09/01/09 23:54:01 q2iW19Mn
王宮の迎賓館から逃げ出したのは、もうずいぶん前のような気がする。
ここは、ガリア王都リュティスの御用宿。
かつて、栄華を極めたガリア王都にやってくる、国外の貴族たちを泊めるのに用いられた、高級な宿である。
しかし、今はこの部屋を除き宿泊客もおらず、今この宿で働くのも、経営者の一族のみ。
『聖戦』の開戦を告げられ、ガリアから民が逃げ出しているからである。
貴族でもない人民に、己が信心の拠り所となる正教に、背信者として狩られるつもりなど毛頭ない。
それでも一部の、ガリア王室ゆかりの商人たち、そして王に近しい貴族たちだけが、この王都リュティスに残っていた。
そして彼女も。
ガリア王女、イザベラ。
父王の狂心を知った彼女は、あの日、王宮から逃げ出した。
その後、御付の者から両用艦隊の出撃を聞かされたが、彼女にはそんなことはどうでもよかった。
父王が王都から離れていくことに、逆に安堵すら覚えたほどである。
…あの人は…狂っている…!
以前から感じていた違和感が、あの日、父に相対して真意を問うた時から、明白になった。
父は、ジョゼフ一世は狂っている。
世の全てを敵に回し、相手を滅ぼし、そしてなお、自らをも滅ぼそうとしている。
何が彼をそうさせたのかはようとして知れなかったが、あの瞳に沈む深く昏い情念の色は、イザベラを恐怖させた。
あの瞳は人のそれではない。
父王の瞳の色に恐怖を刷り込まれた彼女は、あれ以来、この御用宿から一歩も出ようとしない。
しかし、御付の者たちの王都から逃げようという進言を、彼女は聞き入れなかった。
たとえ父王が狂っていても、自分は王女である。
ガリアを、王都を捨てて逃げ出すなど、できるはずもない。
この国が、なくならない限りは────────。
彼女の中にこびりついた王族としての最後の矜持が、イザベラをかろうじて王都に繋ぎとめていたのである。
そして。
彼女がここ数日の間、夢想していた事が、現実になる。
寝巻きのまま、天蓋つきの豪奢なベッドの上で、物憂げに窓からのぞく曇り空を見上げていたイザベラを、ノックの音が襲った。
「い、イザベラ様!」
ノックの音とともに、御付のメイドの声が、部屋の外から聞こえる。
「なによ、煩いわね」
上半身だけを起こし、ドアの方を向いてそう応えるだけのイザベラ。
『入っていい』とは言わない。勝手に入られて困るようなこともなかったし、いちいち相手を確認して返事をする気力すらなかった。
イザベラの声を確認したメイドは、そのまま扉を開けて入ってくる。
赤茶けた髪を短く切りそろえたそばかす面のメイドが、慌ててベッドに駆け寄る。
「どうしたの、そんなに慌てて」
宿代が尽きたのかしら、そういえば戦争で国庫も空になったしね、などと考えたイザベラだったが。
メイドの答に、その表情が完全に凍りつく。
「我が王が…ジョゼフ一世が…崩御なされました…」
「え」
一言、そう発するのが精一杯だった。
その答は、ある意味彼女の期待していたものだった。
しかし。
現実で突きつけられるのと、夢想するのとでは心に響く重さが違う。
「嘘でしょ…?」
「…いいえ。早馬の報せだけでなく、王都にもこの話は響いております。揺らぎようのない事実かと」