08/01/03 18:49:55 Bb9LwXWA
>>135の続き
重苦しく気まずい沈黙が浴室を覆った。
何とかしてこの嫌な空気を払拭しなければと焦るが、何をしても空回りしてしまいそうで、それが恐
ろしかった。
お嬢には、誓って嘘は言ってない。だから、堂々としていれば良い。しかし、どうしても後ろめたい思
いがつきまとう。それが私を、ひどく臆病にしていた。いつだって冷静沈着でいられる自信はある。で
もお嬢絡みのことになると、その自信は雲散霧消してしまう。
先に動いたのは、お嬢の方だった。そのまま何も言わず立ち上がり桶で湯を掬い、身体の泡を洗い
流す。黙ったままでいるときのお嬢を見ていると、妙な不安に掻き立てられる。その後に大抵、突拍子
も無い行動に出られるからだ。私は嫌な予感がしていた。
そして、それは的中した。
クルリとこちらを振り返った時のお嬢は、普段通りのにこやかな笑みを浮かべて、こう仰った。
「さあ、今度は私が沙羅の背中を流してあげよう!」
「え……ちょ……そんな、結構です。自分でやれますから」
「いーから、いーから。おねーさんに、任せなさい♪」
「同い年じゃないですか!」
お嬢が、一度こうと決めたらテコでも動かない。結局、使用人の娘が雇い主の一人娘に背中を流して
もらっているという、母が知ったら卒倒しそうな光景が繰り広げられていた。
「どっか、痒いところはございまして?」
「……いえ、大丈夫です……」
もう緊張して、それ処じゃない。一体、何故こんなことに。
仕方が無い。諦めて成り行きに任せることにした。状況が状況であるが、やはり背中を流してもらうと
いうのは気持ちがいい。日頃の部活に疲れ、適度に温まった身体。いつしか私は半分、夢うつつの中
に身を浸していた。
あれは……中学一年の夏休み。バレーボール部の練習に向かう途中の出来事。暑い日がずっと続い
ていて、その日も早朝だというのにすでにジリジリと日差しの照りつける真夏日の様相を呈していた。
そこで私は初めて見た。お嬢が発作に襲われる瞬間を。隣にいたはずのお嬢の姿が消え、後ろを振り
返るとお嬢が道上に蹲っていた。慌てて駆け寄ると顔色は真っ青で激しく咳き込んでいた。これまでは
何かしら予兆めいたものがあったらしく体調が悪くなると事前にかかりつけの病院に行ったり、床に臥
せられるようにされていた。今回はお嬢にとっても不意打ちの出来事だったようだ。
(何とかしなきゃ……)
だが、一体どうすれば? 早朝ということで周囲には誰もいない。私は完全なパニックに陥っていた。足
が竦んで動けず、声も出ない。ただ、呆然と見ていた。太陽のように輝くお嬢の顔が苦悶に歪むのを、歌
うように軽やかな声を発するお嬢の口から獣のような呻き声が漏れるのを。何にも出来ないまま、ただ見ていた。
(このままじゃ……お嬢……死……)
そこでやっと足が動くようになった。私は走った。
(誰かに知らせないと!)
犬神家まで戻り、私の泣き声に驚いて飛び出してきた家人に事情を説明し、緊張の糸がプツリと切れてし
まい、私は気を失った。
夢を見た。
『何故、私を一人にしたの? 何故、傍にいてくれなかったの? あんなに苦しかったのに! あんなに心
細かったのに!』
お嬢の批難が、私の心に突き刺さる。
『親友だと……信じていたのに!』
悲鳴を上げて飛び起きた。全身汗まみれで、蒸し暑い夜だというのに震えが止まらない。夢。だけど、ただ
の夢じゃない。きっと、お嬢もそう感じているに違いない。
あの時私は携帯を持っていた。お嬢の傍を離れる必要は無かった。その場で家になり病院になりに連絡す
ればいいだけの話だった。私は怖かった。怖くて怖くて仕方なかった。目の前で苦しみもがくお嬢が。それを
何も出来ない呆然と見ていることしか出来ない自分が。
……だから、逃げ出した……親友なのに。
次の日、病院へ見舞いに行った。
(一体、どの面下げて逢いに行くつもりなのか……)