08/04/09 11:30:33 ihMZPdML
ほしゅ
201:名無しさん@ピンキー
08/04/10 18:08:05 CvoKPykK
過疎り杉ワロタ
202:月下奇人
08/04/15 22:36:37 5yECaMUV
夏の夕暮れ。
夕日が赤く照らす中、曲がりくねった細い山道を、ぼくの車は静かに走り抜けていく。
まったく静かなものだ。
標識のない分かれ道へハンドルを切ってから、かれこれ一時間。一台の車にも出くわさない。
助手席の郁子は、さっきからずっと大人しい。
川遊びの疲れもあるだろう。だが勘の鋭い彼女は、きっと気付いているのに違いない。
ぼくの胸に秘めた、この、熱い思いを―――。
夜見島事件から、一年の時が過ぎようとしていた。
あの怖ろしい無人島で、ぼくと郁子はともに戦い、すべての怪異を収束させ、奇跡の生還を果たした。
いにしえの闇の世界から、ぼくらの世界を侵略しようと画策していた異形の者たち。
ぼくと郁子がその謀略をうち砕き、やつらを倒して世界を救った―
などということに気付いている者は、当然、誰もいない。
あの事件のことは、“自衛隊の訓練ヘリ消失事件”として、僅かな期間、世間の関心を引いたものの、
マスコミの垂れ流す膨大な情報の波に埋もれ、すぐに忘れ去られた。
だが、夜見島に興味を抱いているオカルトマニア達からすれば、また話は別だった。
三十年前の全島民失踪事件、二十年前の客船消失事件など、
過去に数々の怪事件の舞台となっている夜見島。
近隣からは『忌み島』『黄泉島』などと呼ばれる呪われた島である夜見島の、新たな怪異。
流行作家・三上脩の失踪とも絡み、この事件のことは、ネット上で大いに話題になったし、
オカルト専門誌等においても、大きく取り上げられた。
当然、ぼくが編集部員として所属する超科学雑誌、アトランティスでも―――。
夜見島から救出されたのち、数日間の入院を経て職場復帰したぼくは、
すぐにあの事件のことを記事に起こした。
ぼくとしては、あまり現実離れしないようにと腐心して書いたつもりだったが、
それでもまだ荒唐無稽に偏り過ぎていたらしい。
デスクからは「うちはカストリじゃねえんだぞ」と怒られてしまい、
化け物たちとの戦いのくだりなんかは、編集長をして「おまえ漫画原作やってみるか?」
と、言わしめるほど、嫌な意味で面白い出来になってしまっていたようだ。
それでも、郁子がぼくの落としたデジカメを拾っていてくれたおかげで、証拠資料は揃っていたし、
なにしろあの事件の当事者が書いたものだということで、
ぼくの記事は、ほぼそのままの形で、アトランティスに掲載された。
初めて一から企画し、自分の力でまとめ上げた、ぼくの仕事。
この仕事を境に、ぼくはようやく“バイトあがりの編集見習い”から脱し、
一人前の編集者として、周囲から認めてもらえるようになれたのだ。
もちろん、編集部で最年少のぼくは、まだまだ坊や扱いされているのには変わりないのだが。
でもあれ以来、単なる使いぱしり以上の仕事を任される割合は確実に増えたし、
なにより、ぼく中で仕事に対する自信がついたのは、かけがえのない収穫だったと思う。
その意味では、あの怖ろしい、悪夢の一夜は無駄ではなかったのだ。
そして―夜見島事件がぼくにもたらした収穫は、もう一つあった。
それは今、ぼくの隣に座っている女の子―木船郁子との出逢いである。
郁子は助手席の窓にもたれ、流れる景色に眼をやっているようだ。
そのしどけない姿態はどこか物憂げで、
ぼくは気の強い彼女にいつになく女を感じ、少しばかり、ドギマギしてしまう。
203:月下奇人
08/04/15 22:37:27 5yECaMUV
郁子とは、夜見島へ向かう途中、島の近くの漁港で出逢った。
漁師の手伝いという、若い女の子に似つかわしくない仕事に就いていた郁子の第一印象は、
『ぶっきらぼうで取っつきにくい人』
つまり、他の漁師さんたち同じような印象だった。
そんな口が悪くよそよそしい彼女と、のちに運命共同体になるなんてことは、
最初に逢った時点では考えもしなかったのに―世の中、何が起こるか判らないものだ。
郁子は、生まれながらに超常の力をもっていた。
他者の精神に感応する能力―いわゆる、テレパスなのだ。
怪現象のさなかにあった夜見島で、郁子の能力は最大限に増幅した。
それまでは単に、時折人の心が読める。という程度のものであったのが、
夜見島にいる間は、他者の精神を乗っ取り、一時的にその動きを止めたり、
思い通りに操ったり出来るほどにまでなっていた。
島の地底で、ぼくが絶体絶命の危機に瀕していた時、彼女はその力でぼくを救ってくれたのだ。
もっとも、余りに能力を酷使し過ぎた反動からか、
島から戻って以来、人の心も満足に読めなくなってしまった。と彼女は笑ったが――。
夜見島から生還した後も、郁子はぼくの救いになってくれた。
島で遭遇した恐怖体験の数々―ぼくは帰ってからも、たびたびそのPTSDに苦しめられた。
そんな時、いつもぼくの苦痛をやわらげてくれたのは、郁子の存在だった。
同じ恐怖を体験し、共にそれを乗り越えてきた仲間。
彼女に逢って話をすることにより、ぼくは恐怖心を克服することができたのだ。
幸い、漁港のバイトを辞めた郁子は、ぼくの会社近くの二十四時間喫茶店で、
ウェイトレスとして働いていたので、仕事が忙しい時でも比較的ひんぱんに逢うことができた。
きっと彼女も、ぼくと同じ気持ちだったのだと思う。
彼女もぼくと一緒にいることで、辛い記憶に耐えていたのだろう。
そうでなければぼくの会社の近くに職を求めたり、ぼくのアパートから歩いて行けるほどの近所に、
わざわざ越してきたりはしないはずだ。
そう考えると、いつも気丈に振舞っている郁子のことがいじらしく思えてくる。
いつもいつも、部屋が汚いとか、格好がだらしないとか、話がくどくてウザイとか、
眼鏡が胡散臭いとか、ボロカスに言ってくるキツイ性格も、なんだか可愛い気がしてしまう。
いつしか郁子は、ぼくの中で、かけがえのない大きな存在になっていた。
そしてついに―ぼくは一大決心をした。
計画は、数ヶ月単位で進められた。
ボーナスを頭金にローンを組んで新車を購入し、郁子のスケジュールに合わせて有給も取った。
「せっかく車を買ったんだから、どこか景色のいい処にドライブに行こう」
理由づけも、完璧だ。
そして今日。
この山を下って少し行けば、温泉地に出る。それは事前に調査済みだ。
そこの雰囲気のいいペンションかなんかで食事を取る。
せっかくだから。と温泉に入ったりしている内に、帰るにはもう遅い時間になっているだろう。
そうしたらもう―泊まっていくしかない。という流れになって、そ、それで―――。
こんなことを考えていると、なんだか自分が酷くサモシイ男のように思えて鬱になる。
だがしかしそれでも。
郁子と―そういう関係になるための方法は、これ以外にないのだから仕方が無い。
お互い何かと忙しい生活の中、ぼくらの間柄は“仲のいい友人”レベルに留まったままだった。
204:月下奇人
08/04/15 22:38:14 5yECaMUV
そう、つまりぼくたちはまだ―何もしていないのだ。
これは、ちょっと問題なんじゃないだろうか?
若くて健康で、互いを憎からず思っている(……筈の)男女が、だ。
もう出逢って一年にもなるというのに、キスの一つもしていないなんて!
きょうび、中坊のガキどもだって、もうちょっとその―やることはやってるぞ!!
