいた。
「構わん。それぐらい勝手にしろ。我慢できなければこちらから言うまでだ。」と言ってレオニードもサロンを去
った。言葉は相変わらずぶっきらぼうだったが底には優しさがあり、ユリウスは彼の背中に我知らず微笑んでい
た。

それから数日後、レオニードとヴェーラは彼の書斎で膝をつきあわせていた。リュドミールの入学に関する様々
なこと・・・リュドミールが学ぶ学科、優れた教師や要注意な人物、同期の子供たちの家柄や顔ぶれ、しかるべ
き姻戚関係への根回し、舎監の顔ぶれなどを一通り話し合い、互いに了解したあと、ヴェーラは思い切ってユリ
ウスもモスクワに伴いたいと兄に告げた。
レオニードは意外な提案に驚き、一瞬検討してすぐに却下した。(あれを目の届かない場所へやるわけにはいか
ない。)そんな焦燥にも近い感情がちらりと胸をよぎったが、彼はそれを突然そんな事を言い出したヴェーラへの
いらだちととった。

36:名無しさん@ピンキー
09/08/09 06:17:54 h2vNUIt3
「そんな事はできない。お前もわかっているだろう。いくら親しくなろうと、あれは家族ではない。あくまでも
ここで監視下に置かねばならない人間だ。」
「でもお兄様・・・。」
「大体リュドミールは遊びに行くわけではない。大事な門出の時にあれを連れていくわけには行かぬだろう。」
「ええ・・・ええ、それはわかっていますわ。でも・・・」
「どうしたというのだ、一体。お前らしくも無い。」
はっきりと口に出すなどしたくなかったが、ヴェーラも苛立ち、もうあえて言葉にしてしまった。
「私達がいなくなれば、ここでお兄様とユリウスはしばらく二人きりになってしまうわ。」

妹がまさかそんな事を言い出すとは思いもよらなかったレオニードは、正直意味がわからなかった。
「何が言いたいのだ。」
ヴェーラも兄を見つめ返した。こうなったらもう兄を怒らすのを恐れてもしょうがない。
「私はそうすればきっとお二人に起こるだろうことが、果たして正しいのかどうかわからないのです。」レオニー
ドはヴェーラが何を言いたいのか図りかね、そしてようやくほのめかされた事に気づき、驚き、次いで激昂した。
「・・・おまえは兄をそんな目で見ていたのか?」
「気づいてないのは当人達だけですわ!二人の距離はどんどん縮まっていっているではありませんか・・・。
お兄様は一体ユリウスをどうなさるおつもりなの?このまま閉じ込めて誰にも会わさず、お兄様の愛人にでもしてしまう
おつもり?」
「ヴェーラ!」
レオニードは妹のむきだしな言い方に驚き、怒った。
「あれを外に出せないのはあくまでも政治的な事情だ。お前のかんぐるような下賎な理由ではない!」
「政治的な事情も確かにおありでしょう。それについて口を挟む気もお兄様に事情をお聞きするつもりもありま
せん。でもご自分のお気持ちに気づかぬ振りは卑怯だわ。お兄様は自分の感情にも彼女の感情にも知らぬふりで、
これではまるでユリウスは飼い殺しも同然よ!」
レオニードはカッとして机の上にあった置物を思い切り床に叩きつけ怒鳴った。
「あれはアレクセイ・ミハイロフの女だ!私にどうしろと言うのだ!」

ヴェーラは自ら招いたとはいえ、初めて男としての感情をあからさまにした兄を呆然と見つめた。それはアデ
ールの火遊びに苛つく時とは全く違っていた。嫉妬や恐れを兄の顔に見るのは初めてだった。
「それでユリウスをあんな宙ぶらりんな状況に?彼女がミハイロフを追ってきたからといって・・・。もう何年
もたつのに・・・。そんな事であきらめておしまいなの?」
「ヴェーラ、お前は何を言ってるのかわかっているのか?最初は愛人にするつもりかと責め、次は手をだせとで
もそそのかすのか?」
「私はそんな事は一言だって言ってません!手を出すかどうかはお兄様の・・・いえお二人の問題ですわ。私が
いやなのは、お兄様が彼女に選択の余地を全くお与えにならない事よ。とにかくもう二人を見てひやひやしてる
のにはうんざりなんです。でも馬鹿な事を言いました。いらぬお節介で失礼しましたわ。」
もともと望みは薄かったが、自分の無様な失敗を悟りヴェーラは退却をきめこんだ。さっさとドレスのすそを翻
し歩きかけたが戸口で振り返ると
「確かにユリウスは来た頃はアレクセイ・ミハイロフの女(意地悪くレオニードの言い方を真似た)だったかもし
れないわ。でも果たして今もそうなのかしら?そんなにも人の気持ちが変わらない忠実なものなら素敵ね。いっ
たいお兄様は彼女に今の気持ちを確かめたことがおありなの?それとも何か恐れてらっしゃるの?」
レオニードはものすごい表情で妹をにらみつけたが、返答はしなかった。

