【絶望先生】久米田康治エロパロ総合 Part19【改蔵】at EROPARO
【絶望先生】久米田康治エロパロ総合 Part19【改蔵】 - 暇つぶし2ch200:266
08/12/06 09:35:52 uha/J56h
だが、芽留はそんなわたるの心配などお構いなしでDVDをあさり…
【これだっ!!】
その中の一枚を高々と掲げた。
一方のわたるは、そのDVDが何であるかを見て声を上げた。
「お前、それ…っ!!」
それはまさにわたるの心配していた、いちげんさんお断りな作品だった。
【『天使の煮たまご』か。面白そうじゃねえか】
「それは、駄目だーっ!!」
よりにもよって、それを選ぶとは……。
『天使の煮たまご』は、この監督の作品の中でも最も前衛的なものだ。
芸術性の高さは評価されているものの、ストーリーらしきものがほとんどないその内容は初心者にとって、まさに地雷だ。
確かに、自分の見たいものは自分で決めるという芽留の言い分もわからないではなかったが、この作品だけはやめておいてほしかった。
わたるは芽留の持つ『天使の煮たまご』のDVDを掴んだ。
「悪い事は言わんから、それはやめとけーっ!!」
【なんでだよっ?オレはこれが見たいんだっ!!】
芽留とわたるは、互いにDVDを奪い取ろうとして引っ張り合う。
【わーたーせーっ!!】
「いーやーだーっ!!」
ほとんど小学生の喧嘩だった。
どちらも一歩も譲らぬ、綱引きならぬ、DVD引き合戦。
『痛がる子供を見かねて、手を離した方が本当の親』とする大岡裁きならば、二人揃って失格だ。
すっかり意地になっての引っ張り合いの最中、芽留はハッとした顔になって
【そうか!これエロいんだろ!!お前、それを見られたくないから……っ!!】
事情を知らぬが故の、見当はずれな推理をして、わたるを睨みつける。
「馬鹿――っ!!全然、違うわーっ!!」
芽留の言葉にわたるが顔を真っ赤にして叫んだ。
(駄目だ。もうコイツ、言葉で何を言っても納得しそうにない……)
それならいっそ、見たからといって何か害があるわけじゃなし、素直に芽留に『天使の煮たまご』を渡そうかと、そんな考えがわたるの脳裏をよぎる。
しかし、それを決断するには、わたるは頭に血が上りすぎていた。
もう、意地でもコイツにDVDを渡したくない。
芽留も携帯を手放して、わたるとの力比べに両手で応じる。
力と体格で劣る芽留は体勢を低くして、重力を見方につけてDVDからわたるの手を引き離そうとする。
一方のわたるは立ち上がって、大根でも引き抜くような姿勢でDVDを引っ張る。
力では完全に有利なわたるだったが、芽留がどこまでも喰らいついてくるので、一瞬たりとも力を抜けない。
ドタドタと床を踏み鳴らす衝撃で、わたるの部屋のドアの壊れかけのノブが勝手に動いて、ゆっくりとドアが開いていく。
「この分からず屋がぁ……っ!!!」
(黙れ、キモオタぁ……っ!!!)
そして、互いに譲らぬ戦いの均衡がついに破れる。
芽留がうっかり床の上のクッションを踏んで、うっかり足を滑らせたのだ。
引っ張られる力が緩んで、わたるもバランスを崩す。
どうにか体勢を立て直そうとしたわたるだが、彼までもがクッションを踏んづけてしまい……
「うわあああああっ!!!!?」
ドシィイイイイイイイインッッッ!!!!!!
わたるの体が芽留の方へ倒れこんだ。
幸い、わたるが咄嗟に手を付いたお陰で芽留は何とか押しつぶされずにすんだ。
「……ふう、危なかった…]
ホッと胸を撫で下ろしたわたると芽留は、ようやく冷静さを取り戻す。
そして気が付く。
「……………あっ」
(……これ…は…)
互いの顔が至近距離に接近していた。
床に横たわった芽留の上に、わたるの体が覆いかぶさったこの体勢。
それはちょうど、わたるが芽留を押し倒したかのような状況で……
「……………」
(……………)
芽留とわたる、二人の顔が真っ赤に染まっていく。
気まずい沈黙が部屋を包み込んだ。
早くこの状態から開放されたいのだが、頭が真っ白になって自分から動く事ができない。
『どけよ、デブ』、芽留はわたるにそう伝えたかったが、あいにく携帯は先ほど手放してしまっていた。
それに何だか、このままの状況でも構わないような気分に、芽留はなってきて……

201:266
08/12/06 09:36:29 uha/J56h
(……相変わらず、不細工な顔だな…)
なんて思いながら、芽留は首を起こして、自分の顔をわたるの顔に近づける。
(……でも、優しい目、してるよな……)
実際のところ、わたるは顔だけじゃなく、目つきも悪いのだけれど。
芽留は知っている。
この瞳が、いつもどれだけ芽留に対して、優しい眼差しを送ってくれていたかを……。
(……ほんと、こんな近くで見るのは初めてだ…)
コツン、わたると芽留の額がぶつかった。
「あ……おい…近いぞ……」
戸惑うように声を上げたわたるも、芽留の瞳から視線を逸らす事ができなくなっていた。
超至近距離で見詰め合う二人……。
だが、その時………

バタンッッッ!!!!!!

激しい音を立てて、半開きになっていたドアが閉じられた。
わたるはハッとなって上半身を起こし、ドアの方を見る。
わたるの部屋のドアはノブの調子がおかしく、いつの間にか勝手に開いている事がよくあった。
さっきの音は、そうやって半開きになっていたドアの隙間から、部屋の中を見ていた人物がドアを閉めた音だろう。
「み、見られたァ……っ!!?」
母親か、妹か、誰かはわからないが、先ほどまでの芽留とわたるの様子を見ていたのだ。
わたるは慌てて起き上がり、ドアに飛びつく。
いくらなんでもさっきのはマズイ。
誤解されないように何とか説明しないと……。
しかし、さっきの状況を客観的に見て、弁解の余地はあるのだろうか?
ぐるぐると混乱する頭で考えながら、ともかくドアを開こうと、わたるはノブを掴んだ。
ところが……
「え……っ!?」
ひねっても、押しても引いても、手ごたえが無い。
ノブが壊れている。
ドアが開かない。
「嘘だろ……」
ビクともしないドアの前で、わたるは呆然と呟いた。

階段を駆け下りながら、わたるの母は先ほど目にした光景を何度も頭の中でリピートしていた。
わたるの連れ込んだ少女の事が気になって仕方がなかった彼女は、ドタドタと二階でまた騒がしい音が聞こえて、
いても立ってもいられず二階に駆け上がった。
そして、見てしまった。
わたるが、彼女の息子が小さな少女を力ずくで押し倒す瞬間を……。
信じられない光景に頭が真っ白になった。
ドアを叩きつけるように閉めて、彼女は二階から逃げ出した。
昔から、素直な良い子であるとはお世辞にも言えなかった。
彼女自身、完璧な子育てが出来たなんて、口が裂けても言えなかった。
それでも、まさか我が子があんな真似をするなんて……。
信じられない。
信じたくない。
だが、自分の目の前で展開された光景は、まぎれもない現実なのだ。
そして、彼女の混乱がピークに達したその時……
ピンポーン♪
玄関のチャイムが能天気な音を立てた。
混乱したままの彼女は、それでもドアの鍵を開け、
「お邪魔してすみません。次の町内会の日時について伺いたいんですが……」
そこでついに、緊張の糸がぷつりと切れた。
彼女は泣き崩れて、玄関に立つその男に泣き叫んだ。
「息子がーっ!!息子がぁああああっ!!!!」


202:266
08/12/06 09:37:11 uha/J56h
夕闇の迫る町を歩きながら、一人の男が歩いていた。
くわえタバコの煙を引きずりながら、不機嫌そうな顔で男は悪態をつく。
「なんだって、久しぶりの休暇に、俺がおつかいなんぞしなくちゃならんのだ」
男は民放テレビ局、TVSのプロデューサーだった。
息をつく暇も無い激務に忙殺される日々の中、やっと休暇を手に入れて、今日は好きなだけ寝るつもりだったのに……。
「春子のヤツ、町内会の予定なんて自分で調べればいいだろうに……」
彼の妻は、『家で寝てるだけなら、ちょっとは私を手伝いなさいよっ!!』そう言って男を家から蹴り出した。
次の町内会の日時と、話し合われる内容についてのプリントが、何かの手違いで回って来なかった。
現在、町内会長をやっている万世橋さんの家まで行って、それをもらって来て欲しい。
恐妻家の彼は、彼女の命令に逆らえなかった。
情けない自分に肩を落としながら、男は万世橋家に向かって歩く。
「ここか……。でっかい家だな。そういや、火事に遭って保険金で建て直したんだっけか……」
道端にぺっとタバコを吐き捨てて、男は家の敷地内に入る。
玄関のチャイムを鳴らした。
しばらく待っていると、ドタドタと騒がしい音がして、玄関が開いた。
「お邪魔してすみません。次の町内会の日時について伺いたいんですが……」
現れた中年女性に、用件を告げた。
そして、そこで男は気が付いた。
目の前のオバサン、なんだか尋常な様子ではない。
青ざめて、ブルブルと震える彼女は、彼に向かって泣き叫んだ。
「息子がーっ!!息子がぁああああっ!!!!」
「ちょ、奥さん、しっかりしてくださいっ!!息子さんがどうなさったんですかっ!?」
男が肩を持って揺さぶると、中年女性はどもりながら状況を説明した。
「わたるが…あんな……あんな犯罪をするなんてぇえええ……」
男は混乱しきった彼女の話を頭の中で整理して、今この家で何が起こっているのかを把握する。
「わかりました、奥さん。とにかく、警察に連絡しましょう。今、私が電話をかけますから……」
男は中年女性から一旦離れて、携帯電話をポケットから取り出す。
しかし、彼がそれを使ってしたのは、まず110番をプッシュする事ではなく……
「全く、俺も休暇中だってのに、仕事熱心だねぇ……」
男はアドレス帳から、TVSの報道部への番号を呼び出す。
「今からなら、夕方のニュースには間に合うだろ……」
そう言って、ニヤリと笑う。
それにそう言えば、今朝方メールで妙な事を知らされた。
どこかの馬鹿が犯罪の予告状なんぞをウチの局に宛てて寄越しやがったらしい。
決行の日時は、まさに今日この日。
これは、もしかすると、もしかして………。
「くっくっくっくっ……面白くなってきたねえ……」

押して、引いて、叩いて、体当たりして、それでもドアは開かなかった。
ドアノブは簡単に壊れてしまう欠陥品だったくせに、ドア自体は頑丈なつくりでビクともしないのだ。
芽留とわたるが閉じ込められて、もう随分時間が経過した。
早く部屋から出たいのなら、外にいるわたるの家族の協力が必要不可欠なのだが……。
【呼べないよな……】
「ああ、アレを見られたらなぁ……」
わたるが芽留を押し倒すような形で転んでしまった事。
わたるの母親か妹か、あの時家の中にいた人間のどちらかが、あのシーンを見ているのだ。
恥ずかしくて、到底助けを求められるものではない……。
すっかり諦め顔の二人は、床に腰を下ろして、無為な時間を過ごしていた。
とはいえ、いつまでもこの部屋に閉じこもっている訳にはいかないのも現実なのだ。
内側から鍵をかけて二人きりで長時間……なんていう誤解を招いてしまっては余計に始末に負えない。

203:266
08/12/06 09:39:22 uha/J56h
「やっぱり、覚悟を決めるしかないか……」
そう言って、わたるが携帯電話を取り出す。
【助けを呼ぶのか?】
「ああ、仕方がない。ここは恥を忍んで……」
わたるがそう言った時だった。
「ん、どうした?」
芽留が何かに気付いたような様子で、窓の方を見ている。
【聞こえないのか?】
「だから、何が?」
問い返したわたるだったが、次の瞬間、わたるにもソレが聞こえてきた。
どこかで聞いた覚えのあるその音が何であるのか、最初の内、二人にはわからなかった。
だが、その答えを思い出すより先に、住宅街の道路を曲がって走ってきたソレが、その音の正体を教えてくれた。
盛大にサイレンを鳴らして走ってくる、3台のパトカー。
それは、次第にスピードを落として、万世橋家の前を包囲するように停車した。
そして、わたるはパトカーから降りてきた制服警官に駆け寄って、何事かをまくしたてる母親の姿を見つける。
「な、何だよ……こりゃあ、一体…何が起こったっていうんだ?」
しばらくの後、わたると芽留は、その答えを嫌というほど思い知らされる事になるのだった。

そして、場面は冒頭のシーンに戻る。

家の周囲を取り囲む警察や野次馬のざわめき。
テレビ各局の現地レポーターが張り上げる声。
上空を飛び交う報道ヘリのローター音。
かつてない喧騒に包まれた万世橋家の中、わたるの部屋に閉じ込められたままの二人は途方にくれていた。
テレビを点ければどのチャンネルも、万世橋家の事件を報道していた。
『犯行予告の内容から考えると、犯人に捕われている女子児童は非常に危険な状態にあり、警察の対応もかなり慎重になっているようです』
『年端もいかない子供をですねえ、人質にするなんてのは、本当許せませんよ』
『×××さんのお宅の息子さんでしょ?いつか、何かやらかすんじゃないかと思ってたのよ』
『根暗で友達も全くいないようでしたからね。昔から何考えてるかわからない危ないヤツでした』
『いわゆるオタクであったようですね。ゲームや漫画、アニメだけを友達とする生活が、次第に犯人の心を歪ませていった事は十分考えられます』
『ああ、今新聞の号外を読みましたよ。やっぱり最近の若者は何かがおかしくなってますよ』
全国ネットで放送されるその内容は、完全にわたるを犯罪者扱いしたものだった。
しかも、運の悪い事に、外の様子を伺おうとしたわたるが、カメラに写されてしまった。
未成年の犯罪とはいえ、一度その素顔が全国放送の電波に乗って既成事実ができたお陰で、報道側はすっかり遠慮をしなくなった。
わたるの顔が映った問題のシーンは何度も放映され、全国に晒されてしまった。
しかも、その時のわたるの顔は光の当たり具合等のせいで、いつにも増して目つきの悪い凶悪な顔に映っていた。
デブでオタクで人相も最悪の犯人というあまりに美味しすぎるネタに、テレビもネットもいまや異様な盛り上がりを見せている。
もはや、濡れ衣を晴らせたとしても、わたるに多大な社会的ダメージが及ぶ事は間違いなかった。
「ちくしょう……せめて、ドアが開けばなぁ…」
相変わらずのテレビを見ながら、わたるが絶望的な表情で呟いた。
【畜生…誰が”年端もいかない子供”だぁ!!】
一方、芽留の怒りのポイントはあくまでもその部分のようだ。
部屋に閉じ込められた今の二人には、今の事態に抗う術がなかった。
こうして手をこまねいている間にも事態はどんどん大きくなっていく。
真実を明らかにしたところで、今度は人騒がせな馬鹿として袋叩きにあうのは目に見えている。
別に、わたるが事件を大きくしようと煽ったわけじゃないのだけれど……。
「はぁ……また、辛い思いをさせちまうな…」
【ん、どうした?】
暗い顔で溜息をついたわたるに、芽留が尋ねる。
「いや、妹の話だよ。俺が昔やった馬鹿の話だ……」
それは、今の万世橋宅が建てられるそもそもの原因となった事件の時の話。
以前のわたるの家が全焼した大火事の時の話だ。