まあそんな訳で。
ぼくは固い決意を胸に、今日のドライブを決行したのだった。
“昼の部”は滞りなく進行し、時刻はもう夕暮れ時。
いよいよこれからが本番だ。
ペンションで湯に浸かった後、郁子を連れてテラスに出よう。
そして満天の星空の下、ぼくは、彼女に想いを告げる。
彼女もきっと―ぼくの気持ちを、受け入れてくれるはずだ。
郁子の潤んだ瞳がぼくを見上げて―ぼくらは、その場で口づけを交わすだろう。
永い口づけの後、ぼくらは寄り添うように部屋へ行き、そして―そして―――。
――パーペキじゃないか……。
ぼくは、自分の立てた計画のパーフェクト具合に酔い痴れ、一人静かに頷いた。
筋書きは出来上がっている。あとは―行動に移すのみ。そうだ。もうやるしかないんだ。
今夜は――決める。
ぼくは力強い決意を込めて、ハンドルを切った。
「うぁぎゃあ?!!」
タイヤが軋み、素っ頓狂な悲鳴をあげて郁子が倒れこんできた。
―ちょっと、決意をハンドルに込め過ぎたみたいだ。
「あれ……ここどの辺?」
ゴシゴシと眼をこすりながら、郁子がかすれ声で訊いてきた。
どうやら、ずっと居眠りをしていたらしい。そりゃ大人しくしてる訳だよ――。
「脇道に入ったんだ。こっちの方が、早く着くと思って……」
「ふうん……なんだか淋しい道ねぇ」
郁子は、しきりに辺りを見廻している。
「郁子、何見てるの?」
郁子の目線は、道に沿って続く雑木林に向けられている。
「うん、あの赤い花。さっきからあの花ばかり眼につくの」
郁子の指さす先には、風に揺れる赤い花が、かたまりとなって点々と続いていた。
「あれって、彼岸花かしら?」
「いや。あれは、月下奇人」
「ゲッカキジン? ……月下美人じゃなくって?」
「ああ。月下美人は白い花だろう? あれは、違う花なんだ。
この辺りにしか生息しない、珍しい植物なんだよ」
「へえ」
郁子は、感心したように頷きながら、道ばたの赤い花々を眼で追った。
ぼくはふと、月下奇人にまつわる話を郁子に聞かせる気になった。
「あの花は……羽生蛇村っていう、以前この近くにあった小さな山村が原産地だったんだ」
「はにゅうだむら? その名前、どっかで聞いたような」
「羽生蛇村は、三年前の土砂災害で全滅してしまったんだ。
当時そのニュースは大々的に取り上げられてたから、それで覚えてるんだろう。
住民は、たった一人の女子小学生を除き、全員行方不明になった……」
「あー、思い出した! 確か土砂崩れが起こって三日後に、女の子一人が無傷で見付かったって……
自衛隊のヘリにぶら下がって助けられてる映像、テレビで見た……あれって、この近くだったの?」
「そう」
205:月下奇人
08/04/15 22:38:57 5yECaMUV
ぼくは、前を向いたまま返事をした。
「羽生蛇村は昔から土砂災害や水害に見舞われやすい土地だった……
そして、それらの災害が起こる日の夜……月下奇人の花は開く、と、言われていたそうだ」
郁子は、眼を丸くした。
「じゃあ、三年前に土砂災害が起こった時にも、月下奇人は咲いていたの?」
「言い伝えが本当なら、そういうことになるね……さらに、こんな話もある」
ぼくは軽く咳払いをする。郁子は、ちょっと居住まいを直してぼくの方を向いた。
「羽生蛇村の伝承によると、月下奇人は元々、常世……つまり、あの世の花なんだそうだ。
現世にある月下奇人の花は、その生涯で一度きりしか咲くことが出来ない。
そして、夜に咲いたその花は、夜明けを待たずに萎んでしまう。
だがその花が開く処を見た者は、花が萎む前に常世に招かれてしまう。
そんな話が、村ではまことしやかに言い伝えられていたんだ」
郁子は、黙ってぼくの話に耳を傾けている。
宵闇が深まっていく中、車の音と、ぼくの声だけが暗い山道に吸い込まれてゆく。
「羽生蛇村は自然災害の他に、人の消失事件も多い土地だった。いわゆる、神隠しと言うやつだ。
ある日突然、なんの理由もないのに人が消えてしまう。
消えた人々のほとんどは二度と帰って来ないが……まれに、帰って来る事もあったのだそうだ。
数日、数ヶ月……或いは、数十年もの時を経て、突然に」
「……」
「……帰ってきた人たちはみんな憔悴し、すぐに死んでしまうか、
運良く生き続けることが出来たとしても、精神に異常をきたしてしまい、
病院で余生を過ごすしかなかった。当然、まともに話なんか出来る状態ではない。だけど」
小雨がぱらついて来た。
ぼくは一旦言葉を切って、ワイパーのスイッチを入れる。そしてまた、話を続けた。
「だけど帰ってきた人たちはみんな、一様に同じ言葉を口にした……
すなわち、“ぱらいぞうにまうづ”と」
「ぱらい、ぞうに……?」
「ぱらいぞうにまうづ。これは、月下奇人の旧い呼び名なんだ」
「まあ」
「ここから推測出来るのは、神隠しに遭った人々が、月下奇人を見ていた可能性が大きいってこと。
……実際、帰ってきた時に、月下奇人の花を手に握り締めていた人もいたらしい」
「なんか……怖い花なんだね」
郁子は、恐々と肩をすくめて言った。
「そんないわくのある花を見て……私たちも、神隠しに遭っちゃったりして」
「大丈夫だよ。だってよく見てみな。花は咲いてないだろう? あの赤いのは、全部蕾だ。
だから大丈夫」
「でも」
「大丈夫だって! 仮に花が咲いたって、大丈夫だよ。だっておれ達は」
一年前に、あの島から帰って来られたんだから。と、ぼくは言いかけて―やめた。
もうあの夜見島事件は、過去のことだ。
いつまでも囚われ続けるのはよくない。そう。ぼくらはもっと、未来に眼を向けるべきなんだ。
差し当たっては―今夜。これから始まる、郁子と、ぼくの―――。
「ねえ、ところでさ。道……本当にこっちで大丈夫?」
郁子の言葉が、ぼくの思考を容赦なく現実に引き戻した。
言われてみれば変な感じもする。
もう随分走っているし、いい加減、麓の灯りが見えてもいいはずなのに―――。
「もしかして守。道に迷ってない?」
「いや、そんな訳ないよ。ずっと一本道なんだから」
206:月下奇人
08/04/15 22:39:42 5yECaMUV
そうだ。道は間違っていないと思う。なのにこの胸騒ぎは何なんだろう?
雨音が響く。降りが本格的になってきたようだ。
視界の端に、月下奇人の赤い色がちらちらと入ってくる。
――なんだか、ずっと同じ場所を走っているみたいだ……。
不吉な予感を振り払うように、ぼくは、アクセルを踏み込んだ。
その時突然、黒い空が閃き、辺りに雷鳴が轟いた。
「ひゃあっ!」
郁子がビクリと肩を震わせた。
雨だけじゃなく、雷まで。
――これじゃあ、満天の星空の下で告白、というシナリオは没にせざるを得ないな。
などと思いつつ、ぼくは、さりげなく郁子の肩を抱く。
「大丈夫だよ。ただの雷だ」
「う、うん……でも、結構近くに落ちたみたい」
タンクトップからはみ出た郁子の小さな肩は、恐怖心からか、小刻みに震えていた。
ぼくはその、なめらかな肌の感触を指先で味わいながら、二の腕の方までゆっくりと撫で摩ってみる。
郁子の抵抗は、なかった。
それどころか郁子は、ぼくに身を預けるように、気持ち頭をもたせ掛けてきた。
――こ、これは……!
前に男性向け雑誌で読んだことがある。こういう場面でこの反応は―。
いわゆるひとつの、OKサインというやつではないか?!
「い、郁子……?」
ぼくは、緊張で咽喉に絡まる声で、郁子に呼びかけた。
郁子は何も言わない。だがその代わり―。
寄り添ったまま、ハンドルを握るぼくの膝に、そっと指を乗せてきた。
もう間違いない。
郁子はぼくと―同じ気持ちになっている。
ぼくの心臓は早鐘を打ち、息苦しいような気持ちになった。
降りしきる雨はいっそうの激しさを増している。
雨と、深い緑に閉ざされた無人の山道。
小さな密室の箱の中、この世界に居るのは、ぼくと、郁子の二人きり―――。
このチャンスを逃す手は無い。ここが決断の為所だろう。
ぼくは今、この場で、郁子を――ぼくのものにする決意をした。
まずは、車を停めなければ。
ぼくは車を路肩に寄せ、ブレーキを踏んだ―――が。
「あれっ?」
ブレーキペダルは、スカッと床に着いた。
更に何度か踏み直してみる。やっぱり駄目だ。なんの反応もない。
雨に濡れる山道を、車はどんどんスピードを増して下ってゆく。
「守? どうしたの?」
異変に気付き、郁子が顔を上げて問い掛けてくる。
「ブレーキが……効かない!」
車は、ジェットコースターのように加速してゆく。
フロントガラスに当たる雨粒が視界を奪い、滑る路面に、ハンドルが取られそうになる。
郁子が悲鳴を上げた。
眼の前に断崖が迫っている。
ぼくはクラッチを切り、ギアを落として減速する。
前のめりになりながらも、急ハンドルを切ってカーブを曲がりきろうとする―――。
207:月下奇人
08/04/15 22:40:28 5yECaMUV
車は、崖の縁を横滑りしながらカーブを曲がった。
――なんとか墜落はまぬがれた。
だがホッとしたのも束の間、突然、真正面から対向車が現れた。
「駄目だ、ぶつかるっ!!」
ぼくは再び、急ハンドルを切った。
対向車のヘッドライトが真っ白にぼくらを包み、そして―――。
――気が付くと、車は何事もなかったかのように停止していた。
ぼくらは辺りを見廻す。
たった今追突しそうになった対向車は、影も形もなく消え去っていた。
「……どういうこと?」
郁子は、呆然とした様子で言った。
ぼくにだって判りはしない。ぼくら二人は、狐につままれた気持ちで顔を見合わせた。
――今起こったことは、全部、錯覚なのか?