37:名無しさん@ピンキー
09/08/09 06:18:15 h2vNUIt3
その頃ユリウスは居室で窓の外の闇を見つめていた。耳にはまだ、たまたま通りかかりに漏れ聞こえてしまっ
たレオニードの怒声がこだましていた。
「あれはアレクセイ・ミハイロフの女だ!」
確かにそうだった。
皇帝の隠し財産という新たな要素が入り込んだ事で彼のもとに留められる理由は強固になったものの、最初に
出会った時からレオニードにとってユリウスは「ミハイロフの女」以外の何者でもなかったろう。わからないの
はレオニードがそれを改めて口にしたことにユリウス自身がひどく苦い気持ちが抑えられないことだった。それ
以上何も聞きたくなく、ユリウスは急いで部屋に戻ったのだ。
(わからない・・・。自分の気持ちが・・・。)
あのように無残に振り捨てられた事を思い出した今でもクラウスを恋する心を失う事は無かった。危険な状況
で見捨てられたことを怒り、恨む気持ちもないではなかったが自分が罪から逃れるため彼を利用しようとしてい
た事にも気づいてしまった今、革命に生きる彼がとった道を責める気にはなれなかった。むしろ自分があの時の
彼にとってどんなに危険な存在だったかを考えるとぞっとした。
そしていま、クラウスはシベリアにいる。同じロシアとはいえ、それはユリウスが軟禁されているこの屋敷か
らはあらゆる意味で遠い場所だった。
生きて再び出会うことはあるのだろうか・・・。だがその不安はロシアに来た頃の狂おしいものとは異なり、ど
こかにあきらめを含んでいた。
そして堂々巡りをするユリウスの思考の一端にはとても自身認められることではなかったが、常にレオニード
がいた。記憶を失っていた間のレオニードの優しさと彼に頼りきっていた自分の姿を思い出すと、羞恥でいたた
まれない気持ちになり、欺いていたレオニードとおめでたかった自分の両方に怒りがわいてくる。だから極力そ
の事については考えないようにしているのに、なぜかふとしたはずみでその頃のレオニードの言葉やしぐさを思
い出してしまうのだ。呼びかけると振り向いた黒い瞳が笑みを含んでいたこと、吹雪に脅えた時差し出された大
きな手、リュドミールとふざけていると彼ともども後頭部を軽くはたかれ、子供のように髪をくしゃくしゃにさ
れた事・・・。
そんな白日夢めいた記憶を振り払うと、今度は自分が彼に全てをぶちまけてしまった事に思い至る。記憶が戻
ってからはもはや理由なく吹雪に脅えることは無くなったが、その代わり自分が殺人者であることにうちひしが
れ泣きあかす夜もあった。翌朝、腫れたまぶたを見たレオニードの瞳に無言の了解を感じ取ることが自分にとっ
て果たして良いことなのかどうかさえユリウスにはもう判断がつかなかった。だが彼に自らの生殺与奪を委ねて
しまったと思うと、なぜか今まで知らなかった安堵感に包まれる。そして彼が別荘で過ごしたわずかな時間が二
人の距離をどことなく縮めていただけに、ユリウスの胸に先ほどのレオニードの言葉は思わぬ痛みで突き刺さっ
てきたのだった。ロシアの短い夏はもう終わり、また秋が来ようとしていた。