204:266
08/12/06 09:42:57 uha/J56h
突然燃え広がった炎に、慌てて家から飛び出した万世橋家の家族達だったが、二階にいたわたるの妹だけが家の中に取り残されてしまった。
だが、その時わたるが取った行動は……
「水を頭からかぶってな、家の中に飛び込んでいったんだ。………自分のコレクションを火事から救うために……」
当時のわたるは、オタクである事だけを唯一のアイデンティティーとしていた人間だった。
そんなわたるにとって、自分のコレクションが燃える事は何よりも耐え難い事だった。
全てはオタクとしての自分を守る事だけを考えた行動。
今になって考えてみればあまりに愚か過ぎる行いだった。
わたるが泣き叫ぶ妹の声に気が付いたのは、コレクションを抱えて炎の中から飛び出した後だった。
結局、わたるの妹は消防によって救助されたが、今でもわたるの心には深い後悔の念が残されていた。
「あの時の俺は、妹が泣いているのに、それに気付いてもいなかった。………自分の事しか考えてなかった」
そこで、わたるはその顔に自嘲気味な笑顔を浮かべる。
「そして、今回の事件だ。俺がこんな事をして、妹の方もただで済むわけがない。また、俺は妹に……」
そう言ってから、わたるは芽留の方を見て、
「ひどい兄貴だろ……」
そう言った。
【……そうだな、本当にろくでもない事をしたもんだな…】
答える芽留の表情も暗かった。
さっきの話を聞けば、わたるがどれだけその事で苦しんだか、後悔したか、わからない筈がない。
でも、芽留は知っていた。
わたるがそれだけの人間ではない事を。
わたると付き合ってきたこの数ヶ月で、それを何度も目にしてきた。
だから、芽留はわたるに真剣な眼差しで語りかける。
【本当にろくでもない事だ……でも…】
「でも?」
【今のお前は、そんな男じゃないだろ……】
その当時のわたるの事は、確かに芽留にはわからないけれど。
今のわたるは違うと断言できる。
信じている。
わたるの優しさを、思いやりを、今の芽留は知っているのだから……。
【だから、ほら、そんな情けないツラすんな。今回の一件でお前の妹がピンチになるんなら、なおさらお前がしっかりしなきゃいけないだろ】
そう言って、励ますように肩をバンバンと叩いてきた、芽留の笑顔に、
「ああ、そうだな。お前の言うとおりだ…」
わたるもようやく、明るい顔で微笑み返した。
「さて、本当の事を話すんなら、警察に直接言った方がてっとり早いんだが……」
さきほど、カメラの前の自分の顔を晒してしまったわたるは、今は部屋のカーテンをしっかりと閉ざしていた。
二階の窓から直接、警察と話すという方法も考えられたが、出来ればもう顔を出すのは避けたかった。
「一応、人質をとって、犯行声明を出しての篭城事件なんだ。警察から交渉の電話がある筈だ。俺の携帯の番号はすぐにわかるだろうし…」
わたるがそう言った、まさにその時だった。
ヴヴヴヴヴヴヴ。
わたるの携帯電話がどこからかの着信を受けて、ポケットの中で震動した。

わたるの妹は事態の展開に呆然としていた。
どうして、こんな事になっちゃうの?
兄は、わたるは、確かに女の子を連れて帰ってきたけれど、どう見ても誘拐したとかそんな様子ではなかった。
だけど、その事を何度も母に話しても、母は泣くばかりで一向に聞いてくれない、信じてくれない。
そうしてる間に、パトカーやテレビ局の車が集まって、自分の家に凶悪な犯人がいるぞと、わめき始めた。
お兄ちゃんはそんなんじゃない。
わたるの妹はよく知っている。
昔からずっと怖い顔をして、いつも気難しそうにしていたけれど、彼女にとってわたるは良い兄だった。
中学に入ってからさらに性格が暗くなって、さらに家が火事になった一件以来、いつも悩んでいるようだったけれど。
それもここ最近、数ヶ月ほど前からすっかり様子が変わって、以前よりずっと明るい顔を見せてくれるようになった。
『お前は、俺と違って優しい目をしてるな…』
わたるは口癖のように彼女にそう言っては、頭をぐしぐしと撫でてくれた。
彼女にとっては、いつも優しい兄だったわたるが、どうして犯罪なんかをしたりするだろうか?

205:266
08/12/06 09:44:42 uha/J56h
何度だって言う。
あれはただ、仲の良い女の子を家に連れてきた、それだけの事なのだ。
だけど、母は彼女の言葉を信じてくれない。
警察に至っては端から聞く耳を持っていない。
このままでは、本当に兄は、わたるは………。
「それでは、お母さん、ありがとうございました。わたる君の携帯電話の番号、確かにお教えいただきました」
傍らで、ずっと母と話しこんでいた刑事がそう言った。
黒髪をオールバックに撫で付けた、ちょっと警察官らしくない、紳士然とした様子の男。
彼が今回の事件の現場指揮をとっているようだった。
母は、彼にすがり付いて、泣きついて、どうか息子をお願いしますと、何度も繰り返している。
わたるの妹は、その刑事が母を見下ろしながら、顔に浮かべた笑顔がなんだか信用ならなかった。
一見すると柔和な、人当たりの良い笑顔に見える。
だけど、その瞳の奥底で、泣きじゃくる母を小馬鹿にしたような、冷たい色が滲んでいるように見えた。
「大丈夫です、お母さん。あなたの息子さんは、私が必ず説得して見せます」
刑事がそう言うと、わたるの母は何度も、ありがとうございます、ありがとうございます、と頭を下げた。
そして、刑事はわたるの母の元を離れ、電話が用意してあるらしいパトカーへと向かう。
そもそもがとんでもない勘違いの筈なのだ。
警察とわたるが直接話せば問題はなくなる、その筈だ。
だけど、わたるの妹は、全身に広がる寒気をなぜか抑える事ができなかった。

わたるが携帯を耳にあてると、馬鹿丁寧な男の声が耳に飛び込んできた。
「もしもし、私××署の笹平と申します。こちら万世橋わたるさんの携帯電話でよろしいですね」
待ちかねた警察からの電話だ。
全くの事故なのだが、わたると芽留が取らなければならない責任は小さくはないだろう。
それでも、全てを打ち明けてしまえば、とりあえずは現状を解決する事ができる。
「はい、私が万世橋わたるです」
「そうですか。まずは、万世橋さん、私を信用して、こちらの話を聞いていただきたいのですが…」
笹平という刑事の話しぶりは落ち着いていたが、やはりこちらを立て篭もりの犯罪者と考えているのは間違いなかった。
散々、テレビを見て覚悟していた筈だが、こうして警察から言われるとかなりショックだ。
「私の立場は、あなたの主張を警察に伝え、より良いゴールを目指す事です。味方と、そう考えてもらってもいいでしょう」
「そうですか……」
少なくとも相手が冷静そうな人物である事に、わたるはホッとしていた。
これから話す内容は、場合によっては相手を怒らせかねない。
そして、事態がより悪化してしまうという事も考えられたが、とりあえず安心していいようだ。
覚悟を決めて、わたるは話を切り出す。
「では、私から、私の味方である笹平さんに聞いていただきたい事があります」
「なんでしょうか……?」
「非常に驚かれるとは思いますが、落ち着いて聞いてください」
「はい…」
そこでわたるは深く深呼吸して、一気に言い切った。
「今回の事件、全くの勘違いが起こした、単なる事故なんです」
それから、わたるは自分達の立場を説明した。
単に友人を自分の部屋に招いただけだったのだが、ドアが壊れて開かなくなった事。
それが何故か、自分が人をさらって、あまつさえ乱暴を働いたかのように警察に通報されてしまった事。
それから、テレビで報道されている犯行予告状は、自分とは全く関係のない事。
それらをわたるは順序立てて、笹平に説明した。
「すぐには信じてもらえないと思います。ですが、こちらの考えている事は、この部屋から早く脱出したいという、ただそれだけなんです」
「それは、本当のお話なんですね……」
「はい。詳しい話はここを出てから、警察で話します。ですから……」
「本当なんですね?本当に、嘘は吐いていないと?」
「……はい?何度も言った通り……」
そこでわたるは、電話の向こうの人物の雰囲気が一気に変化したように感じた。

206:266
08/12/06 09:45:22 uha/J56h
とんでもない話を聞かされて、腹を立てているというのではない。
何かまるで、汚物を見せられて不愉快を感じているといったような、そんな雰囲気に笹平が変わるのを感じた。
「嘘は吐いていないと…そうですか…わかりました。……という事は…」
声のトーンが変わる。
柔和な口調だけはそのままだが、背中に氷でも当てられたかのような悪寒をわたるは感じた。
「という事はですね……あなたは、人質を開放する気はまだないと、そう仰るのですね」
「な、何を言ってるんだよっ!?俺はさっきから、誤解だって、外に出たいだけだって……」
「そうですか、残念です。そちらがその気では、現段階では警察としても今の対応を続けるしかない……」
「だから、ちゃんとこっちの話を聞いて……っ!!」
「本当に残念です。それでは、一旦ここで失礼させていただきますよ……」
「おい、待てっ!!」
わたるの言葉を完全に無視して、通話は一方的に断ち切られた。
閉鎖された部屋の中、さらに絶望的な状況に追い込まれた事を理解して、わたるは携帯を持ったまま呆然と立ち尽くした。

「という事はですね……あなたは、人質を開放する気はまだないと、そう仰るのですね」
笹平は、なるべく声の調子を変えないよう気をつけて、そう言った。
「そうですか、残念です。そちらがその気では、現段階では警察としても今の対応を続けるしかない……」
電話の向こうの声は完全に無視する。
周囲の人間に感づかれては、この後の対応に支障が出る。
「本当に残念です。それでは、一旦ここで失礼させていただきますよ……」
そして、そう言ってから、一方的に通話を打ち切った。
ポーズとしてはこれで十分、誰にも疑われない筈だ。
「まいったね……これは慎重に処理しないと……」
恐らく、あの少年の話していた事は全て事実だ。
だからこそ、始末に負えない。
今も現場周辺で騒ぎまわっている報道どもは、この事実が明らかになった時には、一斉に警察を叩くだろう。
この事件を全国規模のお祭りに仕立て上げたのは、他でもない自分たちだというのに……。
しかし、警察の側にも、十分な判断材料がないままに、事件と予告状を結びつけてしまった落ち度がある。
そうなると、強く反論する事も難しい。
下手をすればトップを始めとして、いくつのクビが飛ぶのか見当もつかない。
ほとんどチェックメイト寸前の最悪の状況だったが、まだ手段は一つだけ残されていた。
笹平は携帯電話を本部につなぐ。
「現場の笹平です。至急お話しなければならない事があるのですが……」
笹平は、上司達に自分が少年から聞いた話を伝えた。
上司たちは明らかに動揺した様子だ。
事の重大さを、十二分に理解しているのだろう。
「笹平君、これは由々しき問題だよ。我々にとって、とてつもない汚点となってしまう」
「はい。ですが、解決策はあります。ごくシンプルで、しかし最も確実なものが……」
そこまで言った時点で、笹平の上司たちも察したようだったが、あえて笹平はそれを口にした。
「万世橋わたる君には、このまま犯人になってもらいましょう」
「うむ、それしかないだろうな……」
上司たちは、笹平の言葉に対しても、一切の躊躇を見せなかった。
「了解したよ、笹平君。幸い、私には検事局の友人も多い。少年審判程度ならどうとでも誤魔化せるさ」
「そうですか。安心しましたよ」
「そのかわり、現場はまかせたよ。特に人質となっている少女の証言は一からでっちあげる事になる」
「その辺りは、万事おまかせください」
そう言って、笹平は恭しく礼などしてみせる。
「ははは、頼もしいな、笹平君は。では、頑張ってくれたまえ」
そうして、いとも簡単に犯人でっち上げの謀議は終了した。
携帯をポケットに収めた笹平は、彼自慢の人当たりの良い柔和な笑顔を顔に張り付かせる。
最大のピンチが最大のチャンスとはよく言ったものだ。
今回の件を上手く捌くことで、笹平は大きな利益を得る事ができるだろう。
「さて、これは頑張らなくてはね……」
鼻歌なんぞ歌いながら、上機嫌の笹平は、再び万世橋母娘のところへと向かった。


207:266
08/12/06 09:46:37 uha/J56h
警察が確信犯的に冤罪を作り出す決定をしたその最中にも、事件の報道は過熱し続けていた。
専門家を招いての、犯人の心理分析。
街頭でのインタビュー。
総理大臣も今回の事件を非常に遺憾であると発言し、わたるはいよいよ犯人へと祭り上げられていく。
しかし、そんなテレビの様子を、冷ややかに見つめる一団があった。
わたるの通う高校の宿直室、そこに集まった10名ほどの生徒達は渋い顔でテレビの画面を睨んでいた。
「おかしいわよ、絶対……」
最初に口を開いたのは、千里だった。
「うん。だって多分、人質の女の子って、芽留ちゃんの事だよ…」
続いて、奈美も不信感を露にした口調で続く。
ここに集まっていたのは、2のへの生徒たちだった。
担任である糸色望のところへ遊びに来て、たまたまこのニュースを目にしたのだ。
彼らは同じく2のへの生徒である芽留を介して、わたるとの付き合いがあった。
「でも、ニュースはアイツがやったって言ってるぞ」
次に口を開いたのは、意中の人である加賀愛を目当てにやってきた木野だった。
彼もわたるがそんな事件を起こした事には半信半疑だったが、繰り返し映し出される家に立て篭もったわたるの映像に動揺していた。
「いやだなぁ、万世橋くんがそんな事するわけないですよ。これは何かの誤解です。そうでなかったら、警察の陰謀とか…」
不安げなみんなに向けて、可符香が自信たっぷりにそう言い切る。
その発言が、事件の真相を思いっきり言い当てている辺りに、彼女のとんでもなさが伺えた。
「そうだね。証拠は何もないけど、僕にも彼がこんな事をする人間とは思えない……」
次に口を開いたのは、久藤准だった。
彼が知る限り、万世橋わたるはこういった行動を何よりも嫌う人間だった。
そして、彼が芽留の事をどれだけ大事にしているかも、2のへの面々の良く知るところだった。
そんな彼がよりにもよって、芽留を人質にする筈がない。
「当人達は隠してるつもりらしいけど、あの二人が付き合ってるのはバレバレだしね。これはちょっと考えられないかな」
晴美もうんうんとうなずいて同意する。
「先生、やっぱりこの事件、変ですよ……」
そう言って、まといが部屋の主である望を見ると
「そうですね。彼がこんな事をするとは、私にも信じられない……」
望はそう言って立ち上がる。
「少なくとも、彼の通う学校の教師として、音無さんの担任として、説得ぐらいやらせてもらわなくては……」
そこに霧が望の外套を持ってやって来る。
「はい、先生。外、寒いから……」
「ありがとうございます、小森さん」
受け取った外套を望が羽織ると、2のへの面々も顔を見合わせてから立ち上がる。
「とにかく現場に行ってみましょう。話はそれからです」