なんだか頭がくらくらする。その時ふと、窓の外に白い人影を見た。
「きゃっ、守っ! アレ……」
「……いっ今の、郁子も見たのか?!」
外を通りかかった人影は、若い女だった。それも―一糸まとわぬ姿の、全裸の女。
長い黒髪がたなびいて―――。
女は、月下奇人の赤い花をかき分け、雑木林の中に消えて行った。
「あの女……」
なんで、こんな場所に――。ぼくは居ても立ってもいられず、雨の中、車を飛び出した。
「守、待って!」
すぐに郁子が追ってきた。冷たい雨が、激しくぼくらを打ちつける。
ぼくは胸ポケットからL字ライトを取り出し、女の消えた辺りを照らしてみた。
夜見島事件以来、ぼくは、どこへ行くにもライトを手放せないようになっていた。
このL字ライトは、東京に戻ってから新たに買い求めたものの一つ。
あれから様々な種類のライトを買ったが、これが一番使い勝手が良かった。
点けたまま胸ポケットに入れておけるから、手で持つ必要がないのだ。
両手が空いていた方が、行動に制限がなくなるからいい。
敵に対抗するためにも、この方が便利だ―――。
雑木林の中には非常に判りにくい細い道が、頼りなげに続いているようだった。
それはほとんど獣道に近い代物だ。
「ねえ、行くの?」
郁子が不安そうに訊いてきた。
彼女のすがるような眼を見ていると、ぼくの気持ちは揺らいだ。でも――。
「ちょっと確かめてみるだけだよ。さっきの女が何だったのか……
だってうやむやにしたままだと、余計に怖いだろ?」
「でも」
郁子は、腕を掴んでぼくを引き留めようとする。
「ねえ……やっぱり、やめとこ? 私、こっちに行きたくないの。なんか、嫌な感じがして」
郁子は、蒼ざめた顔で獣道を見やった。
こういう時、超常能力を持つ郁子の勘は確かだ。
――きっと、本当に行かない方がいいんだろうな……。
ぼくは後ろ髪を引かれる思いだったけれど、郁子の忠告を聞き入れ、車に戻ることにした。
208:月下奇人
08/04/15 22:41:04 5yECaMUV
ますます激しい雨の中、真っ黒な低い雲が光り、獣のような吼声を轟かせている。
「やばいな、近くに落ちそうだ」
ぼくがそう言った途端―――。
「守! 危ないっ!!」
郁子が、後ろからぼくを引っ張った。
地べたにひっくり返るぼくの眼が、まばゆい閃光に眩む。
次の瞬間、ぼくの躰を、凄まじい轟音が貫いた。
耳をつんざくような落雷の音に包まれて、
ぼくは一瞬、自分が雷に打たれたような錯覚を起こしていた。
「守、大丈夫? まもるっ?!」
呆然と座り込んだぼくは、郁子に揺さぶられて、ようやく我を取り戻した。
雷に打たれたのは、ぼくではなく、ぼくの眼の前にある、ぼくの車だった。
ついこの間買ったばかりの、ぼくの新車。
向こう三年分のローンを残し、今、炎を噴き上げ無残な鉄屑になろうとしている―――。
「まあ……そう気を落とさないで」
郁子は、ガックリ落としたぼくの肩をぽんぽんと叩いた。
「しっかりしなよぉ! 命が助かっただけでも、ありがたいと思わなきゃ!」
「うん……そうだね…………」
郁子に励まされ、ぼくはヨロヨロと立ち上がる。
「でも、まいったな……荷物とか、全部車ん中だよ」
「あ、それなら平気。ほら」
郁子は、いつの間にか抱えていたぼくのスポーツバッグを差し出した。
「郁子……これ」
「うん。さっき車から降りる時、持って出たの。なんか、そうした方がいいような気がして」
見れば、彼女の肩には自前のバッグが掛けられている。
――これも、郁子の鋭い勘のなせる業か……。
どうせなら、その類まれなる能力で、ぼくの車も救って欲しかったと思わないでもなかったが、
それは言うまい。
ぼくは気を取り直し、バッグを持って歩き出した。
歩きながら携帯を開いてみる。アンテナの処には、“圏外”と、無情に表示されているだけだった。
こうなったらやはり―例の獣道を進む以外にないだろう。
このまま道路を歩き続けたところで、拾ってくれる車が通りかかるとも思えないし、
他に、道らしい道もないとなれば―――。
郁子もそれを理解したのだろう。今度は反対の言葉もなく、黙ってぼくについて来た。
暗い雑木林の中、L字ライトを頼りにぼくらは歩いてゆく。
獣道では、雑草や低木が亡者の腕のように足元に絡み、歩きにくい事この上ない。
突然、下から強く足を引っ張られた。
ギョッとして照らしてみると、それは足首に巻きついた月下奇人の茎だった。
「なんでこんなモンが」
ぼくは慌てて、月下奇人をむしり取った。
よくよく見れば、辺り一帯が月下奇人の赤い色で埋め尽くされていた。
―しかも。
「月下奇人が……咲いてる」
車窓から見た月下奇人の花は、もっと小さくまとまって見えていた。
209:月下奇人
08/04/15 22:41:57 5yECaMUV
なのに今はその花弁が大きく開き、倍近くの大きさになっている。
滴る血のように赤い花の中心からは、むせ返るほどの甘い芳香が漂い、
それを吸い込むと、頭の芯が痺れるような感覚に襲われた。
「やだどうしよ……これ咲いちゃったら、私達、神隠しに」
「……心配するな。花が開く瞬間を見た訳じゃないんだから、セーフだよ」
「ほんと?」
実際問題、そんなルールがあるのかどうかは知らない。
これは、ぼくが今思いついて言っただけのことだ。怯える郁子を、少しでも安心させたかったのだ。
幸い郁子はそれで納得したのか、もう神隠しのことは口にしなかった。
だが、満開の月下奇人の群生が、美しくも禍々しい光景であることに変わりはなかった。
「まるで、月下奇人の畑みたい」
郁子の言葉に、ぼくは無言で頷く。
闇の中に浮かび上がる赤い花は、赤い血―そして、夜見島で遭った不気味な赤い津波を連想させ、
ぼくらに取って、あまり気持ちのいいものではなかった。
不安な気持ちから、ぼくらの躰は自然に寄り添い合う。
腕と腕が絡み―郁子の胸の膨らみが、ぼくの肘に触れる。
ぼくは、この時間が長く続くことを祈った。
しかしそうして歩いていくうちに、道幅は徐々に広くなっていった。
もう人が歩いても差し支えのない、ちゃんとした道になっている。
暫く行くと、眼の前の道が二手に分かれているのが見えた。
それを見た途端、郁子は急にぼくの腕を離して走り出した。
「守! 見て、これ……」
郁子は、分かれ道の右側に立って振り向いた。彼女は道端の、古びた郵便受けに手を置いていた。
「こんなのがあるってことは、こっちに民家があるんじゃない?! 誰か居るんだよ」
「うーん……どうだろうな」
赤い郵便受けは塗装が所々剥げていて、もう永いこと、使われた形跡がない。
もしも民家があったとしても、廃屋になっているのが関の山ではないだろうか――。
でも郁子は、そうは思っていないらしかった。
「とにかく行ってみようよ!」
強く促されたぼくは、彼女と共に郵便受けの先へと進んで行った。
正直、あまり期待はしていない。
まあ、せめて雨や雷を凌げる場所でもあれば儲けものだ。
その程度の気持ちで、ぼくは郁子の後に続いてゆく。
道を進むにつれ、生えている月下奇人の密度がどんどん増してきた。
一面の、赤、赤、赤。
――赤い海……。
また夜見島の記憶が甦る。
「いかんいかん!」
突然、頭をブルブル振って声を上げたぼくに、郁子は不思議そうな眼を向ける。
ぼくは笑ってその場を取り繕った。ああ、本当にいかん。こんなことでは――。
今夜のぼくは、どうかしている。こんなに、夜見島のことばかり思い出すなんて。
さっき見た裸の女だってそうだ。
郁子も見ているのだから、まあ、女が通ったのは間違いないのだろう。
しかしあの顔は、絶対に見間違いだ。
なんで今さら―今、ぼくの隣には、郁子がいるというのに。
ぼくが物思いに沈みかけたその時、頭上を稲光が走った。
210:月下奇人
08/04/15 22:42:58 5yECaMUV
一瞬、昼間のように明るくなった視界の先に――突然、巨大な屋敷が姿を現した。
「これは……」
まるで、ホラー映画のワンシーンのようだ。
唐突に途切れた森の向こう。
拓けた土地の中、アダムスファミリーでも出てきそうな洋館が、古めかしい佇まいを見せていた。
稲妻の閃光に照らし出されたその威容―――。
「お、お化け屋敷みたいだね……」
郁子の言う通りだった。
おそらく、ここは廃墟なのだろう。
石造りの立派な門柱は半ば朽ち果て、門扉は、片方が倒れて地面で苔むしている。
そして、門から屋敷に至る、百平方メートル以上はありそうな広大な庭を覆い尽くしている、
月下奇人の赤。
見渡す限りの赤い花が、その異様な香気が、ぼくの胸をかき乱す。
ここは――ここは、いったい?
