08/10/19 00:52:21 gimy0fYV
「はい、これ忘れ物」
「ああ、うん、ありがと……」
届けた書類を受け取るなり周りをキョロキョロ気にしながら、
「あ、もういいから、うん。悪かったな。気を付けて帰れよ」
と彼は目の前の彼女に告げると、足早にエレベーターへ向かった。
「……行ってらっしゃい」
その背中を見送りながら、半ば追い立てられるような気持ちで広いロビーを後にする。
外に出るとさっきまでの緊張感が嘘みたいに引いていき、ほうっと息を付いた。それと同時に
少しだけ胸の奥から複雑な寂しさとも悲しさとも言い切れないような気持ちがじわじわと
こみ上げてきて、ちょっとだけ泣きたくなった。
用件を告げたときの受付の女性とのやり取りや、周りの視線。それらは皆思い過ごしかも
しれない。でも自分を見つけた時の肝心の彼の態度―。
「私、何かまずい事言ったりしたのかな?」
数分前とは違い重く沈んでゆく気持ちに、どうしようもなく瞳を伏せる。
一方彼はこっそりと出て行く彼女をエレベーター前の柱の陰から見ていた。
「俺って何でこうなのかなぁ……」
心配そうに、申し訳なさそうに。
立ち去ってゆく彼の妻の姿を。
彼らが結婚するにはちょっと普通でない道程があった。
歳は10歳違う。互いに両親や兄弟は亡く2人きり、結婚する前から一緒に暮らしたりもしていた。
その期間は約7年間、その後彼の転職により1年間の遠距離恋愛を経て先月結婚したばかり。
……とまあここまでならそれ程変わった経緯ではないと思える。が、この2人の場合夫の
八神伊知朗(やがみいちろう)が28歳、妻の香子(かこ)は高校を卒業したばかりの18歳。
……つまり10歳から同居していた事になる。
それには少し複雑な事情があるのだ。
香子の母親が事故死し、身よりの居ない彼女を伊知朗が引き取った。しばらくは彼の母親と
3人で暮らしていたが、香子が14歳の時にその母も病死してしまい、それからは2人はまるで
兄妹のように暮らし、彼は彼女の保護者のつもりで育ててきたのだ。邪な気持ちは無かった。
だが、いつの間にか気が付けば惹かれ合い、様々な葛藤の末2人は結ばれる道を選んだのだった。