とある安アパートの一室で、一人の男が食い入るようにテレビを見ていた。
「おかしいぞ、こりゃあ……」
短く刈った髪を金に染めた、長身の彼は以前わたると出会った事があった。
彼は、映画を見た帰りのわたると芽留に目をつけて仲間と共に追い回し、わたると路上で喧嘩をした。
以前はそれなりの空手選手だった彼は、ほんの遊びのつもりでわたると戦い、そして敗北した。
技術、体力、その両方で劣るはずのわたるが、気合一つで男を倒したのだ。
全員で6人いた男とその仲間たちは、最後には総崩れになり散り散りになって逃げ出した。
あの日以来、男は以前の不良仲間と会っていない。
あの時見せ付けられた、わたるの不屈の闘志に、彼は自分の振る舞いに空しさを感じ始めたのだ。
男はかつて所属していた道場への復帰を考えるようになっていた。
少しずつ、体を鍛え直す毎日。
今更合わせる顔もないが、それでも道場に戻りたい。
あの日の記憶を原動力に動き出した男、だからこそテレビに映されたそのニュースが信じられなかった。
「アイツは、そんなセコイ真似をするヤツじゃねえよ……」
そう思うと、居ても立ってもいられなかった。

208:266
08/12/06 09:47:12 uha/J56h
男は立ち上がり、愛用のジャンパーに袖を通す。
納得がいかないなら、その目で確かめてみるしかない。
靴を履き、玄関の扉を開けて外に出る。
すると、そこには見知った顔が並んでいた。
「お前ら……」
「何か変なニュースがやってるからよ、ちょっと一緒に来てくれないか?」
久しぶりに顔を合わせた、あの時の不良仲間たち。
彼らも男と同じ疑念を抱いているようだった。
「ああ…」
男はうなずき、一歩を踏み出す。
あの時のデブがそこらのクソッタレ共と同じはずがない。
6人の不良仲間たちはその確信に突き動かされて、一路事件の現場を目指す。

警察との電話を終えてから、真っ青になったわたるの顔を、芽留は不安げに見上げていた。
【何かあったのか……?】
「何かどころの話じゃない……」
わたるは、警察との電話の一部始終を芽留に語って聞かせた。
【何だそれ?一体どうしてそんな事を……】
「わからん。だけど、このままじゃあ、俺は本当に本物の犯罪者にされちまう……」
そう言って頭を抱えるわたるの顔には、何とも言い難い苦渋の表情が浮かんでいた。
つい先刻までは、当たり前の日常を過ごしていた筈なのに、今では全国に報道される事件の犯人扱いだ。
そこまでして強引にわたるを犯人にするという事は、被害者の位置づけである芽留も無茶苦茶な証言を強要されるのだろう。
いっそ二階の窓から自分の無実を訴えてみるか。
だが、わたるの家の周辺は警察のパトカーに固められて、報道のカメラはその外側だ。
警察は犯人の妄言として受け流すだろうし、テレビや野次馬にその声が届く事もないだろう。
携帯でどこか外部に連絡しても、警察は黙殺するに違いない。
何一つ打開策が見えてこない。
「くそっ…まさに八方塞がりだ」
そう呟いて、わたるは力なく床の上にへたりこんだ。
完全に意気消沈してしまったわたるを、芽留は心配そうに見つめる。
コイツを犯罪者なんかにされてたまるか。
芽留は頭をフル回転させて考える。
現在のわたるの人質という立場を利用すれば、何かが出来るのではないか?
この最悪の状況をひっくり返せるのではないか?
(そうだ……コイツが逮捕されて家の外に連れ出される時なら……)
報道のカメラは犯人の姿をレンズに捉えようと、一気にむらがってくるはずだ。
その時、他ならぬ人質の筈の自分がわたるの無実を訴えれば……
だが、そこで芽留は自分の作戦の重大な欠陥に気付く。
(駄目だ。……オレは声が……)
かつてのトラウマのために声を発する事ができない芽留。
彼女には、わたるの無実を叫び伝える事など最初から出来ないのだ。
このまま、本当にわたるは犯罪者にされてしまうのだろうか?
莫大な富と権力を持つ、芽留の父親に助力を乞う事も考えたが、あいにく彼は現在北海道に出張していた。
戻ってくるのを待っていては遅すぎる。
わたるの身柄が警察に渡った時点でどんな事をされるかわからないのだ。
それでも、芽留は思う。
(それでも、コイツがそんな馬鹿をやるヤツじゃないって、わかる人間もいるはずだ……)
芽留の知る、わたるの優しさ、思いやり、それを理解してくれている人間だっているはずだ。
それがもしかしたら、現状を突破する鍵になってくれるかもしれない。
(頼む。頼む、誰かコイツを…わたるを助けてくれ……)


209:266
08/12/06 09:47:49 uha/J56h
わたるの妹は怯えていた。
笹平という刑事が電話して以来、次々と警察車両が到着して警官が増えていく。
いまや万世橋家の前の道路は溢れかえらんばかりの警察官埋め尽くされて、尋常ではない雰囲気に包まれていた。
そして、笹平という刑事は一度目の電話以降、一切わたるとの交渉をしているようには見えない。
そこかしこから漂うキナ臭さを、彼女は感じ取っていた。
わたるは犯人なんかじゃない、彼女はそう確信している。
しかし、わたるの母は自分の息子の犯罪にすっかり元気を無くし、呆然と立ち尽くすばかりとなっていた。
今、わたるの無実を訴えられるのは自分しかいない。
意を決して、彼女は何やら同僚の刑事と話しこんでいる笹平のもとに向かう。
「笹平さん…」
呼びかけられた笹平は、相変わらずの柔和な笑顔でわたるの妹の方を振り返った。
「どうかしましたか?」
だが、今の彼女にはこの柔らかな物腰すら、信用なら無いように思えた。
彼女は精一杯の怖い顔をして、笹平を睨みつけて言った。
「お兄ちゃんは犯人じゃありません!」
「おや、どうしてそんな事を思うんです?彼は現に人質をとって立て篭もっているんですよ」
「お兄ちゃんはそんな事をする人じゃないからです!」
「ううん、妹さんとしてはお兄さんを信じたいというのは理解できるますけど……」
彼女の言葉にニヤニヤと笑いながら答える笹平。
そこで彼女は最大の爆弾を笹平に向けて投げつける。
「それに私、見たんです。お兄ちゃんと女の人が仲良く話して、一緒に部屋に入るのを……」
ここで初めて、笹平は言葉に詰まった。
「……それは本当の事ですか?確かな話でなければ、警察は信用しませんよ。それとも、何か証拠でも?」
「証拠がないのはお母さんの話も一緒じゃないですか!!」
笹平の笑顔が歪む。
さらに、わたるの妹は畳み掛ける。
「それなら、お母さんの話も、私の話も同じはず。それなのに、どうして私の話だけ聞いてもらえないんですか?」
これで、是が非でも兄にかけられた濡れ衣を晴らしてやる。
わたるの妹は必死で笹平を睨みつけた。しかし……
「困りましたねぇ……」
そこで笹平は再び、あの笑顔を取り繕う。
「大橋君、大橋君っ!」
そして、近くにいた刑事の一人を呼びつける。
「どうしたんですか、笹平さん?」
「いや、”犯人”の妹さんがね、どうにもちょっと錯乱してるみたいで……」
(え……っ!?)
ニヤニヤと、笹平が呟いた言葉に、わたるの妹は驚愕した。
「そうですか、じゃあ、私が相手をしますので……」
「頼むよ、さっきから支離滅裂な事ばかり言って困ってたんだ…」
そして、彼女は気付く。
笹平の指示を聞いて、大橋と呼ばれた刑事がニヤリと歪んだ笑みを見せた事に。
(……この二人、グルだ)
思わず逃げ出そうとした彼女の腕を、大橋が掴む。
「さあ、こっちへ来てください」
「いや、放してぇ!!」
大橋は言葉だけは丁寧だったが、痛いぐらいの力で彼女の腕を握る手の平からは明らかな悪意が感じられた。
(この人たちは全部知ってて、お兄ちゃんを犯人にするつもりなんだっ!!)
わたるの妹は必死で暴れるが、屈強な刑事が相手では逃れようが無い。
彼女がそのまま大橋の手で引きずられていこうとした、そんな時だった。
「あの~、すみません」
突然声を掛けられて、笹平が少し驚いて振り返った。
大橋も立ち止まり、声のした方を見る。
そこにあったのは、背後に数十人の制服姿の学生たちを従える青年の姿。
今時珍しい着物と袴を着たその青年は、ぺこりと頭を下げてこう言った。
「私、万世橋わたる君が通っている学校の教師でして、糸色望と申します」


210:266
08/12/06 09:48:56 uha/J56h
「先生?高校の?」
「ええ、もっとも彼のクラスの担任ではありませんが、それでもそれなりに彼の事は知っているつもりです」
笹平は、唐突に現れたその人物を警戒した。
そもそも、バリケードの内側になるこんな場所まで、どうやって入ってきたのだろうか?
すると、望は笹平の考えを見透かしたかのように
「ああ、無理やりここまで入ってきたわけじゃないですよ。ちゃんと警察の方にお話しました」
そんな筈は無い。
バリケードを超えたのは、この男だけではないのだ。
この男の背後の学生たち数十人、全部通す馬鹿がいるはずがない。
「2のへだけじゃなく、2のほの皆さんまで集まったのでこんな大人数になってしまいまして、本当にご迷惑をおかけします」
「でも、警察のみなさん、私の話を聞いたら、すぐに通っていいよって言ってくれましたね」
「そうですね、風浦さん。警察の方々が理解のある人達で本当に助かりましたよ」
一体、こいつらは何なんだ。
こんな大勢で何の用があるっていうんだ?
笹平は心中の動揺を押し隠しながら、望という教師に問いかける。
「で、一体どういうご用件ですか?糸色先生……」
「いえ、少し警察の方のお手伝いをしようと考えまして…」
望は微笑んで、こう言った。
「犯人への説得、それを私にもやらせていただけないかと……」
「………っ!?」
笹平の心臓が一気にすくみ上がる。
そんな事をされたら、自分たち警察が今からやらかそうとしている事までバレてしまいかねない。
笹平は叫びそうになるのを堪えながら、望の問いに答える。
「そ、それは非常に有り難い申し出ですが、残念ながらお受けは出来ません…」
「何故ですか……」
「犯人は現在、非常に興奮しており、かなり危険な状態です。いたずらに刺激しては、かえって危険なのです」
笹平のもっともらしい説明にも、しかし、望は納得してくれなかった。
「そうでしょうか?彼は元来そんな人間ではないはずです。私が話せば……」
「ですから、彼はいつもの学校での彼とは違うんですっ!!」
思わず声を荒げてしまった事に、笹平は一瞬遅れて気が付く。
目の前の教師の顔には明らかな不信感。
まずい。このままでは……
「そうですか。彼はそんな状態に……」
「ご理解、いただけますね?」
「……しかし、私としては、彼を信じてあげたい……」
そう言って、望が取り出したものを見て、笹平は戦慄する。
旧式の携帯電話だ。
まさか直接自分で万世橋わたるに連絡を取るつもりかっ!?
「やめろぉおおおおっ!!!!」
叫んで、笹平は望に掴みかかった。
「何をするんですかっ!?刑事さんっ!!」
「お前こそさっきの話を聞いていなかったのかっ!!犯人と今話すのは危険なんだっ!公務執行妨害で逮捕するぞっ!!」
激昂する笹平。
と、その耳元に誰かが囁きかけた。
「あれ、先生は万世橋君に電話するなんて、一言も言ってませんよ?」
「なっ!!」
それは、先ほど望と話していた、風浦とかいう女生徒の声だった。
「そうですよ。私はとりあえず、2のほの担任に現地の状況をメールでお知らせしようとしただけです」
ここに至って、笹平は自分が痛恨のミスを犯した事に気が付く。
「何だか、万世橋君と私たちに、どうしても話をさせたくないみたいですね」
「だから、それは犯人が危険な状態にあるからで……」
気が付けば、笹平は望の連れて来た生徒たちの無数の目に睨みつけられていた。
駄目だ。
こいつら、俺の事を怪しんでやがる。
そして、うろたえる笹平の耳元に、さきほどの女生徒、風浦可符香がとどめの一言を告げる。

211:266
08/12/06 09:50:38 uha/J56h
「だめですね、すっかり化けの皮が剥がれちゃってますよ、笹平さん……」
ニッコリと笑った彼女の口から発せられた言葉に、笹平は全身が砕け散りそうな衝撃を覚える。
この女、こっちの演技を見抜いているのか?
いや、それだけじゃない……っ!!
「な、なんで……なんで君が私の名前を知ってるんだ!?」
笹平は、彼らに自己紹介などしていない。
それなのに、目の前の少女は平然と彼の名前を言い当てて見せた。
「女の子には秘密がいっぱいなんですよ、笹平さん」
可符香がもう一度、笹平の名前を囁く。
ヤバイ。
こいつらは本当にヤバイ。
そんな時だった。
絶体絶命の笹平に、天の助けが舞い降りる。
「笹平さんっ!!」
「お、大橋君かっ!?」
「突入準備、完了しました。いつでもいけますっ!!」
その言葉を聞いて、笹平は生気を取り戻す。
「よし、突入だっ!!被疑者を確保しろっ!!!」
大橋に叫び返し、望達の方に振り返った笹平は勝ち誇った笑みを浮かべる。
「すみませんね。先生、どうやら、あなたの説得の必要はなくなりました……」