――ねぇ。見て? お願い、私を見て。
不意に女の声が囁いた。甘い吐息が耳をくすぐる。ぼくは、悲鳴を上げてしゃがみ込んだ。
「守? どうしたの?! しっかりして!」
郁子がぼくの肩を揺する。ぼくは荒い息を吐き、震える指でずり下がった眼鏡を直した。
「な、なんでもないよ……ちょっと、気分が悪くなって」
「そう……しょうがないなあ、もう。しっかりしてよ!」
郁子にいつもの調子で発破をかけられ、ぼくは、ようやく冷静さを取り戻した。
「判ってるよ。もう大丈夫だ……さあ、行こう」
レンガ敷きの小道を歩きながら、ぼくはさりげなく辺りを見廻した。
当然あの女はいない。そりゃそうだ。あんなの、ただの幻聴なのだから。
「中に入れるといいけどな」
屋敷の玄関が近付いて来る。
観音開きの扉は重く閉ざされていて、あたかも、地獄の入口といった風情だ。
「入っちゃって、大丈夫なのかな……」
郁子は、首をすくめて木の扉を見詰める。
「構わないだろ。ここ多分……ていうか、絶対に、空き家だし」
本当は判っていた。郁子は、そういうことを言ってるんじゃない。
――この屋敷に入るのは、危険じゃないのか?
無論ぼくだって、屋敷が発しているこの、尋常ならざる妖気に気が付かないほど、鈍くはない。
しかし、だからといって落雷の恐怖に怯えながら、
雨に打たれ続けて一夜を過ごす訳にもいかないだろう。それでは、躰が持たない。
ぼくは郁子の顔を見下ろした。
夏の盛りとはいえ、気温の低い山の中。
雨に体温を奪われた郁子の頬は、すっかり冷え切って蒼ざめている。
――やはり、屋敷に入るしかない。
体力の問題だけじゃない。
ここから引き返すのには、またあの、月下奇人の海の中を通り抜けねばならないのだ。
とてもじゃないが、それには耐えられない。
ぼくはブルリと身震いをした。
すでにぼくの中では、月下奇人があの女のイメージと重なってしまっている。
211:月下奇人
08/04/15 22:43:42 5yECaMUV
――怖ろしい女。怖ろしい、夜見島の記憶―――。
ドアの取っ手を掴む。どうやら鍵は掛かっていない。
ギギィ、と、悲鳴じみた軋みを鳴らし、重厚な扉はゆっくりと、誘い込むように奥に開いてゆく。
同時に中からは、かび臭い、湿った冷気が漂ってきた。
言い様のない悪寒を覚え、ぼくのうなじの毛が逆立つ。
郁子は、何かを訴え掛けるような眼でぼくを見上げている。
でもぼくは、あえてそれに気付かない振りをした。
もう、引き返すことは出来ない。
背後からは雷鳴と―月下奇人の波が、迫っているのだ。
――月下奇人は、夜にしか咲かない花。一晩だけだ。一晩だけ、ここで持ち堪えれば……。
ぼくは、自分自身を説き伏せるように、胸の内で呟いた。
郁子の手を取り、扉の中へ足を踏み入れる。そして。
「……お邪魔しまぁす!」
ワザと馬鹿げた大声で挨拶をし、ぼくは、郁子と屋敷に入っていった―――。
屋敷の中は、真っ暗闇だった。
ライトで周囲を照らしてみる。どうやらここは、吹き抜けの玄関ホールらしい。
まず眼についたのは、正面左右に伸びた階段だ。
ホール全体を抱く腕のように湾曲した階段が、二階へと続いている。
その上には、蜘蛛の巣だらけのシャンデリア。
「あれが点いたらいいのにな……」
こう暗いと落ち着かない。今にも、やつらが出てきそうな気がする。
――でもこんな廃屋じゃあ、電気なんて通ってないだろうなあ……。
「……ねえ、守」
郁子が傍に寄り、妙に小声で話しかけてくる。
「ここ、誰かいる。視線を感じるの」
ぼくは思わず身構えた。
脳裏に、黒い布を巻きつけた白い怪物が、わらわらと寄って来るイメージが甦る。
ライトを四方八方に向け、ぼくは闇の中を探る――。
と。
「うわあっ?!」
突然、眼の前にウルトラマンが現れた。
でもよく見たらウルトラマンじゃなかった―当たり前だけど。
「なんだこれ……鉄の、ヨロイ?」
それは、鉄製の西洋ヨロイのようだった。
ぼくでも着けられそうな大きさのそれは、物々しく剣まで携えて立ち見番をしていた。
「なあ郁子。誰かいるって、まさかコイツのこと?」
「えーっと……」
ジト目で見るぼくの視線を避け、郁子は、ヨロイの後ろの壁に手を伸ばした。
すると、カチッという音と共に、屋敷中の照明が点いた。
「あ……これ、電気のスイッチだったんだ」
「おぉ助かった! きっと自家発電装置があったんだな。しかしよくスイッチを見つけられたもんだ」
「うん、なんとなく、ね」
何はともあれ、明るくなるとホッとする。
ぼんやり灯ったシャンデリア光の下、ぼくらはホール内を見廻してみた。
212:月下奇人
08/04/15 22:44:28 5yECaMUV
ぼくらが驚かされたヨロイの隣には、子ヤギでも隠せそうな位に大きい置時計が据えられている。
チクタクと時を刻んでいるその時計の針は―零時ちょうどを指している。
ぼくは、自分の腕時計を確認した。腕時計は七時三十三分を指していた。
念のために携帯の時刻表示も確認する。やはり、七時三十三分だ。
「まあ、古時計だから狂ってるんだろうな」
あまり深くは考えず、ぼくらは他の場所も見てみた。
ホールの隅には、なぜか巨大な水槽があった。
藻に覆われたガラスの中は、澱んだ水で満たされている。その中身は、ちょっと見には判らない。
「何か居るのかな?」
ぼくは、傍に寄って中の様子を覗った。
「さあね。こんだけおっきいんだから……人魚でも、飼ってんじゃないの?」
冗談めかした郁子の台詞。ぼくは笑おうとしたが―ふと、胃の腑に冷たいものを感じた。
――人魚。
郁子も、言ってしまってから気付いたのだろう。ハッとした表情で、口を押さえている。
一年前のあの日――。
ぼくと郁子は夜見島で―異世界の夜見島で、鉄塔の頂上を目指していた。
異世界からこの世を侵食しようとしていた闇の住人たちは、
皆、鉄塔を通じてこの世に辿り着こうとしていたからだ。
――奴らより先に、鉄塔の頂上に到着しなければならない。
ぼくらは鉄塔を登りつめ―その果てに、あいつと対峙した。
美しい女の顔に、魚のような躰を繋ぎ合わせた、異形の化け物。
まるで、人魚のような姿をした、邪悪な女。
郁子と二人で奴を倒し、現世に帰って来られたものの、ぼくは、あの化け物の姿を夢に見続けた。
あいつの腹から伸びた触手に絡みつかれ、その胎内に取り込まれてしまう悪夢。
夜驚を起こしたことも、一度や二度ではない。
帰った当初は、人魚の絵や映像を見ただけで、吐き気や頭痛を催した。
一時期は、“人魚”という文字すらも、受け付けなかったほどだ。
今はもう、すっかり治ったと思っていたのに――。