38:名無しさん@ピンキー
09/08/09 06:18:36 h2vNUIt3
そして、ヴェーラとリュドミールがモスクワへ赴く日がやってきた。ユリウスは駅までは行けず、ユスーポフ
邸で彼らを見送った。リュドミールは幼年学校の制服が良く似合っていて、急に成長して見えた。
「ユリウス・・・。」
「リュドミール、元気でね。・・・君なら、大丈夫。きっとお兄さんにも負けないよ。でも、お願いだから、体に
は気をつけてね・・・。友達や先輩につられて無茶はしないでね。」
「うん・・・。ユリウスも、元気でね。冬が苦手なんだから気をつけて。あと・・・。」
「なあに?」士官学校に入るのに、こんな事を言って軟弱に思われるのではとリュドミールは真っ赤になりながらも言わずにおれなかった。
「僕の事忘れないで。」
ユリウスは瞳を見開いて、そしてリュドミールの名を呼ぼうとしたが喉が詰まって声がうまく出ず、咳払い
と、そっと彼の頬にキスをした。そしてやっと言葉が出た。
「馬鹿だなあ、リュドミール・・・。忘れるはずないじゃないか。」
(忘れるのは、君の方だよ、リュドミール・・・。新しい学校や友達、新しい環境で新しい目標ができて、子供
時代は置き去りにされるんだ。でも、それでいいんだよ。僕の事は子供時代のおもちゃと一緒に忘れるのがいい
んだ・・・。)
そんなユリウスの胸の内は知らず、リュドミールは照れくささを振り払おうと、「そうだよね!」と笑うと「じゃ
あ!休暇にね!」と手を振り、見よう見まねの敬礼をすると姉と共に車に乗り込んだ。ヴェーラはユリウスに一
声掛けたかったが、まさか自分の兄に気をつけろとも言えず、車の窓から優雅に微笑んでみせて出発した。

(11)

 しばらくは何も起こらなかった。レオニードは夏から始まった検討作業が大詰めに入り軍部に泊り込む事の方
が多い位で、たまに帰宅してもとんぼ返りで軍部に戻るか、邸には深夜に帰り、まだ夜も明けやらぬ早朝に出て
行く有様だった。そんな日々が続いた後、ようやく問題の補給体制の立て直しに目処がつき、レオニードは肩の
荷を降ろした気持ちで帰邸した。車寄せから邸に入る時、空から白いものがふわりと舞い降りてきた。(初雪
か・・・。)月日の経過の早さにレオニードは少し驚いた。ついこの間まで夏だったのに。リュドミールは寄宿舎
の生活に少しは慣れただろうか。そう言えば、自分自身、しばらく邸で食事を取ることも無かった。晩餐の席に
一人でついた時、「そういえばあれはどうしていたのだ?」と久し振りにユリウスの事を思い出し、執事に訊ねた。
「はあ・・・それがあの方は最近はすっかり食が細くなってしまわれて。お食事も部屋の方に運ばせていただい
ております。」「・・具合でも悪いのか?」「お医者様はいらぬと仰せられてしまって。確かにご病気では無いと思
われますが、ただ、ご気分は優れられぬようです。ピアノを弾かれてもすぐやめてしまわれますし。」
 レオニードはユリウスの居室の前で一瞬躊躇した。誰かに言って自分のもとまで来させても良かったのだが、
調子が悪いとわかっている女をわざわざ呼びつけるのも少々気が咎めた。そう遅い時間ではなかったが、夜に女
の部屋を訪れる気まずさを首を振ってやり過ごすと、「ユリウス、私だ。入るぞ。」と声を掛けた。だが中からは
返事が無く、レオニードは一瞬、ひやりとした。ヴェーラもリュドミールもいない今、もし彼女が脱走を試みて
いればそれはたやすい事だったかもしれない。召使達や警護の兵の目が常にあるとはいえ、しばらく目を離して
いたのはうかつだった。レオニードは今度はノックすると、返事を待たず扉を開けた。彼が思わず安堵したこと
に、ユリウスは部屋着にショールをはおった姿で部屋の奥の寝椅子に腰掛けていた。椅子を窓際に寄せて外を見
ていた様子だった。(あの格好では外には出られないな。)と一瞬らちもない考えがレオニードの頭をかすめた。


次ページ
最新レス表示
レスジャンプ
類似スレ一覧
スレッドの検索
話題のニュース
おまかせリスト
オプション
しおりを挟む
スレッドに書込
スレッドの一覧
暇つぶし2ch