ドタドタと大勢の人間が階段を駆け上がり、わたるの部屋に近づいてくる足音が聞こえる。
「ついに来るときが来たな……」
【わたる……】
不安そうに見上げてくる芽留に、わたるはニヤリと笑ってみせた。
「心配すんな。俺は何もやってないんだ。必ず無罪放免で、戻ってきてみせる」
それは、あまりにも見え見えの強がりだった。
何かを伝えたくて、でも何も言葉を思いつかなくて、芽留はわたるの胸に縋り付いた。
そんな彼女の頭を、わたるはいつもと変わらぬ調子で撫でてやる。
と、その時、ガンッ!!ガンッ!!と激しい音がドアの方から響いてきた。
斧か何かを使って、ドアを叩き壊すつもりなのだ。
「ああいうのが部屋にあれば、こんな事にはならなかったんだけどなぁ……」
呟いてから、わたるは芽留をそっと自分から引き離す。
「それじゃあ、行ってくる……」
「……あぁ……わたるぅ……」
芽留が、か細い声でわたるの名を呼ぶ。
わたるはそれに笑顔で応える。
ドガッバキンッ!!!!
ついにドアは破られ、大勢の警官が部屋の中になだれ込んでくる。
わたるは彼らの前に歩み出て、そっと両手を差し出す。
「被疑者確保ーっ!!人質も無事ですっ!!!!」
手錠をかけられたわたるは、警官たちに伴われて、部屋の外に連れて行かれる。
その姿が警官の群れの中に紛れて消えた時、ついに芽留の理性が吹っ飛んだ。
(わたる……っ!!!!)
突然駆け出した芽留を、警官たちは数人がかりで押さえつける。
「こら、落ち着きなさいっ!!もう君は解放されたんだっ!!大丈夫なんだっ!!」
(何を言ってやがるんだっ!!大丈夫なもんかっ!!このままじゃ…このままじゃ、わたるが……っ!!!)
必死に前に進もうとする芽留。
だが、これだけの数の警官を前にしては、彼女はあまりに非力すぎた。
無力な自分を、このとんでもない理不尽を呪って、芽留は声にならない声で叫ぶ。
(ちくしょぉおおおっ!!!!わたるぅうううううううっ!!!!!!)
その時だった。
「……?」
警官の一人が顔を上げた。

212:266
08/12/06 09:51:16 uha/J56h
「どうした?」
「いや、何か聞こえたんだ…なんだか聞き覚えのある音だったんだけど……」
不思議に思って尋ねたもう一人の警官にも、それはすぐに聞こえ始めた。
風を切る音。
そうだ、これは戦争映画なんかで、落下していく爆弾が空気を切り裂くあの音……。
思わず、警官達が上を見上げた次の瞬間。
ドォオオオオオ―――――――ンッッッ!!!!!!
凄まじい衝撃が、家全体を揺らした。
そして……
ドガガガガガガガガガガッ!!!!!!!
天井を突き破って、それはわたるの部屋のど真ん中に落下した。
「なんだこれ……?」
「棺……?」
突如、天井をぶち抜いて現れた黒塗りの西洋風の棺。
あまりに非現実的な出来事に、その場にいた警官の全員が動きを止めた。
そして、その棺の中から、地獄の底から響いてくるような低く恐ろしい声が聞こえてきた。
「めるめるをぉ…いじめたのはぁ…誰だぁあああああああああっ!!!!!」
「へっ!?」
次の瞬間、棺の蓋が吹っ飛び、中から黒い影が躍りだした。
「お前かぁあああああっ!!!!!」
「ひぃいいいっ!!!!」
影が腕を振るうと、警官の一人が軽々と吹っ飛ばされた。
続いて影に飛び掛った数人の警官も同様の末路を辿る。
「な、何だ、お前はっ!?」
怯える警官の一人がそう叫ぶと、影は動きを止めゆっくりと振り返った。
山高帽に黒服、紳士然とした衣装にカイゼル髭をたくわえた異様な姿。
混乱する部屋の中、芽留だけがその男の正体を知っていた。
(ク、クソヒゲハット……っ!!?)
彼こそは、音無芽留の父親、芽留による通称はクソヒゲハット。
莫大な富と権力を有し、それをフル活用して芽留に間違った愛情を注ぎまくる怪人だ。
「私は芽留の父親だ。官憲が何の用かは知らんが、芽留を放してもらおうかっ!!」
先ほどの暴れっぷりを見て萎縮した警官たちは、芽留の父の一喝にすくみ上がる。
(でも、コイツ、北海道に出張していたんじゃ?)
「おお、めるめる、何だか私がここにいるのが不思議そうな顔だな。何、別に大した事じゃあない」
この不可解な事態への疑問で頭がいっぱいの芽留に対して、彼女の父はニヤリと笑い
「愛のパワーでめるめるのピンチを察知して、特別便で帰ってきたのだっ!!!」
自信満々にそう言い切った。
(ああ、駄目だ……。こりゃあ、本当に早いとこ縁を切らないと……)
そんな父の態度に、芽留はすっかり呆れ返る。
(でも、今の状況なら……っ!!)
父の出現によって、いまや部屋の中は大混乱だ。
芽留を押さえつける警官も、すっかり彼女の父に気を取られている。
チャンスだっ!!!
(今回だけは恩に着るぜっ!!)
するり。
警官の腕をすり抜け、芽留は部屋の外に飛び出した。
廊下にいる警官たちの合間を、小さな体をフル活用してくぐり抜け、一気に一階まで駆け下りる。
(そうだ、今はチャンスなんだっ!!わたるの無実をオレが証明できる、今が最後のチャンスなんだっ!!!)
一階に下りると、後はまっすぐ廊下を進めば、そこが玄関だ。
(俺がアイツを助けるんだっ!!!!)
廊下を駆け抜けて、玄関の扉を開くと、警官の一団に囲まれて進むわたるの姿が見えた。
(わたるっ!!!)
だが、駆け出そうとした芽留を、大きな影が遮った。
私服の刑事らしきその男は、芽留には知る由も無いが、大橋という名前の例の刑事である。
「いけませんよっ!!」
大橋は芽留の肩を掴んで、彼女を引き止める。

213:266
08/12/06 09:52:05 uha/J56h
その容赦ない力加減と、顔に張り付いた薄ら笑いを見て、芽留はこの男が敵であると確信する。
(ちくしょうっ!!あともう少しなのに……)
荒事に慣れた刑事と、小さな女の子の芽留とでは、全く勝負になるわけがない。
大橋の腕に押さえつけられている間に、わたるは芽留から遠ざかっていく。
だが、その時―
「いい加減にしとけよ、オッサンっ!!!」
鋭い回し蹴りが、大橋の頭を直撃した。
脳を直接揺らすその衝撃に、大橋は力なく崩れ落ちる。
そして、その向こう側にいたのは……
(な、なんでコイツが……)
「よう、久しぶりだなぁ……」
短く刈った金髪を、芽留は良く覚えていた。
わたると一緒に映画を見に行った帰りに、襲い掛かってきた不良の一人だ。
「事情がわかんなくて混乱してると思うが、質問は後にしてくれ。今はあのデブを助けるのが先決だ」
呆然としたまま芽留が周囲を見渡すと、そこはとんでもない事になっていた。
見知った顔が何人も、警官を相手に暴れている。
2のへと、そして何人かの2のほの生徒達だ。
「お前のクラスの先生ってのに頼まれてな、好き勝手に暴れまわったんだ」
現場はもはや大混乱に陥っていた。
芽留のクラスメイト達の大暴れのせいで、バリケードに穴が開き、野次馬や、テレビカメラが万世橋家の前に殺到していた。
わたるを囲んだ警官たちも、彼らに行く手を塞がれて立ち往生している。
「人質ってのは、やっぱりお前か。ようやく話が見えてきたな。やっぱり、テレビで言ってたのは全部嘘っぱちだったわけだ」
【当然だ。わたるがそんな事するわけないだろうっ!!】
「ははは、相変わらず、お熱いねぇ」
男に茶化されて、芽留は頬を真っ赤に染める。
「わかってると思うが、あのデブを助けるには、被害者であるはずのお前が味方するしかない」
【ああ……】
「問題は、どうやってアイツが犯人じゃない事を、ここにいる奴らに分からせるかなんだが……」
そう言って、男は顔をしかめる。
確かにそれは難しい問題だった。
言葉で説明しても、確実な証拠がない限り誰も信じれくれないだろう。
そもそも、人前でほとんど話すことの出来ない芽留には、その方法を使う事自体無理がある。
しかし、手をこまねいていれば、警察はわたるを自分の手の内に収めて、好き勝手に事件の偽の真相を作り上げるだろう。
今、ここで戦っている芽留の学校の仲間たちも、片っ端から公務執行妨害で逮捕されてしまう。
(言葉じゃ無理なんだ。言葉じゃ………)
そこで、芽留はハッと顔を上げる。
閃いたのだ。
芽留にでも出来る、芽留だからこそ出来る、言葉以外の方法を……。
(ちょうど、いい具合にカメラも集まってるな……)
芽留は覚悟を決め、金髪男をちらりと横目で見る。
「行くのか?」
それだけで芽留の意思を察した金髪男に、芽留は静かにうなずいて見せる。
「よっしゃ、それじゃあ行くぞっ!!」
金髪男が叫んだのと同時に、芽留は駆け出した。
行く手を遮る警官たちを金髪男がなぎ倒し、その隙間を縫って、ついに芽留はわたるの目の前に踊り出る。
「お前、なんで……っ!?」
顔を隠すため、頭から刑事のコートを被せられたわたるが、芽留の姿を認めて驚きの声を上げた。
そんなわたるに、芽留は心配ないとでも言うように微笑んでみせる。

214:266
08/12/06 09:52:46 uha/J56h
(わたる、お前はオレをいつも助けてくれたよな……)
芽留が、わたるに向かって歩み寄る。
そして、わたるの頭にかけられたコートを手に取り、それをそっと肩の位置にまでずらしてやる。
露になったわたるの素顔、今回の事件の犯人の顔は、周囲を囲むカメラの注目を一気に集めた。
「き、君ぃ!!こんな事をして、何をっ!!!」
意外すぎる行動に叫ぶ刑事たちの声も、芽留の耳には入ってこない。
ただ、目の前の愛しい人の顔だけを見つめる。
(だから、今度はオレが……オレがお前を助けてみせるっ!!!)
爪先立ちになった芽留は、わたるの顔に両方の手の平を添える。
さらにその両手で、わたるの顔をそっと自分の方に引き寄せた。
「………お前…」
「…………わたる、大好きだぞ…」
わたるにしか聞こえない、小さな声で芽留はそう呟く。
そして、そのまま、二人の唇はそっと重なり合った。

その映像は電波に乗って、全国を駆け巡った。
凶悪事件の犯人に興味津々の視聴者達も、わたるの素顔に色めき立っていたテレビ局のスタッフたちも、すべからく理解した。
二人は、犯人とその人質などではない事を。
二人の間にある、想いと絆をの名前を。
何よりも鮮烈な形で、彼らは目撃する事となった。

「お、お、お、お、お前、何をぉおおおおおおおっ!!!!?」
芽留の唇が離れて、ようやく事態を理解したわたるは、顔を真っ赤にしてわめきたてた。
しかし、芽留はそんなわたるの言葉には一切答えず、ただ得意げに、そして嬉しそうに微笑むばかり。
そんな二人の様子を見ていた周囲の警官たちに動揺が広がっていく。
「おい、これどういう事だよ?」
「俺に聞くなっ!!俺だって訳がわかんねえよっ!!」
「でも、あの娘は人質の女の子の筈だよな?」
「だったら、さっきの、キ、キ、キ、キスは……」
誰も彼もが訳が分からず、ただ呆然と立ち尽くすばかり。
そんな中で、芽留の行動の意味と、その重大さを嫌というほど理解している男がいた。
「こ、こんな手で来るなんて………っ!?」
笹平は呆然と呟いた。
これで全国に、二人が親密な関係にあり、それは今も崩れていない事が印象付けられた。
そんな二人を、今更犯人とその人質に仕立て上げるなど不可能だ。
「終わりだ。全部、お終いだ……」
笹平は、自分の体を抱きかかえるようにして、ゆっくりとその場にうずくまった。

辺りでは二人のキスを見て、2のへや2のほの生徒たちが歓声を上げ、やんやと二人を囃し立てていた。
「これで何とかなりましたね。あなたもお疲れ様でした」
「いえいえ、親友の芽留ちゃんのためですから」
「まだそのネタ引きずってたんですか?」
望と可符香の二人も遠巻きにわたると芽留の姿を見つめながら、祝福の拍手を送る。
これでもう一安心、二人を助けるべく集まった人間たちは皆ホッと胸を撫で下ろしていた。
わたるが犯人だと思い込んでいた人間たちは、驚きの余り呆然として言葉をなくしていた。
万世橋家の周囲の空気は一気に緊張から開放され、辺りには弛緩した空気が漂っていた。
だから、誰も気付いていなかった。
最後の脅威が静かにこの場に紛れ込み、今まさに牙を剥こうとしている事に……。


215:266
08/12/06 09:53:21 uha/J56h
彼は怒っていた。
彼が犯行予告を送りつけたTVSが、愚かにもこんなくだらない事件と自分の予告状を結びつけてしまった事に。
彼は自分を、聖なる戦いのための戦士として自覚していた。
犯行予告はいわば、彼の世界に対する宣戦布告だったのだ。
だが、その名誉はあのいかにも低能そうなオタク男に奪い去られた。
その上、事件の結末は汚らわしい男と女の行為に締めくくられてしまった。
(これは冒涜だ…)
彼は懐から、折り畳み式のナイフを、聖戦を戦う彼の牙を抜き放った。
愚鈍な周囲の人間たちは、誰も彼に気付かない。
やはり、彼らのような存在は、自分のような戦士に裁かれる運命にあるのだ。
彼は確信を強める。
まずは、全てを台無しにした愚か者に天罰を。
彼が狙い定めたのは、髪を二つにくくった小柄な少女。
あの女の血を以って、我が聖なる戦いの開戦の狼煙とするのだ。
ナイフを構え、彼はゆっくりとスピードを上げて走り始める。
「うわああああああああああああああああああっ!!!!!!!!!」