「守……」
郁子の気遣うような声音に、ぼくは、我と我が身を叱った。
――こら! 郁子にあんまりカッコ悪い処、見せんなよ。
……判ってるよ。ぼくは眼鏡を直しながら、クールな口調で言った。
「人魚か……人魚のモデルになったといわれるのはジュゴンという海棲哺乳類だが、
あれは体長3メートル、重さが500キロほどにもなるから、ここで飼うのは難しいかもな。
この水槽の容量だったら……せいぜい、シーラカンス程度が限界か……」
「あっ、裏にはしごがついてる!」
郁子は、ぼくの話を全然聞いていなかった。
「上から見たら、何が居るか判るかなぁ?」
「よせよ郁子。あぶないよ」
郁子ははしごに手を掛けたが、不意に顔を引き攣らせて手を引いた。
「どうした?」
「なんでもない、なんでもない! 守、あっち行こ!」
郁子はぐいぐいとぼくを押し遣った。
「なんだよぉ」
ぼくは気になってしまう。だから水槽の後ろを覗き込み―そして、見てしまった。
213:月下奇人
08/04/15 22:45:07 5yECaMUV
鉄のはしごについた、巨大な歯形。
その大きさからすると、人間の頭なんか丸飲みにしてしまえそうだ。
更によく見ると、はしごの下には、郁子の両足がスッポリ入ってしまうほどの、
これもまた巨大な足跡が残っていた。
「ていうか、これホントに足跡なの? こんな、もみじの葉っぱみたいな形の足跡ってある?」
「あるよ。昔、恐怖漫画で見た半魚人の足跡は、確かこんなんだった」
「あー……じゃあこの水槽に居るの、半魚人なんだ」
なんだかこの水槽にはあまり関わらない方がいいような気がしてきた。
ぼくらは、その場からジリジリと後退していった。
「郁子、あっちにソファーがある」
ドンヨリとした空気を吹き飛ばそうと、ぼくは努めて陽気に、水槽の向かい側を指差した。
水槽から見て玄関ドアを挟んだ向こうの壁際には、レンガで組まれた暖炉が設えてあり、
その暖炉の前に、客用のソファーが置かれているのだ。
ぼくらは荷物を置き、ふかふかのソファーに並んで身を埋めた。
「あー、くたびれたねぇ……」
郁子が、お婆さんのようにグッタリと疲れた声で言った。
ぼくもつられて溜息を吐いたら、速攻で「ジジむさい」となじられた。
「色々あったけど、後はこのまま朝まで待てばいいんだよな」
「うん、そうだよね……」
ホールは静まり返っていた。静寂の中、置時計の振り子の音だけが響いている。
ぼくは、隣で眼を閉じている郁子の横顔を見下ろした。
雨に濡れそぼった郁子の髪の毛は、心を奪われるような切ない芳香を発している。
その香りを嗅いだ途端、冷え切っていた躰の奥底に、小さな炎が灯るのを感じた。
ぼくは息をひそめ、首筋に張り付いている彼女の髪の毛をすくい上げる。
郁子は、睫毛を少しだけ震わせたが―嫌がるそぶりは見せなかった。
ぼくは躰をずらし、もう少し、郁子の傍に近寄ってみた。
二の腕がピタリとくっ付くほどに近づいても、郁子はぼくを避けようとはしなかった。
かといって、眠っている訳でもない。
閉ざされた瞼とは対照的に、半開きになった唇が、何かを求めている感じがする。
ぼくは、ゆっくりと眼鏡を外した。郁子の細いあごに指を掛けて、こちらを向かせる。
郁子は一瞬、戸惑ったように薄眼を開けてぼくを見た。
その表情は蠱惑的な、うっとりと性的な陶酔感に浸っているような、なんとも悩ましい表情だった。
ぼくは衝動を抑えきれず、郁子にキスをした。
柔らかな感触。郁子の唇は、抗うことなくぼくの唇を受け入れた。
更に。ぼくの舌は、整然と並んだ歯列を通り抜け、郁子の口の中に潜り込んだ。
郁子の蕩けるような舌に絡みつき、甘い唾液を吸いとり、嚥下する。
ぴちゃぴちゃと粘膜の擦れあう音の合間に、郁子とぼくの、喘ぐような呼吸の音が交じりあう。
――ああ、ついに……ついにやったんだ…………。
興奮にのぼせるぼくの脳裏に、これまでの、郁子に出逢ってから一年間の思い出が、
走馬灯のように駆け抜ける。
そのほとんどが、怒られたり貶されたりしている思い出だけど、今となってはそれも良い思い出だ。
――郁子……郁子……いくこ……!
夢中で情熱的なキスを続けるぼくの股間が、突然、甘美な快感に捕らわれる。
214:月下奇人
08/04/15 22:45:52 5yECaMUV
――郁、子……?
なんと、郁子の手が、その嫋やかな指先が、いつの間にか、ぼくのジーパンのファスナーを開け、
ぼくの、その、アソコの部分を、優しく扱いているではないか!
――郁子! そんないきなり……! な、なんて大胆な…………!!
ぼくは激しく混乱する。まさか郁子が、こんな、こんなテクニックを―――!
いったいどこで覚えたんだ!
ショックだ。でも気持ちいい。もっと、やって欲しい――。
ぼくは、衝撃と歓喜の入り混じった複雑怪奇な官能のさなか、唇をはずして郁子の顔を見つめた。
眼鏡のない若干ぼやけた視界に、漆黒の長い髪が映った。
黒髪に、病的なまでに白い肌が一際映えて――あれ?
郁子は、こんなに髪が長かっただろうか? こんなに、色が白かっただろうか?
それに郁子、君は、いつの間に裸になんかなったんだ?
郁子の白い顔に、ゆっくりと焦点が合ってくる。いや。郁子ではなかった。
濃く長い睫毛に縁取られた黒目がちな瞳。途轍もなく妖艶な、途轍もなく――怖ろしい。
彼女はぼくを見上げて、にっこりと笑う。ぼくは、恐怖に眼を見開いて―――。
頬に、パチンと衝撃が走った。
頭がぐらりと傾いで、ぼくは、ソファーの上に横倒れになった。
「なーに寝ぼけてんのよっ! このムッツリスケベ!!」
「???」
状況が掴めないまま、ぼくは起き上がり、ずれた眼鏡を掛け直した。
「あれ? おれ、眼鏡外したはずなのに……」
「やれやれ。まーだ寝ぼけてる。たく、しょうがないなあ」
郁子は腕を組み、ぼくの前に仁王立ちしていた。そして、呆れた様子でぼくを睨みつけている。
不意に、頬がジンジンと痛み出し、ぼくは郁子に叩かれたことを思い出した。
「ていうか、痛いんですけど……いきなり、ぶつことないだろ」
「はぁ? よっく言うよぉ。そっちこそ、人にいきなり、その……あんなこと、しといてさぁ」
「あんなことって?」
ぼくが尋ねると、郁子は急に、顔を真っ赤にして押し黙った。
「なあ……おれ、なんかした訳?」
「う、うるさいなぁ! もういいよ!」
「よくないよ。教えろよ」
「そんなこと……口で言える訳ないじゃん! ばかっ!!」
ぼ、ぼくは、口では言えないようなことを郁子にやったのか?
さっきの夢を思い返す。
もしかしたら、あの夢の中の行為のどれかを実際にやっていた、とか?
ぼくが考え込み、もう一度、郁子に問い掛けようとしたその時だった。
「待って。……今、何か聞こえなかった?」
郁子は、ぼくの唇に指を押し当て、耳をそばだてた。
聞こえた。確かにぼくも、重いドアが軋んで開くような音を聞いた。
「二階からだったよな」
ぼくの言葉に、郁子は頷く。
「ひょっとして……誰か、居るんじゃないか?」
ぼくらは顔を見合わせた。
「じゃあ……確かめに行く?」
郁子が、おずおずと提案する。ぼくは暫し考えたのち―首を、縦に振った。
215:月下奇人
08/04/15 22:46:51 5yECaMUV
危険があるかも知れないし、このまま放っておくべきかも知れない、とも思う。
だが、得体の知れない何かを、判らないまま放置しておくのは、余計に気味が悪いものだ。
ぼくは、ウエストポーチからサバイバルナイフを取り出した。
夜見島から戻って以来、ぼくが手放せなくなったものは、ライトだけではなかったのだ。
「出来れば拳銃も欲しい処だけどな」
そう言って笑うぼくに、郁子は複雑な視線をよこす。
ナイフを持って笑うぼくは、郁子の眼に、どんなふうに見えたのだろうか――。
ぼくは郁子の前に立ち、慎重に階段を上って行った。
古びた階段は、いくら注意して上っても、踏み締める度にギイギイと姦しく鳴り響く。
そうしてゆっくりと階段を上っている途中、郁子が突然、「あっ!」と声を漏らした。
「ヨロイが……消えてる!」
ぼくは階段の下を見た。
郁子の言う通り、置時計の並びに立っていたはずのヨロイが消え失せていた。
「なんで? さっきまで、確かにあそこに」
「……きっと、休憩時間に入ったんだよ」
ぼくは冗談を言ってはぐらかした。これ以上、郁子を怯えさせたくはない。
しかし、実際ヨロイが自発的にどこかへ行ったりはしないだろう。
つまり、あれを動かした奴が居るんだ。
――やっぱりこの屋敷には、ぼくら以外にも誰か居る。
疑心は、確信になった。手の中のナイフを強く握り締め、ぼくは、薄暗い二階の廊下を目指した。
階段を上りきると、奥のほうに真っ直ぐ伸びた長い廊下が見渡せた。
廊下の左右には、いくつかのドアが並んでいる。
ライトを向ける。
壁に点いた、切れ掛かった照明の向こう側―
正確に言うと左側の奥から二番目の扉が、ちょうど閉ざされる処だった。
「守、あれ……」
郁子がぼくの腕にすがりつく。ぼくらは、おそるおそるその部屋に近づいた。
「……誰か、居ますかぁ?!」
念のため、ノックと共に外から呼び掛けてみるも、やはり返事はない。
「やっぱ、誰も居ないのかな……?」
「でも、ドアが閉まるの見たじゃない!」
「だよな…………」
試しにノブを廻すと、あっさりと扉は開いた。
部屋の中は真っ暗だ。扉の外からライトで照らしてみる。
ここは、家人の居室だったようだ。
ヴィクトリア朝風の調度品で統一された室内は、
きっと、かつては気品溢れる落ち着いた雰囲気を醸し出していたことだろう。
でも今は、荒涼とした廃墟の一室に過ぎない。
寒々と人の気配の絶えた部屋の中央には、白い布に覆われた椅子が置かれ、
その奥には、小さな木のテーブルがある。
そして、そのテーブルの上には、赤い布表紙の分厚い本が乗せられている。
ぼくは興味を引かれ、部屋に入って本を手に取ろうとした――。
と、ぼくの背後で扉が閉められた。
「おい郁子やめろよ! ふざけてる場合じゃないだろ」
「守……私、ここ」
ぼくはギョッとして、隣で泣きそうな声を出す郁子を見た。
216:月下奇人
08/04/15 22:47:32 5yECaMUV
「な、郁……! おま、い、いつの間に横に! つか、じゃ、じゃあドア閉めたの誰よ?」
ぼくと郁子は、蒼ざめた顔を見合わせた。
――ひょっとして……閉じ込められた?
不吉な予感に慄いて、ぼくは、おそるおそる扉を開けようと足を踏み出す。
踏み出した足が、横の椅子に当たった。
すると、椅子はギイと音を立てて動き出し、同時に、被せられていた布がハラリと床に落ちた。
椅子の全容が現れる。
その椅子には車輪がついていた。いわゆる、車椅子というヤツだ。
ただの車椅子じゃない。人が座っている。
ただの人じゃない。その人は―この屋敷同様、干からびて、朽ち果てていた。
「これ……ミイラよね」
「ああ。ミイラだな」
郁子とぼくは、ライトの中に浮かび上がる茶色がかった変死体に眼を向けた。
この作り物めいたミイラは、元は女性であったらしい。
洋風の屋敷に不釣合いな白い着物を身にまとい、束ねた髪を背中に垂らしたそのミイラに、
ぼくは、これでもかとライトの光を浴びせ続ける。
―別に、煙を吹いて苦しんだりはしなかった。
「何やってんのよ……」
郁子は呆れた様子でぼくの背中を叩いた。
「そんなことしないでいいのよ。ここにはもう、あの化け物たちは居ないんだから」
郁子の言う通りだと思う。
でも、頭では判っているのに、こうしなければ気が済まなくて、ついやってしまう。
夜見島に居た化け物共は、みんな光に弱かったのだ。
その後遺症というか。
ぼくは怖ろしいものに遭うと、とりあえず光を当ててしまう癖がついてしまった。
以前、仕事で手違いがあって印刷会社の人に怒られた時、
咄嗟にその人の顔にライトを当ててしまって余計に怒られたことを、今なんとなく思い出す。
……そんな場合じゃ、ないのだが。
「でも驚いたぁ。こんなトコに、まさかミイラがいるなんて」
郁子は、気味悪げにミイラの頬を突付いている。
「けどまあ……このヒトは別に襲って来たりはしないから、そんなに怖くないかな」
そう。夜見島で、さんざっぱら怖ろしい目に遭って来たぼくたちは、
ミイラを見たぐらいじゃ、さほどビビりはしないのだ。ミイラなんて、大したことはない。
ミイラだけなら、ね……。
「この人が、どういった経緯でこんな風になったのかは知らないけれど……
少なくとも、このドアを閉めたりは出来ないよな。やっぱり、他に誰か」
と、言いかけた時、部屋の外で、ガシャンガシャンと鉄の塊が歩いているような音が聞こえた。
ぼくらは、息をひそめてその音に耳を澄ます。
「ま、守……」
「シッ! 静かに」
その音は、この部屋の前で止まった。
ぼくらが緊張して身構える中、音は再び鳴り出し―そして、部屋から遠ざかって行った。
「はぁー……」
全身から、どっと汗が噴き出した。緊張から解かれたぼくは、床にへたり込んだ。
「ねえ守……今のって、ヨロイの足音だったんじゃ」
217:月下奇人
08/04/15 22:48:13 5yECaMUV
「……判らないよ」
「どうなってんの?! ヨロイが、独りでに歩き廻ってるっていう訳?!」
「そうとはかぎらないよ」
ぼくは座ったまま、郁子を見上げて言った。
「あのヨロイの中に、人が入っていたとしたら?
最初に見つけた時、ぼくらはあのヨロイの中身までは確認しなかっただろ?」
「…………」
郁子が、何か言いたそうにしている。
本当はぼくにだって判っている。あのヨロイには、人の入ってる気配なんてまるで無かったんだ。
「とにかく、この部屋を出よう。いくらなんでも、ミイラと一晩一緒に居る訳にもいかないからな」
ぼくは、外の様子を覗いながらノブを廻した。
幸い鍵なんかは掛けられておらず、ぼくらは、無事に部屋を出ることが出来た。
「けど、これからどうするの?
私、やっぱりこのお屋敷に居るの、ヤバイような気がしてきたんだけど」
「……とりあえず、いったんホールに戻って考えよう。外の天気の具合を見て……
大丈夫そうであれば、屋敷を出てそれで」
どうしよう。と、考えたぼくの背後で、ミイラの部屋の扉が微かに開く気配がした。
「あれ? 私、ちゃんと閉めたはずなのに」
郁子が振り返る。ぼくも振り返った。
振り返った先には――ミイラが居た。
錆びついた車椅子が、耳につく響きと共にゆっくりと動き出し――
そして急に、物凄い勢いで、こちらへ突進してきた。
「うわあっ?!」「きゃああ!!」
ぼくらは慌てて走り出した。
突如として襲い掛かってきたミイラの車椅子を前に、
ぼくらはなす術もなく、ただ逃げ惑うしかない。
階段にたどり着くと、二人でもつれ合うように駆け下りた。
下りるというよりは、転げ落ちると言った方が正確だ。
転げ落ちる途中、ぼくの胸ポケットから、L字ライトが零れ落ちた。
「あ……」
ライトはホールの床に落ち、衝撃で消えてしまう。
それと同時に、屋敷内全ての照明が、消えた。
「てっ、てっ、てっ、停電か?!」
電気が消えてしまうと、屋敷の中には一切の光もなくなる。
辺りは真っ暗。墨を流し込んだような、真の暗闇だ。
暗黒に視界を奪われて、ぼくは、パニックにおちいった。
――暗いのは駄目だ。闇は、あいつらの世界なんだ。
ぼくは慌てふためき、必死に、手探りでライトを探そうとした。
「郁子? い、郁子! どこだ……?!」
ホールの床に這いつくばりながら、ぼくは、郁子の名を呼んだ。
―返事は無い。ぼくは、更に恐慌をきたす。
ぼくの傍から、郁子の気配が消えている。郁子は―郁子はどこへ行ったんだ?!
――まさか、さっきのミイラに? あるいは……例のヨロイ?!