その叫び声が何であるかを理解できたものは、その場には一人も居なかった。
だが、ただ一人、わたるだけが、叫び声を上げて突っ込んでくる男の一直線上に、芽留がいる事に気付いた。
男が何者なのか、何をしようとしているのかはわからない。
だが、わたるにとっては、それだけで動く理由に十分に値した。
わたるが芽留の前に歩み出て、男の前に立ち塞がる。
しかし、男はスピードを緩めない。
最初から二人とも殺すつもりだったのだ。
どちらが先になろうと関係ない。
一気に加速をつけて、わたるの懐目掛けて男は突っ込んでいく。
わたるは男を迎え撃つべく、手錠に繋がれた両手を前に掲げる。
そこでようやく、わたるとその周囲の人間は、男が手に持っているものの正体に気が付く。
光を反射して輝く刃の銀色に、誰もが凍りついた。
しかし、最初から芽留の前を動くつもりの無いわたるには関係の無い話だった。
「うわああああああああああああああああっ!!!!!!!!」
絶叫と共に銀の牙がわたるに襲い掛かる。
そして……っ!!!
「残念だな。届かなかったみたいだぞ……」
あと少しで腹に刺さる直前、わたるの手の平がギリギリで折り畳みナイフを捕らえていた。
刃を握った手の平から、ポタポタと血が流れ落ちる。
「ちくしょおおおおおおっ!!!!」
男はそれでも力を込めて刃を押し込もうとするが、その前にわたるが動いた。
「逸脱するなら二次元だけにしとけってんだ!!!!!!」
わたるは男の頭に渾身の頭突きを落とし、さらに力ずくで男を投げ飛ばした。
頭突きを受けた瞬間に力が緩んで、ナイフを手放した男は無様に道路に叩きつけられる。
そして男は、ようやく正気に戻った警察官達によって取り押さえられた。
「くそっ!くそったれっ!!あれは俺の犯行予告だったんだぞっ!!!それを何でお前がっ!!!!」
男がそのまま警察官に連れ去られていくと、芽留は慌ててわたるに駆け寄った。
(この馬鹿っ!!またとんでもない無茶をしやがって……っ!!)
一つ間違えばわたるは死んでいた。
手の平が震えてメールが打てない。
言葉を失った芽留は、ただわたるを睨みつける。
そんな芽留に対してわたるは、
「ああ、すまなかったな。また、お前の気持ちを考えずに動いてた……」
そう言って、優しく微笑んだ。
その言葉に、芽留の瞳から涙が一気に溢れ出す。
服が血で汚れるのにも構わず、芽留はわたるに縋りついた。
「本当にごめんな、芽留……」
その時、一陣の風が吹き抜けて、わたるの肩に引っ掛けられたコートをたなびかせた。
マントのように広がるそれを背負い、芽留の傍らに立つわたるの姿は、さながらか弱い少女のために戦う騎士のように見えた。


216:266
08/12/06 09:54:18 uha/J56h
こうして、不運と嘘と誤解が作り出した事件は幕を下ろした。

事件から一週間後、真っ赤な夕日に照らされながら、わたると芽留はいつもの学校の帰り道を二人並んで歩いていた。
「まあ、何とか無事に終わったのはなによりだ……」
【あれを無事と言えるかどうかは、少し疑問だけどな……】
事件の後、マスコミの報道の矛先は、わたるを犯人に仕立て上げようとした警察に向けられた。
おかげで今の警察は、上へ下への大騒ぎを続けている。
そして、事件の当事者であるわたると芽留にも、当然取材の手が及ぶはずだったが、芽留の父親の力で全て握りつぶされてしまった。
最も、あの日全国放送で流れた映像までは取り消す事はできなかった。
現在、動画投稿サイトを覗けば、二人のキスシーンをいつでも見る事が出来る状況だ。
そして、芽留の父親も、二人にマスコミが近づけないよう手配した後、ばったりと倒れて一週間近くずっと寝込んでいる。
愛する娘のファーストキスに、完全に心を折られたのだ。
それでも、わたるに危害を加えようとしないあたり、ある程度、娘を守ったわたるの事を認めているのかもしれない。
ともかく、全国ネットでキスシーンの生中継をしてしまった二人は、この一週間だけでもかなり恥ずかしい目に遭う事となった。
「仕方がないだろ。ベストじゃないが、ベターな落としどころだったとおもうぞ」
【まあ、そうなんだが……。あ、そう言えば、お前のところの母親、大丈夫なのか?】
「ああ、さすがに大分持ち直してきたけど、まだ元気とは言えないな……」
事件後、息子が濡れ衣を着せられそうになった原因が自分にある事を悟り、わたるの母は塞ぎこんでしまった。
わたるや、彼の妹の励ましでいくらか元気を取り戻したが、こちらも完全に元に戻るには長い時間がかかりそうだった。
「しかし、今回は2のへの連中に随分世話になったな」
【まあ、あいつらは暴れまわるのが仕事みたいなもんだからな】
「お前もその2のへの生徒だろうが…」
そこでわたるは、一つ息をついて、こう呟いた。
「でも、まさか2のほの連中まで助けに来てくれるとは思わなかった……」
自分は2のほの中で浮いている。孤立している。
そう感じていたわたるにとって、それはかなり嬉しい事だったようだ。
また少し、わたるの頑なさが解けつつあるのを見て、芽留も嬉しそうに微笑む。
それ以外にも、以前二人を襲った6人の不良たちが助けにやって来てくれた事も嬉しい出来事だった。
わたるは以前の約束どおり、彼らにお勧めの作品を貸し与えてやった。
その後、連絡は取っているのかと芽留が聞くと、布教は順調だと言ってわたるは笑った。
「ともかく、今は平和な毎日に感謝するばかりだよ」
【そうだな……】
そう言って、微笑み合った二人だったが……

217:名無しさん@ピンキー
08/12/06 09:55:07 +sQ6FaZf
なんだこれ

218:266
08/12/06 09:55:18 uha/J56h
「あ、あのチビデブカップルじゃんっ!!」
「すげーっ!!本物、初めて見たよっ!!」
通りすがりの小学生に囃し立てられ、二人は一気に真っ赤になる。
何しろ、全国生中継だったのだ。
これからも当分、二人の苦労は続く事になるだろう。
【わかっててやった事とはいえ、キツイなぁ……】
芽留は真っ赤な顔を俯かせて、深く深く溜息をつく。
と、そんな時、唐突にわたるが立ち止まった。
【ん、どうした?早く帰らないと、またさっきみたいな奴らに見つかっちまうぞ】
「あ、ああ…まあ、そうなんだが……」
微妙に言いよどみながら、わたるは芽留の肩に手を置く。
【ちょ…何だよ?どうしたんだよ?】
「いや、どうせ恥ずかしいのなら、もう何回やっても同じかなって思って……」
【だから一体、何の話だよ?】
「あの時、完全にお前に主導権を握られてたのも悔しいし……なんというか、リベンジがしたいというか…」
そこまで聞いて、芽留はようやくわたるの意図を悟る。
【ちょっと待て!路上だぞっ!!外だぞっ!!また見られたりしたら……】
「もう全国の人間に見られてるんだ。今更、大した事じゃないだろ?」
【そ、そ、そ、そうだけど……そうなのか?】
なんてやり取りをしている間にも、わたるの顔がゆっくりと近づいてきて……
「……俺は…その…もう一度してみたいんだ……お前はどうなんだ?」
わたるにそう聞かれて、ぐるぐると混乱するばかりの芽留。
結局、最後に出てきた答えは……。
【…………オレも…したい…】
それだけ伝えて、芽留は携帯を持つ手を下げた。
そのまま、見詰め合う二人の唇の距離はどんどん縮まってゆく。
夕日に照らされて、道路に落ちた二人の黒く長い影がそっと重なり合った。
辺りに人影はなく、まるで世界と時間から切り離されたような夕焼けの帰り道で、わたると芽留はずっと唇を重ねていたのだった。

219:266
08/12/06 09:56:46 uha/J56h
これでお終いです。
エロなしかつ、長ったらしい話ですみません。
全国生中継でキスするってのがやりたかっただけだったんですが、こんなに長くなってしまいました。

それでは、失礼いたします。

220:名無しさん@ピンキー
08/12/07 21:46:08 BM6RjO5Y
相変わらずのほのぼのっぷりが好きです、GJ!

221:名無しさん@ピンキー
08/12/09 17:36:06 YDi11im6
グッショブ!おもしろかった

222:名無しさん@ピンキー
08/12/09 19:57:14 Gp6+hrk+
266さん、
 G J
このほのぼのカップルは、「幸せ」満点でいいねぇw

223:名無しさん@ピンキー
08/12/12 03:22:17 KDkqjix6
ハーレムスレを見るべし

224:名無しさん@ピンキー
08/12/12 06:53:57 GKGPjjKT
ハーレムスレってなんだ?絶望先生関係あんの?

225:名無しさん@ピンキー
08/12/12 07:01:21 QGSO2b2s
見てきたけど素晴らしいな。文章が上手い。
>>224
この板にあるよ。まだ途中だがまといと霧と先生のが投下されてる。

226:名無しさん@ピンキー
08/12/12 20:57:15 FoZ0kZKb
見てきたが二次創作の扱いについて議論してたな
こっちに投下してくれてもいいのに…

227:名無しさん@ピンキー
08/12/13 01:28:26 vkKecspc
まぁゲス野郎ばかりだからなこのスレは

228:名無しさん@ピンキー
08/12/14 00:34:35 qMjZHuL+
このスレには本スレや各キャラスレのカプ厨やら何やらが結集するんだろうなぁと考えると……言わぬが花

229:名無しさん@ピンキー
08/12/14 03:04:41 zFWjbETM
↓ハーレムスレにて
なんでこう…絶望スレの読み手って押し付けがましいんだろう

49 :名無しさん@ピンキー:2008/12/13(土) 00:14:34 ID:XX2q7ByF
>>26 GJ!!しかし、絶望先生は専用スレがあるのだから、そっちに投下したほうがいいのでは?
絶望先生のスレが荒れていて、とても投下できるような状況じゃないというのなら別だけどね。
しかも、「ハーレム物はだめです」とも書いていない。

いくら、「オリジナル・二次創作を問わず」とは言っても二次創作の場合は、該当スレがない時のことを言ってるんじゃないの?
もしかして、絶望先生のスレがないと思ってこっちのスレに投下したの?作者さん、もし見ていたら回答をお願いします。

58 :名無しさん@ピンキー:2008/12/13(土) 11:13:41 ID:XX2q7ByF
あっ、作者さん見ていてくれたんですね。ご意見どうも。ただ、自分では押し付けようとは思っていませんよ。
その証拠に疑問符がついてますよね?でも、押し付けていると感じさせてしまったのならごめんなさい。

ついでに質問ですが、「ハーレムスレには二次創作が足りない!」と思うようなあなたが、全盛期に比べ投下数が
あきらかに減っている絶望スレに投下しなかったのは何か理由があるのですか?もし投下する気がまったく無いにしても
「ハーレムスレにて投下しました」ぐらいの報告はあってもよかったのでは?

230:名無しさん@ピンキー
08/12/14 07:52:01 4ntYE2CV
これはちょっと痛いな

231:名無しさん@ピンキー
08/12/14 09:55:35 8xy6rSSc
読み手も痛いが作者も微妙に痛いな
スルースキルがないと見える
うちのスレで修行すればあっという間に身に付くのに

232:名無しさん@ピンキー
08/12/14 10:40:59 qMjZHuL+
なに言ってんのお前

233:名無しさん@ピンキー
08/12/14 11:44:25 WzxoKGs3
いつからここは他スレのアラをあげつらうような
スレになっちまったんだ…
みんな、あの頃のスレを思い出してくれ!
俺達はあんなにも輝いていたじゃないか!

234:名無しさん@ピンキー
08/12/14 20:37:43 HBPnz1bk
輝いてはいなかったと思う。
所詮日陰荘の住民。

235:名無しさん@ピンキー
08/12/14 22:18:44 m7CXh3yQ
来る者拒んで去る者止めず!

236:名無しさん@ピンキー
08/12/15 00:00:46 EpLrhn2r
そして誰もいなくなった

237:名無しさん@ピンキー
08/12/15 01:21:30 BNj6nGdZ
誰にとっても得しないことを頑張ってする人って
世の中沢山居るじゃないですか

238:名無しさん@ピンキー
08/12/15 01:40:00 Ut+mqSSt
まぁ職人なんてエロと萌え供給装置みたいなもんだしそこらへんわきまえとけってことだ

239:名無しさん@ピンキー
08/12/15 03:18:51 BNj6nGdZ
>>227

240:名無しさん@ピンキー
08/12/15 12:33:58 nnVAXhV6
もうこんなクソスレどうでもいいよ二度と投下しねえ

241:名無しさん@ピンキー
08/12/15 13:12:48 Vpw2Ro8t
誰かが止めてくれるの期待しながら、反面教師ぶって痛い子演じてるのも居るんだろうが
同じ事考えて別の奴がわざと痛いこと言って…て連鎖で余計荒れてくって感じだな、いつも
久米田の読者だしひねくれ者が多いんだろう

242:名無しさん@ピンキー
08/12/15 13:58:02 l7aAoM+1
SS投下されてもほとんど反応もせず過疎状態が続いてるのに
誰かが愚痴たれ始めたとたんにこんなに賑やかになるスレなんて
職人としては投下しがいがないんだろうなとは思う

243:名無しさん@ピンキー
08/12/15 14:07:35 gNp2fc1M
末期症状ですな

244:名無しさん@ピンキー
08/12/16 05:44:38 dWL0n2vz
SS書ける人間には萌えとエロを供給する義務がある
逆に書けない人間にはSS書くように催促する権利がある
口じゃ職人様とか持ち上げてるけど実際はそんな風に思ってます
なんてのこのスレは結構多そうだな

245:名無しさん@ピンキー
08/12/17 20:29:35 r/QLAetx
俺は普通に尊敬してるぜ
絶望スレの職人のSSはなかなか説得力がある

246:名無しさん@ピンキー
08/12/19 17:01:51 S960dKgO
いいからSSをくれ
別に愚痴はいらんから

247:名無しさん@ピンキー
08/12/19 17:43:03 0P7HY3Ow
絶望少女萌えは可符香がとんでもなく可愛く見えるレベルまで達すれば本物だと思う。

248:名無しさん@ピンキー
08/12/19 18:07:50 n1vD7cYI
誰にとっても得しないことを頑張ってする人って世の中沢山居るじゃないですか
エロと萌え供給装置みたいなもんだしそこらへんわきまえとけ
いいからSSをくれ

これが>>229で言われていた
絶望先生のスレが荒れていて、とても投下できるような状況じゃないってやつか

249:名無しさん@ピンキー
08/12/19 19:56:32 JaaXTm9+
エロ抜きなら書けそうだけど
万世橋マンには遠く及ばないだろうな

>>248
>>238は単に
職人が投下するのをわざわざ阻害するなんて誰にとっても(自分にとっても)得にならない
って意味合いだと思う
確かに捉え方によってはまあSS書く=無駄って取れなくもないけど
ちょいとネガティブ過ぎやしませんかね

250:名無しさん@ピンキー
08/12/19 19:57:47 JaaXTm9+
ポジティブ過ぎる人になってしまった
>>237の間違いね

251:名無しさん@ピンキー
08/12/19 21:41:30 n1vD7cYI
あの流れでこんな煽りっぽい言い方じゃ
職人(笑)の代わりなんかいくらでもいる、って意味に見えるがな

252:名無しさん@ピンキー
08/12/21 23:44:19 mNiJJQoL
もういいから萌えとズリネタを供給しろ

253:名無しさん@ピンキー
08/12/22 00:24:50 O+p86liA
>>238
>>246
>>252

工夫が無いな

254:名無しさん@ピンキー
08/12/22 03:37:28 UE9lq1TT
>>252
お前がこのスレにいる限り書いてやらん

255:名無しさん@ピンキー
08/12/22 19:17:47 wI4WLU6h
性欲処理うんたらって職人のこと?

256:糸色 望 ◆7ddpnnnyUk
08/12/23 05:58:33 4gwaLAFn
ズリネタ=トルコンがズルズルとすべっていますよ・・・。

黎明期のホンダマチックなどは、
変速1段・直結1段の簡単な構造の
オートマチックトランスミッションで、

時速60キロあたりまでトルコンのみで
引っ張っていたため、伝達効率が悪い。

257:266
08/12/23 07:37:04 y8RSMO+c
書いてきました。
先生×カフカが2本です。
一本目はエロ有りですが、本番ないです。
二本目は短いです。
それでは、いってみます。

258:266
08/12/23 07:38:08 y8RSMO+c
うっすらと目を開くと、見慣れた笑顔がそこにあった。
「先生、大丈夫ですか?」
目覚めたばかりの脳はぼんやりとしてその簡単な問いかけを理解することもできず、
何も答えることが出来ないままいつも通りの彼女の、風浦可符香の笑顔を見つめる。
頭の後ろに当たるやわらかな感触は、彼女の太もものものだ。
周囲にカーテンの引かれたベッド、お馴染みの学校の保健室の風景。
どうやら自分は今、保健室のベッドの上で、彼女の膝枕に頭を預けているようだ。
どうして、こんな所に自分はいるのだろう?
当然の疑問が頭に浮かぶ。
「私は……」
「みんな流石に反省してたみたいですよ。まさか倒れるなんて、私も思ってませんでしたから……」
そこでようやく彼は、糸色望はうっすらと記憶を取り戻し始める。
ひょんな事から自分の耳の後ろが敏感な部分である事が、彼の生徒達に知れ渡ってしまった。
それだけでも十分に恥ずかしかったのだけれど、彼のクラスの女子生徒、木津千里が同じ場所を指で突いたところ、
微妙にポイントを外して何やら経絡秘孔みたいな物を押されてしまい、望は人間のものとは思えないような苦悶の声と共に崩れ落ちた。
だが、事態はそれだけでは終わってくれなかった。
望が痛む体を何とか立ち上がらせられるようになった頃には、噂を聞きつけた彼のクラスの生徒達が集まっていた。
それからはもう、望はほとんど玩具のような扱いを受ける羽目になった。
彼に想いを寄せる女子生徒達は望の艶声聞きたさに、彼の耳の後ろを触りまくった。
さらには男子生徒達までが微妙に頬を染めながら、同じように耳の後ろを突いてくる始末。
生徒達に翻弄されて息も絶え絶えの状態の望の背後に、最後に立ったのはまたしても千里だった。
みんなが望に艶っぽい声を出させているのが羨ましかったのだろう。
彼女は今度こそはと期待を込めて再び望の耳の後ろをつっついた。
しかし……。
『ぐげぼらばぎぶが…ひでぶぅううううう……っ!!』
結果はまたしても大失敗。
生徒達に弄ばれた疲れのためか最初の時よりも激しい奇声を上げて、望は意識を失った。
「うぅ……ようやく思い出しましたよ。みんな好き勝手やってくれて……私を殺す気ですか…」
「あはは、みんな先生が大好きって事ですよ。だから、ちょっと大目に見てあげてください、先生」
「そういうあなただって結構な回数押してたじゃないですか…」
「あはは、だって先生の声可愛いから…」
そうだった。
クラス挙げての大陵辱劇。
今の自分がこんな有様なのは、何もかも彼の生徒達の悪ふざけのせいなのだ。
とはいえ、彼らにされるがままだった自分が恥ずかしくもあり、望は怒る気にもなれない。
ただ、災難が去ってくれた事に感謝し、深くため息をつくばかりである。
それに……
「……風浦さんの太もも、柔らかくて温かくて気持ちいいし……まあ、いいですか…」
「先生、何か言いました?」
頭上から問いかけられて、望は顔を真っ赤にする。
彼女に聞こえないよう、ほんの小さな声で呟いたのに。
というか、彼女の事だ。こちらが何を考えていたかなんて、お見通しに決まっている。
「………別になんでもありませんよ」
それでも、素知らぬ振りで望は答えてみたが、
「えへへ、先生に膝枕喜んでもらえて、私も嬉しいですよ」
ほらやっぱり。
見抜かれている、見透かされている。
なんだか無性に悔しくて、望は頬をぷーっと膨らませた。
その表情が可愛いと、可符香はさらにくすくすと笑う。
もうすっかり彼女のペースだ。
無論、それはいつもの事なのだけれど、散々生徒達に好き勝手にされた後で、さらに彼女にまで手玉に取られるのは望も面白くない。
(何とか、仕返しできないでしょうかね……)
子供じみた対抗心を燃やして、頭脳を回転させる望はある事を思いつく。
「風浦さん…」
「はい?」
望に名前を呼ばれて、可符香は彼の顔を覗き込むように前かがみになった。
そこで、すっ、と望の手の平が彼女の耳元に、気づかれぬようそっと忍び寄る。
やられっぱなしではたまらない。
彼女に、可符香に仕返しをするのだ。

259:266
08/12/23 07:39:03 y8RSMO+c
望と可符香は、教師と生徒という間柄を越えて、互いの想いを通じ合わせた仲だった。
恋人として付き合い始めてから日は浅いが、幾度かの夜を共に過ごして、望は可符香の敏感な部分を把握していた。
自分の手のひらで、指先で、彼女の繊細で過敏な性感に訴えかけ、彼女と共に高まる熱情に身を委ねるのは望にとって至上の喜びだった。
今、望の指先が向かう先、耳たぶのふちの辺りを甘噛みして舌先でなぞってやると、彼女はいつも切なげな声を漏らして身をくねらせた。
いつも自分を振り回してばかりいる彼女を、今日はこちらから驚かせてやろう。
彼女の死角からゆっくりと近づく望の指先は、ついに目的の場所にたどり着く。
可符香の耳たぶを絶妙な力加減でなぞり、そのまま首筋までつーっと指先を這わせる。
しかし……。
「先生、どうしたんですか?」
無反応。
(えっ!嘘でしょう!?)
思いがけない結果に驚愕する望は、もう一度、可符香の耳たぶに、首筋に刺激を与える。
だが……。
「ちょっと、先生、手遊びはいいですから、何が言いたいんですか?」
今度は明らかに自分の耳を触ってくる望の指先を視界に捉えて、可符香は言った。
(か、感じてない……でも、いつもなら…)
その場の雰囲気とか、お互いの気分やコンディションとか、そういった行為に関わる要素のいくつかが欠けている事を考えても、
望のいたずらに対して彼女が全くの無反応というのは、考えてもいなかった事態だった。
驚愕し、慌てふためく望の思考は当然の如くある可能性について考え始める。
(もしかして、私としている時の彼女の反応は全部…………演技だった!?)
一度思考がマイナス方向にベクトルを向けると、生来の気性も手伝って望の想像は悪い方にばかり加速していく。
幾つもの夜を共に過ごした喜びが、望だけの一方的な思い込みだったとすれば……。
(もしかして、そもそもの初めから彼女は私の事なんて……)
もはや望は顔面蒼白、冷や汗で全身がびっしょりと濡れて、まともな思考ができなくなっていく。
「先生?顔が真っ青ですよ、大丈夫ですか、先生?」
彼女の、可符香の呼び声が遠くに霞んで聞こえる。
(本当に、本当に好きだったんですけどね……そうですか…そうだったんですか……)
胸にぽっかりと穴が開いたような、そんな空虚な気持ちに支配されて、望の体から力が抜けていく。
「先生!!しっかりしてください、先生っ!!」
一方、さも望を心配するかのような呼びかけをしながら、可符香の内心は冷静だった。
(ほんと、先生は甘いなぁ…)
可符香は望の性格を熟知していた。
良く言えば純粋で素直、悪く言えば単純。
そんな彼の行動を、絶望教室の黒幕たる可符香が察知できない筈がない。
彼の性格ならば、九分九厘、自分がされたのと同じ事を彼女にも仕掛けてくる。
それに素直に応じてあげても良かったのだけれど、可符香は生来のいたずら好きだ。
望の行動の一枚上手を行って、彼を翻弄してやろうという思惑の方が強く働いた。
ポーカーフェイスは彼女の大の得意技。
それにいくら敏感な部分でも、ちょっと触られたぐらいならどうという事もない。
(先生ったら馬鹿だなぁ……私、好きでもない人とエッチな事したり、その上感じてる演技をするなんてしませんよ…)
なんて考えながら、可符香は内心でくすりと笑う。
今の望のうろたえ振りはそのまま可符香への愛情の裏返しだ。
(私、愛されてるんだなぁ……)
今にも泣き出しそうな望をよそに、可符香はすっかり幸せ気分に浸っていた。
ところが……。
(ふえ……っ!?)
不意に、思いがけない刺激が彼女を襲った。
さっきと同じ耳たぶに、さっき以上の繊細な手つきで望の指が触れ、絶妙な力加減でその部分を刺激したのだ。
その驚きと衝撃のあまりに、彼女は声を出す事さえ出来なかった。
しかし、それを望はまたしても無反応だったと解釈して、再度の愛撫を行う。

260:266
08/12/23 07:39:57 y8RSMO+c
(あ……あぁ………っ!!!!)
ついさっきまで演技を続けていた手前、次の刺激に対しても、可符香は声を上げる事が出来なかった。
表情もとりあえずは平静を装って、内心の動揺を押し隠す。
そんな彼女の前で、望はゆっくりと体を起こした。
「風浦さん…私は…私は……っ!!」
目がマジだ。
ここに至って可符香は事態を理解する。
(やばい…先生、追い詰めすぎちゃったかも……)
するり、静かに伸ばされた腕が可符香の体を抱き寄せる。
悲しげな瞳に見つめられ、両の腕で抱き寄せられて、可符香の心臓はバクバクとうるさいくらいに音を立てる。
それでも、彼女は今更、演技をやめる事が出来ない。
自分のいたずらで、そこまでの意図はなかったとはいえ、望を追い詰めてしまった後ろめたさ。
それに少しばかりの妙な意地が邪魔をして、彼女に素直な反応を許してくれない。
「……………」
彼女はただ沈黙し、いつも通りの笑顔を維持する。
望がもう少し冷静だったならば、彼女の頬に差したほのかな赤みに気付いたかもしれないが。
「風浦さんっ!!!」
「先生、顔怖いですよ?ほんとに、どうしちゃったんですか?」
強く強く呼びかける望の声と、素知らぬ振りの可符香の声。
一言弁解すればすぐに収まる、そんな程度のすれ違いが事態をあらぬ方向に転がしていく。
ただただ必死なばかりの望は、可符香の体に指を這わせ、彼の知る限りの彼女の弱点へと攻撃を試みる。
(ふ、風浦さんは多分私を嫌ってる……それなら、こんな行為許される筈がないのに……)
不安に揺らぐ思考の中でそんな事を考えながらも、望の指は止まらない。
かつて彼女とともに過ごした数々の夜の記憶を追い求めて、望は可符香の体を弄る。
一方の可符香の感情も複雑なものだった。
(今更、演技だったなんて言えない………)
いつもの柔軟な適応力は消え失せて、脱ぎ捨ててしまえばそれで全てが終わる筈の仮面をかぶり続ける。
しかも……。
(それに、先生だって私の気持ち、もう少し信用してくれてもいいのに……っ!!)
そんな小さな怒りが彼女をかつてないほど意固地にさせてしまっていた。
(私が先生を好きなんだって事、ちゃんと信じてくれないから……っ!!!)
その気持ちが、次々と押し寄せる刺激の波への防波堤となる。
腕の下側を、腋の下へと向けて一直線に望の指がなぞる。
力加減は触れるか触れないかほどの、じれったいぐらいの感触。
普段の可符香なら、思わず悩ましげな声を上げていただろうが……。
(……ぁ…ひぁ……あ……)
ゾクゾクとする刺激に声を上げそうになりながらも、外見ではあくまでもノーリアクション。
しかし、それは望のさらなる責めを誘発する。
腕をなぞった指先をざわめかせながら、次に向かうのは脇腹。
焦らすような微妙な力加減を維持しながら、望の手が何度も可符香の脇腹を上下する。
(……っく……でもっ…これぐらいぃ……っ!!)
反射的に身をくねらせそうになったのをぎりぎりで抑えて、可符香はひたすらに耐える。
「ちょっと、先生、くすぐったいですよぉ♪」
なんて、おどけた口調で答えて、あくまで動揺を見せようとしない。
だが、その減らず口を言う事に集中した意識の裏をかいて、望の右手は移動していた。
今度は背中だ。
また、つーっとじれったくなるぐらいの力加減で指先が背中をなぞる。
(………ひゃ…っ!!?)
この時、一瞬可符香の目が驚きに見開かれていたのだが、追い詰められた望は気付きもしない。
そのまま、指先をさまざまに使って、彼女の背中を愛撫する。
(…ひゃっ…ああっ……こ、こんな事…嫌いな人にさせるわけないのに…いい加減、先生気付いて…っ!!)
望の手のひら、指先に心も体も乱されながら、自分が仕掛けたいたずらは棚に上げて可符香は望の鈍感を恨む。
「…きゃっ…もう、先生、ほんとくすぐったいんですよぉ♪」
出てくる言葉は、暗に望を焦らせ、挑発するものばかりになってしまう。
それが事態をさらに泥沼化させる事など、すでに彼女の思考にはなかった。