悪い予感が、止め処もなく浮かんでは消える。
ぼくは、迷子の子供みたいに心細い気持ちになり、ただひたすらに郁子を呼び続けた。
「まもる……」
218:月下奇人
08/04/15 22:48:55 5yECaMUV
床を這うぼくの肩に、しっとりと柔らかい掌が乗せられた。
「あぁ、郁子!」
ぼくは深い安堵と共に、その手をギュッと握り締めた。
「よかった……無事だったんだね」
少しだけ暗闇に慣れたぼくの視界に、白くほっそりとした腕が浮かび上がった。
「まもる……」
郁子はぼくの胸元に頭をもたせ掛けてきた―甘い香りが、ぼくの鼻孔をくすぐる。
「郁子……」
「ねえ、まもる……キスして」
「えっ?!」
「お願い……して」
暗闇の中、郁子はぼくの胸元に手を這わせた。
郁子の手に撫で摩られて―ぼくの胸の鼓動は、早く、激しくなってゆく。
ぼくは、郁子を抱き寄せた。
芳香を放つ髪を撫で、その頭を、ぼくの方に引き寄せる。
濡れた唇が、強く吸い付いてきた。
情熱的なキス――ぼくの理性が、瓦解する。
郁子の勢いに飲まれそうになりながらも、
ぼくは、負けないくらいの情熱を込めて、激しいキスをかえす。
――今度こそ、夢じゃない……。
眼鏡が邪魔だと思ったが、今は外すゆとりもない。そのままぼくらは、絨毯の上に転がった。
郁子はすでに、服を脱いでいるようだった。
裸の乳房が、なだらかな腹部が、そして、その下の柔らかな茂みが、ぼくの躰に密着して蠢いている。
――ああ…………。
ぼくはキスをしながら、夢中になって郁子の乳房を揉みしだき、
その先端の乳首を指で摘まみ上げた。
ぼくの唇の中に、郁子の、桃色の吐息が流れ込んでくる。
「郁子……」
ぼくは両手で郁子のウエストのくびれを辿り、豊かに張り出した腰の線をうっとりと撫で廻した。
「あぁっ、まもる……」
郁子は身を捩り、ぼくの手から逃れんとするように背中を向ける―
でも、ぼくはそれを許さず、彼女の腰を捕まえると、
その大きく突き出された丸いヒップに頬を寄せた。
「あん、いや……」
恥じらいを籠めた郁子の声に、ぼくの興奮は、いやが上にも増大する。
ぼくは郁子の、白く浮き上がる尻の膨らみを、唇で辿った。
絹のようになめらかな肌を唇で愛撫しながら―ゆっくりと、その割れ目の方に指を這わせる。
郁子が、甲高く喘いだ。
ぼくの指先は、郁子の、秘められた部分を静かにまさぐった。
――濡れてる……。
みっちり合わせられた尻肉の下、郁子の女の部分は、しっとりと蜜を湛えてぼくの指を迎え入れた。
「い、郁……っ」
ぼくが郁子に覆い被さり、背後から彼女を抱きすくめようとした時だった。
いきなり、郁子はぼくを振り払い、立ち上がって走り去ろうとした。
「郁子?!」
ぼくは慌てた。
――ちょっと、焦りすぎたか?
ぼくの行為が、郁子に嫌悪感を起こさせたのだろうか。
追い縋るぼくの手が彼女のヒップに触れる。でも、彼女の躰はそのまま遠ざかり―――。
219:月下奇人
08/04/15 22:49:56 5yECaMUV
「守!」
急に背後から呼び掛けられ、ぼくは驚いて振り返った。
なんと、そこには―郁子が立っていた。
ぼくは、ぽかんと口を開けて郁子の姿を見つめた。
郁子は携帯を開き、液晶画面の微かな光でぼくを照らしていた。
もちろん、衣服をきっちり着込んだままで、だ。
ぼくはハッと我に帰り、尻ポケットから自分の携帯を取り出して、開いた。
薄い明かりで床を照らし、少し離れた場所に落ちていたL字ライトを見つけ出す。
……最初から、こうしてりゃよかったんだ。
ライトを点けた途端、屋敷内が一斉に明るくなった。
停電が、直ったらしい。
「……電気、点いたね」
「……ああ」
ぼくらは、微妙に互いの目線を避けながら、ぎこちなく会話した。
――どうなってるんだ?
ジーパンのポケットに手を突っ込み、ぼくは、さっきのことを思い返す。
あの、暗闇の中でぼくと絡み合っていた女は、郁子ではなかった。
――じゃあ、あれは誰だ?
今度は夢なんかじゃない。
あの肌の感触、匂い、それに―この指先についた、女の愛液。
中指と人差し指で糸を引いている液体を見つめ、
ぼくは、ポケットの中で、硬く疼いている部分をそっと押さえる。
――郁子は、知っているんだろうか?
あの女が何者なのか、とか、停電のあいだ郁子がどこで何をしてたのか、とか、
気になることは山ほどある。
しかし差し当たってのぼくの気がかりは、
あの女とのふしだらな行為を郁子に見られていやしないか。ということだった。
――他の女とあんなコトやってたのがばれたら……このあと郁子を口説きづらくなる!
そう。この期に及んでぼくは、郁子と深い仲になる計画を諦めてはいなかった。
共通の恐怖体験。男女の絆を強めるのに、これ以上の媒体はない。
……共通の恐怖体験なら、もう一年も前に経験済みだという事実は、この際忘れることにする。
ぼくは、郁子の様子を覗った。
郁子はぼくに背を向け、最初にヨロイの立っていた辺りをぼんやり眺めている様子だ。
ぼくはその肩に手を掛けた。
「なあ郁子……」
「ひゃあぁっ?!」
郁子はえらく驚いた様子で肩を震わせ、ピョコンと跳ね上がった。
「あ……驚かせてごめん。あ、あのさ」
「え? な、なに? わ、私なんにもしてないよ?!」
―何言ってんだ?
見れば郁子は、妙におどおどした態度でぼくから眼を逸らし、
近付くぼくから、距離を置こうとしている。
――これはもしや……さっきのアレを見て、ぼくに不信感を抱いてるんじゃあ……。
ご、誤解だ! そう思ってぼくは、郁子に弁明を試みることにした。
「あ、あのさ郁子。さ、さっきの女のことだけど……あれは、違うんだ」
220:月下奇人
08/04/15 22:50:31 5yECaMUV
「へ? お、女? 女って何?」
郁子は訳が判らない、といった顔つきで訊き返してきた。
――しまった! 郁子はアレを、見てなんかいなかったんだ!
「ねえ守。女って、何?」
郁子は、いつになく静かな口調でぼくを問い質す。ま、まずいぞ――。
「いやあの……停電の時、例の……山道で見た裸の女が、ここに居たみたいなんだよ」
「え? あの人がここに? それ本当なの、守?」
「ああ……郁子は、見てないの?」
郁子は眉をひそめてかぶりを振った。 ―しめしめ。なんとか話を逸らせそうだ。
しかし――。
口からでまかせで言った言葉が、よくよく考えてみると、意外に真実をついてるように思えてくる。
この屋敷には、あの、裸の女を追ってたどり着いたようなものなのだし―
最初から丸裸だったのも、あの女だったからだと考えれば納得がいく。
「もしかすると……ミイラやヨロイを動かしたのも、あの女なのかもな……」
「じゃあ停電も、彼女が?」
ぼくらは暫し考え込む。
あの短時間に、女手一つであれだけのことをやってのけるのが、可能かどうかは別にしてもだ。
――この屋敷に、ぼくらに悪意を持っている何者かが存在しているのは、間違いない。
ぼくは、未だ女の体液でぬめっている指で、こぶしを握った。
「よし……行くぞ」
ぼくは階段を上ろうとする。
「ちょ……行くって、どこによ?!」
郁子があわ食ってぼくの腕を掴む。
「決まってる。あの女を捜しに行くんだ。
なぜ、コソコソ隠れて、ぼくらをこんな目に合わすのか……
とっ捕まえて、徹底的に、小一時間問い詰めてやる!」
「そ、それサイアク……じゃなくて! なんで二階なの? 女の人がどこへ行ったかも判んないのに」
―それもそうだ。
でもぼくの勘は、なんとなく、彼女は二階に居ると言っている。
「私は……どっちかっていうと、一階に居るような気がするかな……」
ぼくらの意見は、真っ二つに分かれた。
こういう場合はいつも、勘の鋭い郁子の意見を聞くのが定石なのだが――。
「いや。やっぱり二階を見よう……おそらく、二階の方が部屋数が少ないからすぐ済むと思うんだ」
ぼくがそう言うと、郁子はあえて反論することもなく頷いた。
「よし、それじゃあ」
ぼくは、ウエストポーチから、ボイスレコーダーとデジカメを取り出した。
「守、まさか」
「そう。そのまさか」
ぼくはまずデジカメを構え、ホールのスナップを幾つか撮った。
そして、おもむろにボイスレコーダーのスイッチを入れる。
「……現在二十二時〇一分、××山中、廃屋玄関ホール。今から二階の探索を開始」
スイッチを切ると、呆れ顔の郁子に笑いかけた。
「これでも超科学雑誌の編集者だからね。ミステリアスな廃屋敷に起こる超常現象の謎……
こんなおいしいネタを、放っておく手はないって訳」
いきなり記者モードに入ったぼくを前に、郁子は、処置なしといった顔つきで溜息を吐いた―。
221:月下奇人
08/04/15 22:51:07 5yECaMUV
二階に上がろうとした時、ぼくは、サバイバルナイフを失くしたことに気が付いた。
さっきの停電のドサクサで、どこかに落としたのだろうか?