261:266
08/12/23 07:40:40 y8RSMO+c
(…きゃうぅ…あああっ……こんな…焦らされてばかりいたら…私……っ!!)
今度は望の左の手の平が、大胆にも彼女の太ももの内側に伸びた。
決して秘めやかな場所へ立ち入る事はせず、敏感なももの内側の皮膚だけを徹底的に刺激する。
望の愛撫はいつも以上に繊細で、精密で、可符香の身も心も追い詰められるばかりなのだが
「だから先生、くすぐったいんですってばぁ…もうこれ、完全にセクハラですよ」
彼女はあくまでも意地を通して、平静な振りを保ち続ける。
実際のところ、既に彼女の頬は紅潮し、呼吸はだんだんと荒くなっていた。
可符香自身もそれを自覚していて、だからこそ、そんな自分の変化に気付かない望が憎らしくなってしまう。
(…あっ…やああっ…も…せんせ…だめ……っ!!)
今の可符香の体はぎりぎりまで張り詰めた糸も同然だった。
それを繋ぎ止めているのは、ひとえに彼女の望に対する健気な意地ばかり。
いまにも中の水が溢れ出そうな、なみなみと注がれたコップ。
決壊寸前のダム。
そんな彼女の状態を知る由もなく、望はさらなる行動に移る。
(あ…や…今、そこ、触られたら……)
望の両の手の平が、そっと彼女の胸に覆いかぶさる。
そして、分厚い冬服とブラの上からだというのに、彼の人差し指はその下でピンと張り詰めた彼女の胸の先のピンクの突起を捉える。
ぐん、と押し込まれた指にその突起は形を歪めさせられて、可符香の神経に電気が流れたような激感が襲い掛かる。
「………ぁ…」
ついに微かに漏れ出た声にも気付かず、望はさらに指の腹でそこをぐりぐりとこね回す。
ブラの裏地に擦られて、甘やかな刺激が可符香の胸いっぱいに広がり、そのまま全身を駆け巡る。
(…あ…も…だめぇ……っ!!)
限界だった。
最後に指先で先端を弾かれた刺激が、ついに可符香の強固な守りを突き崩す。
「………っああああああああああ!!!!!!」
我慢できずに声を上げた。
それに驚愕したのは、忍耐を続けてきた可符香よりも、むしろ望の方だった。
「…えっ?…あれ?…風浦さん……?」
そのままぐったりと自分に身を任せてへたり込んできた彼女の姿を見て、望はようやく気付き始める。
(わ、私は何かとんでもない間違いを……)
彼の思考は即座に事の真相には至らないまでも、自分の不安、彼女の好意が演技だったのではないかという考えが間違いだった事にたどり着く。
そして、その直後……。
「ひゃっ!!…ふ、風浦さん何をっ!?」
可符香の腕が望の体をぎゅーっと抱きしめた。
そして、ぽつりと一言。
「……せんせいの…ばかぁ…」
それは根競べに負けた可符香の、精一杯の望への抗議だった。
おぼろげに事態を理解し始めていた望は、申し訳なさと安堵が入り混じった声で
「すみませんでした……」
素直に謝った。
そんな望の体に、可符香はぎゅーっと顔を押し付けたまま、彼の耳の後ろにそっと手を伸ばし
「……あ…」
優しく触れた。
望はそんな彼女の手の平にそっと自分の手を重ねる。
ぬくもりを求め合うように、二人の手の平はそのまま指を絡ませ合う。
そして、残されたもう一本ずつの腕で、二人は互いの体を強く抱きしめた。
「本当にすみません…」
もう一度望が謝ると、可符香は答の代わりに握り合った手にきゅっと力を込めた。
全く、お互い何を必死になっていたのやら。
抱きしめ合うぬくもりに、二人はようやく心からの安堵を得たのであった。

262:266
08/12/23 07:44:42 y8RSMO+c
一本目はこれでお終いです。
それと、大事な注意点を忘れていました。
一本目の話はマガジン掲載の163話、まだコミックスに入ってない話が前提です。
いまさらの注意で申し訳ないです。
では、二本目、短くてエロがありません。
いってみます。

263:266
08/12/23 07:45:42 y8RSMO+c
さざ波ひとつない水鏡のような静寂の中に、私は足を踏み入れる。
見慣れた机、見慣れた椅子、見慣れた黒板。
いつも通りの教室が月の明かりに照らされて、いつもとは違う色の中に沈んでいる。
まるで忘れ去られた遺跡にいるような、不思議な気分。
カツコツ、と私が僅かに立てる足音も、水面に起こした波紋がいつかは拡散して消えるように、周囲の静寂に飲み込まれていく。
私は静かに椅子を動かして、いつもの自分の席につく。
「風浦さん」
「可符香ちゃん」
「あはは、可符香ちゃん」
「ねえ、風浦さん」
「よう、風浦」
「やあ、風浦さん」
目を閉じれば聞こえてくる。
この学校で、同じ時間を過ごす大切な友人達の呼び声。
そして、喧騒に満ちたこの場所の真ん中にいつもいるあの人の笑顔。
「先生……」
呟くと、あたたかな気持ちが胸に広がっていく。
自他共に超ポジティブと認める私にだって、胸が締め付けられるように苦しくて、眠れなくなる夜がある。
自分の背後にぽっかりと開いた穴の深さに、一人きりの布団の中で震えるしかない時がある。
でも、やっぱりポジティブシンキングが私の取り柄。
悪い事ばかり考えてしまう時には、楽しい場所に行けばいい。
誰もいないこの教室は、だけど、今の私の幸せの象徴で、中心だ。
ただこの教室に、この席に座っているだけで、私の胸の内に溢れ出てくる様々な想い。
それは今まで体験してきたみんなや先生との幸福な思い出であり、
これから待っているであろうみんなや先生と一緒の未来への予感だ。
ここにいて、ただその想いに身を委ねていれば、暗い気持ちなんてすぐにどこかに行ってしまう。
「……………」
だから、今私の頬を流れ落ちた熱い雫の感触は嘘っぱちで、
自分の体をぎゅっと抱きしめていなければどこかに吹き飛ばされてしまいそうなこの体の震えも当然偽物だ。
「大丈夫、私は幸せなんだから……」
ちょっと暗い気持ちになる事ぐらい、誰にでも良くある事。
それは私も例外じゃないけれど、それに囚われ過ぎるのは決して利口な事じゃない。
ポジティブに、明るく、楽しく。
そんな想いで心を満たしてくれるだけのものを、私は今の生活から得ているのだから。
「…あ…うあ……うわあああああああん……っ!!!」
大丈夫、これは、この涙は一時だけのもの。
大丈夫。
大丈夫。
大丈夫。
ぼろぼろと、顔を濡らす涙や鼻水、みっともなくてみんなには見せられないな。
だけど、時には素直に感情を吐き出すのも大切な事だと、どこかで聞いた事もある。
だからこれは大丈夫なんだ。
私の幸せに必要な、ごく当たり前の事。
だけど。
だけど、もし、吐き出しても吐き出しても止まらない涙が、今の私を形作る全てなのだとしたら……。
私の心を満たしているのは、このみっともなくて惨めな涙だけを満々と湛えた湖なのだとしたら……。
足元が崩れていくような、とてつもない恐怖が私を飲み込む。
「寒いな……」
私の心が涙の湖の底に沈んで消えていく。
そう思った、そんな時だった。
「…………あ…」
温かい手のひらが私の頬を拭って、私は顔を上げた。
「だ、だ、だ、大丈夫ですか!?」
耳に馴染んだ優しい声。
明らかに私を心配して動揺しているその声音のおかげで、その人が今、どんな表情をしているのか、
涙で霞んだ私の目でも、簡単に想像する事が出来る。
「どうしたんです、あなたは?こんな時間に学校で……」
言いながら、柔らかいハンカチが私の顔を拭う。

264:266
08/12/23 07:46:32 y8RSMO+c
そのハンカチを、まだもう少し涙の止まらない私に渡して、その人は私の顔を覗き込んだ。
「…せんせい……」
ようやく涙を拭い去った瞳で、私は先生の心配そうな顔を見つめる。
「本当にどうしたんです?何かあったんなら、私が相談に乗りますよ?」
ああ、やっぱりこの人は、先生は優しいな。
でも、その問いかけはちょっと答えるのが難しい。
「何でもないですよ、先生……」
「…な、何でもないのにあんなに泣く人がいますか!?」
ほら、本当の事を言ったのに信じてもらえない。
だから、私はいつもの笑顔をゆっくりと思い出しながら、こう答えるのだ。
「本当に何でもないんです。何でもないのに、こうなっちゃうから困ってるんです……」
私のその言葉に、先生はどうしても納得がいかないようで、でもどう言葉を返していいかわからなくて、結局辛そうに沈黙する。
だから、私はそんな先生を元気付けてあげたくて、いつものような軽い調子で話しかける。
「それより、これもいつもの私のいたずらかもしれませんよ。油断してていいんですか、先生?」
「教室に入ってきた私に気付かないぐらい本気で泣いてたのに、それはないでしょう?」
「気付いてないふりをしてたのかもしれませんよ?」
「それでも、泣いているあなたを放っておくより、こうした方が百万倍ましです」
生真面目に答えた先生のその言葉に、私の胸の奥が震えた。
「さあ、宿直室に行って何か甘くて温かいものでも飲みましょう」
そう言って、先生は私の肩を抱いて、ふらふらの私の体を支え起こす。
先生の腕の中、その温かさに包まれた私の瞳からは、完全に涙は消えていた。
たまらなく優しいぬくもりに包まれたこの場所で、私は再び思う。
先ほどまで頬を濡らした涙は、仮初めのものに過ぎないと強く確信する。
「私は時々不安になるんですよ。いつも明るく笑っているあなたの笑顔の影に、なんだかとても悲しい何かがよぎるような気がするんです」
だから、私は先生の心配そうなこんな言葉に、強い自信を持ってこう答えるのだ。
「いやだなぁ、先生。私は今、とっても幸せですよ」
なぜならば。
あなたが傍にいてくれるのなら、どんな恐怖も悲しみも、私に毛筋一本ほどの傷も負わせられないのだから。
あなたの傍にいる限り、私の胸の奥にはどんな強い風でも消せない、暖かな炎が宿り続けるのだから。あなたは知っていますか?
あなたがいる限り、私はこの先ずっとどんなものにだって負ける事は有り得ないんだって。
先生。
先生。
先生。
臆病な私の、素直に伝える事すら出来ないこの想いがある限り、私は絶対に幸福なんです。
「さあ、行きますよ」
私を支える先生の腕に、ぎゅっと力がこもるのを感じた。
その優しい感触に身を委ねて、先生と一緒に、私は宿直室に向かって歩き出した。

265:266
08/12/23 07:47:27 y8RSMO+c
これでお終いです。
失礼いたしました。

266:名無しさん@ピンキー
08/12/23 19:56:12 O4uuxh26
この空気の中投下してくれた>>266を俺はきっと忘れない
可符香好きなのでよかったよ、GJ!

267:名無しさん@ピンキー
08/12/23 22:13:47 eCOVABV0
ありがとう266
お前の男気に感動した!
いまからss作るぜ!

268:名無しさん@ピンキー
08/12/24 02:34:16 3mY7VIV7
流れ切って悪いんだけど
望が智恵先生とヤるために生徒達数人とHする話ってなかったっけ

269:名無しさん@ピンキー
08/12/24 09:40:59 3mYGWWZy
保管庫にある
「非はまた望」

270:名無しさん@ピンキー
08/12/24 20:04:12 HCyE3fe0
>>266GJ!
カフカせつなす

271:266
08/12/24 22:57:07 UNDVWqEs
また書いてきました。
エロじゃなくて申し訳ないですが、2のへのクリスマスの話です。
望カフ成分を含有しています。
それでは、いってみます。

272:266
08/12/24 22:57:55 UNDVWqEs
抜き足、差し足、気配を忍ばせて、人気のない廊下を望は進む。
目的地はもうすぐ目の前、ほとんどの電気が消されて真っ暗な学校の中で、唯一明かりの点いている場所。
彼の受け持つクラス、2のへの教室からは室内の煌々とした光が漏れて、暗い廊下を照らし出している。
そこから聞こえる、少年少女達の声。
本当に楽しそうなパーティーの喧騒。
その様子を伺いながら、望は一歩、また一歩と教室に近づいていく。
「べ、別に寂しいとかじゃないんですからねっ!ただ、何か問題があったら、やっぱり担任の私が責任を取らされるわけですから……」
誰に咎められたわけでもないのに、しきりに言い訳を口にする望。
教室の明かりを見つめる彼の眼差しには、明らかな羨望の色が含まれていた。
「ほんと、クリスマスとか興味ないんですから……私にとっては苦痛なだけなんですからっ!!」
そんな事を呟きながら、望はじりじりと教室に接近していく。
なんでこんな事をしているのやら、自分でも情けないぐらいだ。
望は教室へと歩を進めながら、今日の昼の出来事を思い出す。

「先生はクリスマスパーティー、参加しなくてもいいですよ」
にっこりと笑って、可符香が言った言葉の意味を、望は一瞬理解できなかった。
「はい?えっと、それはどういう…」
「先生ってクリスマスにトラウマがあるじゃないですか。だから、クリスマスパーティーに参加しなくていいって、そういう事です」
確かに可符香の言うとおり、望にとってクリスマスは素直に喜べるイベントではない。
彼の誕生日、11月4日から、赤ん坊が大きくなって母親のおなかから生まれてくるまでの十月十日を遡ると、ぴったりとクリスマスイブに重なる。
自分はクリスマスに浮かれた両親が勢いで作った子供ではないのか。
学生時代に友人にそう指摘されて以来、望はクリスマスを素直に楽しめなくなってしまった。
それは事実なのだけれど……。
「私たちがクリスマスに向けて準備しているのは先生も知ってると思いますけど、だからって気を使って無理に参加する必要なんて全然ないんです」
「え、ええ……それはわざわざお気遣いどうも……」
こうもはっきりと来なくていいなんて言われてしまうと、流石に辛くなってしまう。
彼のクラスの生徒達は年中行事などの際には望の所に押しかけて、わいわいと騒ぐのがお決まりとなっている。
それをいきなり、こんなに素っ気無くされてしまうと……
「会場にはこの教室を使うつもりです。もうちゃんと学校の許可も取ってありますから、先生は宿直室でのんびりしててください」
「そ、そうですか…でも、学校を使うのなら誰か監督する人がいないと…」
「それも大丈夫です。智恵先生も参加する予定になってますから」
そう言われると、もう望はぐうの音も出ない。
今年のクリスマスの集いに、望が介入する余地は全く無いという事だ。
「それじゃあ、私もみんなと一緒に買出しに行かなくちゃならないので…」
「あ、は、はい、気をつけて行くんですよ」
そして、用件を伝え終えた可符香はくるりと踵を返して、望の元から去っていった。
残された望の胸中には、なんとも釈然としない感情だけが残されていた。

終業式を終えた学校の廊下は昼間だというのに静かで、そこを歩く望にさらなる孤独感を募らせる。
「毎年ごねてましたからね、愛想を尽かされたという事でしょうか」
望がクリスマスのイベントを嫌がるのは、ほとんど毎年の風物詩になっていた。
そろそろ、生徒達もそんな望に飽き飽きしたのだろう。
今年は言われたとおりに静かにしていよう。
そう思って、望が宿直室の扉を開けると
ふわっ
香ばしい匂いが望の鼻腔をくすぐった。
「あ、先生、おかえりなさい」
宿直室の中、炊事スペースに立っていた霧が振り返って望に声をかけた。
どうやら料理の真っ最中らしいが、コンロにかけられた大なべは明らかに望や交達だけで食べるには大きすぎる。
「クリスマス用の料理を作ってるところだよ。パーティーにはみんなで料理を持ち寄るの……」
霧が嬉しそうに言ってから、急にハッとなった様子で
「あ、先生は参加しないんだったね………」
悲しそうにそんな事を言う。

273:266
08/12/24 23:00:02 UNDVWqEs
「い、いえ、別にそんな事は気にしなくていいんです。どうせ、私、クリスマスは苦手なんですから…」
「先生の分、ちゃんと置いていくから、きっと美味しいから、ちゃんと食べてね」
「ありがとうございます、小森さん…ところで、そういえば交の姿が見えないようですけど……」
どこにいるとも知れない兄から預かっている甥っ子の姿が見えない事に気づいて、望がたずねる。
「ああ、交君なら先生と入れ違いに教室へ行ったよ」
「教室へ?」
「うん、パーティーの飾りつけを手伝うって言ってた」
という事は、霧も交もクリスマスパーティーに参加するという事だ。
まあ、考えてみれば当然だろう。
特にまだ小さな交にとって、クリスマスは心待ちにしていたイベントのはずだ。
(仕方がありませんね。今夜は一人ぼっちですか…)
望は小さく、ため息をついた。

その後も、仕事の合間に校舎を歩いているときに、家庭科室で料理をしたり、玄関からツリーを運び入れる生徒達の姿を何度も目にした。
じわじわと望を蝕んでいく孤独感と寂寥感。
あまりにいたたまれなくて宿直室に戻ってみると、既にそこには霧の姿はなかった。
ちゃぶ台の上には、じっくり煮込まれたミネストローネと、ハンバーグのトマト煮込みがラップをかけられて置かれていた。
『温めて食べてください。先生を残してパーティーに行ってごめんなさい―霧』
置手紙を読むと、改めて一人ぼっちになった実感が湧いてくる。
「うう、寂しいです…孤独です……ああ、もう死んじゃおっかなぁ…」
そんな事を呟いても、かまってくれる人間は当然ゼロ。
望は一人むなしく部屋の隅で体育座りをする。
「ああ、でも……そうだ、一人いるじゃないですか、私の近くにいる人がまだ…」
と、そこで望はとある人物の事を思い出した。
「常月さーんっ!常月さーんっ!!」
常月まとい、望に四六時中付きまとう彼女と、この孤独な聖夜を耐え忍ぼう。
ところが……
「常月さん?いないんですかー?」
何度名前を呼んでも、待てど暮らせど返事が無い。
「まさか…彼女まで……」
常に彼女に監視されているような状況がかなりアレだった事は事実だけれど、何もこんな時にいなくならなくても……。
和やかな時間を提供してくれる、霧や交の姿も無く、ストーカー少女にまで見放されてしまった。
うら寂れた宿直室の片隅で、望はついに本当の一人ぼっちになってしまった。

というわけで、あまりの孤独感に耐えかねた望は、自分の心に何かと言い訳をしながら、静かにパーティー会場に忍び寄っていた。
早くあの教室に入ろう。
それで、クリスマスなんてやっぱり楽しくないとゴネて、生徒達にからかわれたりしよう。
さびしいのは、もう絶対に御免だった。
「さあ、行きますよ……」
望の手が教室の扉にかかる。
そのままゆっくりと扉を開こうとした、その時だった。
ガラララッ!!!!
「えっ!!?」
望が開くより早く、教室の扉が勢いよく開いた。
そして、仲から伸びたいくつもの手が、望を掴んだ。

274:266
08/12/24 23:01:37 UNDVWqEs
「うわわわわわわわっ!!!!」
抵抗する暇も無く教室に引きずり込まれ、尻餅をついた望が見たのは、彼のクラスの生徒達の満面の笑顔。
「メリークリスマス、先生っ!!」
その真ん中に立っていた少女、風浦可符香が明るい声で言った。
「こ、これは一体どういう……って、うわあっ!!」
訳がわからないまま問いかける望の声を無視して、誰かが望の左腕に縋り付いた。
「ああ、やっぱり私を追いかけて来てくれたんですね、先生……」
「つ、常月さんっ!?」
すると、今度は望の右腕を別の誰かがぐいっと引っ張る。
「違うよっ!先生は私のために来てくれたんだよっ!!!」
「小森さん、お、落ち着いてくださいっ!!」
火花をバチバチと散らす霧とまといの間に挟まれて、望はおろおろとうろたえる。
そんな3人を見ながらくすくすと楽しそうに笑う周囲の生徒達の様子に、望の混乱は深まるばかりだ。
「何なんですか、これは?一体何がどうなってるんですっ!?」
再び叫んだ望の疑問に答えてくれたのは藤吉晴美だった。
「つまり、先生は罠にはまったんですよ」
「罠?」
「そう、普通に誘ったんじゃ絶対に嫌がる先生を、クリスマスパーティーに参加したくなるようにする罠です」
そう言われて望は思い出す。
そう言えば、今日に限って霧も交も、まといさえもいなくなってしまった事。
さらに決定的なのは、昼間に言われたあの言葉。
『先生はクリスマスパーティー、参加しなくてもいいですよ』
今思い出してみれば、あそこで突き放されたのが、望の調子が狂い始めたそもそもの始まりのような気がする。
会場がわざわざ学校だったのも、望に準備の様子やパーティーの賑わいを見せるため、
さらには望が参加したくなった時、すぐに行ける場所という条件で選ばれたのだろう。
「というわけで、今回の件についてはみんなの共犯なんですけど、そもそものアイデアを出したのは…」
そう言って晴美が指し示した人物は…
「えへへ、ちゃんと先生が来てくれて良かったです」
にっこりと笑う、風浦可符香その人だった。
望はその可符香の笑顔に苦笑を返しながら立ち上がる。
「そういう事だったんですか……見事、やられちゃいましたね…」
全て彼の生徒達の手の平の上だったという事か。
散々、寂しい思いをさせられたせいで、クリスマスに対する鬱屈が気にならなくなっているのも、恐らくは計算の内なのだろう。
教室の中を見渡せば、クラスの普通の生徒達だけでなく、天下り様やら娘々、それにマリアの友人らしい褐色の肌の少女や、
2のほの万世橋わたる、ついでに景と命、望の二人の兄達までが参加している。
「それじゃあ、途中からの参加ですが、私も楽しませてもらいますよ」
望が恥ずかしそうにそう言うと、教室中が歓声に沸き上がる。
2のへのクリスマスパーティーはここからが本番だった。

2のへのクリスマスイブの大騒ぎは、望の途中参加によってさらに加速した。
特に望の周囲には彼を慕う女子生徒達が集まり、きゃあきゃあと悲鳴を上げながら望を玩具にしていた。
左右の腕を掴む霧とまといに加えて、背後からあびるが望の首に包帯を巻きつけてきて、望はほとんど身動きが取れなくなってしまった。
それを面白がって他の女子生徒、大草さんや晴美が突っつきまわす。
さらに、その輪に入ろうと奈美が近付いて来たのだが、
緑色に塗られオーナメントをぶら下げてっぺんに星を装備したクリスマス仕様のバットを振り上げて、
頬を真っ赤に染めて突っ込んでくる真夜に吹っ飛ばされてしまった。
鋭いスイングを食らって悲鳴を上げる望を見て、料理にむしゃぶりついていたマリアがけらけらと笑った。
別の一角ではこの機会に一儲けしてやろうと商売道具を持ち込んだ美子と翔子が、
自己流サンタスタイル(ゴーギャンの絵のような極彩色、膝からトナカイの頭が出てる)で決めた木野に
話しかけられてどう対処していいかわからずオロオロとしていた。
それを何故だか褒められたのだと勘違いした木野が、今度は愛のいる方に向かうと
「す、す、すみません~っ!!!」
と言いながら、彼女は卒倒してしまった。

275:266
08/12/24 23:03:06 UNDVWqEs
訳がわからずうろたえる木野だったが、倒れてきた愛の体をキャッチできたので、その辺はラッキーだったと言えた。
カエレはミニスカートのサンタルックだったのだが。
「なんで下に白タイツ穿いてんだよっ!義務を果たせよ、パンツッ!!!」
「だからパンツって言わないでよ、訴えるわよっ!!!」
衣服の一部仕様に激怒した臼井と激しく言い争っていた。
そんなカエレの白タイツの脚を眺めていた芳賀が、
「白タイツってのもオツなもんだと思うけどな…」
なんて事を呟いていた。
クリスマスに着想を得て話し始めた久藤准の今夜のお話は、いつもの泣ける話、悲しい話ではなく幸せで心温まるストーリー。
「もっと話してくれよ、久藤の兄ちゃんっ!!」
交にせっつかされて、准は次々とお話を紡ぎ出す。
周囲には、智恵先生や、芽留、万世橋、それにいつの間にか潜り込んでいた一旧など、何人もの人たちが彼の話に聞き入っていた。

「ねえ、そろそろケーキを切り分けた方がいいんじゃない?」
パーティーが盛り上がる中、そう言ってみんなに呼びかけたのは晴美だった。
「そうね、じゃあ私がきっちり全員平等になるよう切り分けて……」
「ひとつのケーキを全員の人数分で薄切りにするつもりなんでしょ、千里」
「うっ……だ、だったら他にどうやって分ければいいのよっ!!」
ケーキは各人が家で作ったり、ケーキ屋で買ってきたりしたものが十数個あった。
打ち合わせが不十分だったせいで、みんなが気を使いすぎてこの人数で食べるには少し多めのケーキが集まっていた。
「だからきっちり打ち合わせしなさいって言ったのに……」
「千里、この際それはどうでも良いんじゃないの?」
「何よ、晴美!どうでもいいわけないでしょっ!!」
「大事なのは、誰に食べてもらえるかじゃないの、千里?」
「えっ?」
晴美は睨み付けてくる千里ににこりと笑って
「千里もケーキ作ってきたんじゃない。どうせなら、先生に食べてもらいたいわよね?」
晴美の言った通り、千里は自分でケーキを作ってきていた。
もちろん、望にたっぷり食べてもらえるなら、それに越した事はないのだけれど……。
「で、でも、ちゃんときっちり分けないと…」
「いつもの押しの強さはどうしたのよ?せっかくのチャンスじゃない」
晴美に促されて、顔を赤く染めた千里がこっくりとうなずいた。
包丁片手に自作のケーキの前に立ち、臆病なぐらいの慎重さで望の分のケーキを切り分ける。
「それじゃあ、残りはこっちで切り分けとくから、行って来なよ、千里」
「あ、うん……」
ケーキを載せた皿を持って、がちがちに固まっている千里の肩を、晴美がぽんと押してやる。
千里はケーキを持って、女子達に弄ばれてズタボロの望のところへ。
「せ、先生、食べてください……」
ケーキ皿をぐいと望に差し出した。
「あ、ありがとうございます。それでは……」
ケーキを受け取った望は、千里の緊張が伝染したみたいにおずおずとフォークでケーキを一口分、口に運ぶ。
「どうですか?」
「はい、おいしいです。とっても美味しいですよ、木津さん」
望のその言葉を聞いて、千里の顔がぱっとほころぶ。
本当に嬉しそうな千里の顔を見ていると、望もなんだか気分が良かった。
「そのサンタのマジパン細工も自信作なんです、ちょっと食べてみてください」
「そうなんですか?では……」
にこにこ顔の千里に促されて、今度はサンタの砂糖菓子を口に運ぶ。
一口では食べきれないので、首のあたりでパキリと折ってしまう。
すると……

276:266
08/12/24 23:03:52 UNDVWqEs
「うわあああ、こ、これは何ですかっ!?」
悲鳴を上げた望に、千里は嬉しそうに笑って答える。
「どうですか、すごいでしょう?」
首のところで折れたサンタのマジパン細工、その断面から赤黒い何かが流れ出ている。
「ただのイチゴシロップだと実際とは色が違っちゃいますから、再現には苦労しました」
そのサンタは、体を流れる血液から、臓器や骨まで全て再現されていた。
血液がわりのシロップが染み出さないように、まず外側だけを作って、内側にうすくホワイトチョコをコーティングしたそうだ。
「そのホワイトチョコがいい感じに脂肪の雰囲気を再現して、予想以上の出来栄えでしょう?」
「そ、そ、そうですね……」
食べないとどんな事をされるかわからないので、望はなるべく断面を見ないようにしながらサンタの残りの部分を食べた。
口の中で噛み砕くと、内臓を再現したグミの感触がやけに生々しく口に残った。
「先生に満足してもらえて、私とっても嬉しいです」
「そ、そうですか、それはなによりです………」
ようやくサンタを飲み込んだ後では、甘くとろける筈の千里のケーキの味が何となく無味乾燥なものに望むには思えたのだった。

ようやく千里のケーキを食べ終えた望は、今度は糸色家の兄妹達、景、命、倫の集まる一角に向かった。
「ふわ~っ!!やっといらっしゃったのれすね、おにいさまぁ~」
「ちょ、倫、どうしたんですか……って、お酒臭い?」
いきなり妹に抱きつかれて、望はうろたえた。
しかもあからさまなまでの酒の臭い、景はともかくいい大人の命がついていながら、どうしてこんな有様に……。
「どういう事ですか、命兄さん、倫にお酒なんて飲ませてっ!!」
「ろうもこうも…倫がぁ…呑みたいっていうもんらからぁ……」
酔っ払ってやがる。
仕方なく景の方をにらむと、こちらもほろ酔い加減でニヤニヤと笑っていた。
「いや、最初は俺が呑ませたんだよ。ちょっとぐらいなら付き合ってもらってもいいかなって…」
「いいわけないでしょう、景兄さんっ!!」
倫に最初に酒を勧めたのは景だった。
無論、横で見ていた命は止めようとしたのだが……
『いいじゃありませんの、命お兄様…これくらい嗜み程度には呑めなくては糸色の女は務まりませんわ』
そう言って、くいっと一息に倫はグラスを空にしてしまった。
さらに……
『さ、命お兄様も一杯いかがですか?』
慣れない酒に頬を上気させ、上目遣いにこちらを見てくる倫の姿に、命は一発でやられてしまった。
『そ、そうか…すまないな』
なんて言いながら、愛しの妹が注いだ酒を飲み干した。
『うふふ、さすが命お兄様は大人ですわね…素敵な呑みっぷりでしたわ…』
そして、自分の方を見て微笑む倫に完全に骨抜きにされてしまった。
後はそのままズルズルと、倫も命も酒に飲まれていったわけだ。
「止めてくださいよ、景兄さんっ!!」
「そうは言っても、あんなに楽しそうに飲んでるのを邪魔したくなかったしな……」
一向に話が噛み合わない景との会話を続けていた望に、今度は命が抱きついてきた。
「望ぅ、クリスマス、楽しんでるかぁ?」
「ちょ、兄さんまで…やめてくださいよっ!!」
逃れようとじたばたともがく望だが、倫と命は望むの体にしっかりとしがみついて離れない。
「おにいさまは、じぶんがクリスマスにいきおいでつくられたこどもだから、クリスマスが苦手なんでしたわよね?」
「そうですよ、それがどうかしましたかっ!!?」
「悲しいぞ望、それがなければお前は生まれなかったというのに……」
「いや、命兄さん、そういう問題じゃないですから…」
「いやですわ、おにいさまがうまれてこないなんていやですわぁ~」
「私も嫌だぁ…望、そんな悲しい事言わないでくれぇ~」
変なスイッチが入ってしまったらしく、泣きながら縋り付いてくる兄と妹に望はもみくちゃにされる。
「望ぅ、大好きだぞぉ~」
「わたくしも…おにいさまのことすきぃ~」
「いい加減にしてください、酔っ払いども…景兄さんも笑ってないで助けてくださいよぉ…っ!!!」
ある意味、これ以上ないぐらい仲睦まじい弟妹たちの様子を見ながら、景は嬉しそうに笑って杯を傾けるのだった。



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