探したけれど見当たらないので、仕方なく、暖炉の火掻き棒を拾って持っていくことにした。
こんなモンでも、ないよりゃマシだ。
「さあ行くぞ!」
と言って振り返ったら、郁子は一人でとっとと階段を上がろうとしていた。
「ちょ、待てよ!」
郁子の後を追って、ぼくも階段を上り始める。
ぼくの眼の前で、郁子のボリュームのあるヒップラインが、左右に揺れている。
郁子は、お尻に特徴のある子だ。
幅広く、大きく後ろに突き出した、肉感的なお尻。
それでいて形良く、引き締まったカッコいいラインをキープしている処がすごい。
全体的には細身だし、腿もウエストも標準より細いくらいなので、このお尻は余計に際立つ。
特に尻フェチではなかったぼくだが、郁子のせいで、最近はすっかり宗旨変えさせられてしまった。
そんな郁子の魅力的なお尻を見ている内に、ぼくの心に、ふと疑問が湧いてきた。
ぼくはさっきの停電のさなか、別の女を郁子と間違って抱こうとした。
これがどうも、おかしい気がするのだ。
そりゃあ、ぼくと郁子はウンザリするくらいに清らかな関係で、
ぼくは未だ、郁子の肉体にろくに触れたこともない。
だけど―いくら触れたことがないとは言ってもだ。
郁子のように判りやすい身体的特徴を持っている女の子を、他の女と間違えるなんて。
暗かったせいと言われればそれまでなのだが―どうにも釈然としない。
あの時聞いた微かな声も、その匂いや感触にも、全てに違和感がなかったのだ。
――単に、おれが鈍いだけなのか?
郁子の尻を目前に見ながら、女が立ち去る直前、一瞬掴んだヒップの感触を思い出す。
――本当に……この尻とあの尻は別尻なのか?
思いつめたぼくは、眼の前の郁子の尻に手を―――伸ばしかけたが、思いとどまった。
そんなことをしでかした日には、命がいくつあっても足りないだろう。
出しかけた手を引っ込めて、ぼくは、しょんぼりと溜息を吐いた。
二階に着くと、ぼくはまず、例のミイラの部屋から検めた。
あのミイラは―と覗いてみると、やはり、車椅子もろともその姿を消していた。
部屋に入ってあちこち調べてみたが、特に怪しいところは無い。
最初に見つけた赤い本が置いたままになっていたので、手に取ってみた。
表紙に金箔の型押し文字で、“Diary”と記されている。
「日記帳だ……」
パラパラとめくっていくと、突然、真っ赤な頁が現れた。
一瞬、血に見えたそれは、月下奇人の押し花だった。
「うっ」
ぼくは思わず日記帳を投げ捨ててしまった。 ―どうもこの花は、苦手だ。
「この部屋には何もなさそうだ……行こう」
訝しげにぼくを見る郁子を促し、ぼくは、ミイラの部屋を出た。
「さて次は……」
「守、こっち」
ぼくが考える間もなく、郁子はもう、ミイラの部屋の隣―廊下左側、一番奥のドアを開けていた。
中を覗くと、なんだか線香臭かった。ライトを向ける。
222:月下奇人
08/04/15 22:51:51 5yECaMUV
そこは、奇妙な部屋だった。
窓のない室内は、床も壁も天井も、あらゆる場所がビロードの赤い布で覆われている。
奥には、やはり赤い布を掛けられた祭壇のようなものがあり―
そこに、蝋燭の立った燭台二本と、それらを従えるようにそびえ立つ、奇妙なオブジェがあった。
「何これ? 十字架とは違うね?」
郁子は、長細い台の先に取り付けられた、眼の高さより少し上にあるそのオブジェを、
しげしげと眺めている。
銅製とおぼしき、若干赤みがかったそのオブジェの形には、見覚えがある気がした。
――どこで見たんだったか……。
あごを捻るぼくの足元で、何かがカサコソと音を立てた。
「うわぁっ!」
それはゴキブリ―ではなく、干からびた月下奇人の花弁だった。
よくよく見ると、祭壇の上も、その周囲の床も、夥しい量の月下奇人の花で埋め尽くされていた。
「秘めた信仰……」
郁子が、ぽつりと呟いた。
「え?」
ぼくは郁子を見る。彼女はなんだか、遠い眼をしていた。
「花言葉よ。月下奇人の。月下奇人は常世の花。神の御許に咲く……」
「おい郁子! なに訳判んないこと言ってんだよ!」
ぼくが声を荒げると、郁子は、夢から覚めたように眼を見開いた。
「あ……れ? 私、なんでこんなことを?」
郁子は、おろおろと取り乱している。ぼくは、郁子の肩を抱いた。
「……まあ、今夜は変な目にばっか遭ってるからさ。調子狂うのも無理ないよ」
フォローしつつもぼくは、心の中で郁子の台詞を反芻していた。
――秘めた信仰。
これは単に、この抹香臭い部屋の雰囲気から連想されたイメージの過ぎないのか?
あるいは―郁子の超感覚が、この部屋で何かをキャッチした結果なのだろうか?
ぼくは、郁子に眼を遣った。郁子の不安げな眼が、ぼくを見返した。
「守……もう、出よ?」
ぼくらは、部屋を出ることにした。
その後、ぼくらは二階の部屋を片っ端から調べたが、特に変わったものは見当たらなかった。
「この部屋で最後だな……」
廊下右側の一番奥。他とは違う黒っぽいドアには―鍵が掛かっていた。
「鍵が要るな」
「鍵だけじゃ駄目みたい……ほら」
ドアの四隅が、釘で打ちつけられていた。
「釘抜きも用意しなきゃ」
「開かずの間……ってとこかな。
こんな風に詰まった場合、ロックの掛かった場所は一旦スルーして、
他の、クリア出来そうなステージを片付けてから、出直すのがセオリーだよ」
「守、それ何の話?」
「この世界の常識の話。じゃ、ホールに戻ろう」
やはり、郁子の勘の方が正しかった訳だ。
二階に何もなかった以上、女も、ミイラも、ヨロイも、全て一階に居る、ということになる。
―なんか、ぞっとしない話だ。
「ねえ、やっぱり、この屋敷から出ない……?」
223:月下奇人
08/04/15 22:52:30 5yECaMUV
ぼくの心中を察した郁子の言葉。だが、ぼくにだって意地がある。
いったん記者モードになった以上、そう簡単に取材先から逃げ出す訳にはいかないのだ。
「最後まで調査しなきゃ。大丈夫。いざとなったら、この火掻き棒で戦うさ」
「もう! 変な処で意地っ張りなんだから!
そんな攻撃力なさげな武器で、ヨロイとかに勝てる訳ないじゃん!」
「そんなことはないよ。攻撃力の不足は、頭脳とテクニックでカバー出来るもんさ」
ぼくがそう言った途端、眼の前にヨロイがヌッと現れた。
ぼくらは、仲良く悲鳴を上げた。
ヨロイはガシャンと音を立て、手に持った剣を振りかざした。
「ま、ま、守っ! ほ、ほら、頭脳とテクニックでなんとかしてっ!」
ぼくは頭脳とテクニックを駆使して、逃げた。
「郁子、こっちだ!」
郁子を伴い、ぼくは一階の廊下を駆け抜けた。
ヨロイは、大仰に音を響かせつつ、結構なスピードで追いかけてくる。
必死で走るが、このままではいずれ追いつかれてしまうだろう―――。
と、角を曲がった処に、少し開いたドアを見つけた。
灯りが点いている。 ―少し迷ったが、ぼくらはその部屋に隠れることにした。
ドアを閉め、息を殺してしゃがみ込む。
ヨロイの音が部屋に近付き――部屋を素通りして、遠ざかって行った。
音が完全に聞こえなくなるのを確認すると、ぼくらは、ガックリと床に座り込んだ。
「全く、口ばっかなんだから!」
「だ、だってさ、あいつ、実際向かい合ってみると意外と迫力あってさ……」
「言い訳しないの!」
郁子のキツイ一言に、ぼくはシュンとなった。
「それはそうと……この部屋は凄いな」
ぼくは話題を変えようと思い、部屋についてコメントをした。
ここは、書斎だった。
広い室内をぐるりと囲む本棚。それが、おびただしい量の本で隈なく埋め尽くされている。
「図書館みたいね」
郁子も、圧倒されて溜息を吐く。
ざっとみたところ、様々な学術の専門書らしきが多い。しかも大半が洋書というか、原書だ。
その中には、クロウリー、カリオストロ、ノストラダムス、といった、
有名なオカルティストの本も、かなり多く混じっているようだった。
「この屋敷のあるじは、相当にエキセントリックな人物だったらしいな」
「そんなの……今まで私たちにしてくれた持てなし方で判んじゃん」
「……まあね」
ぼくは、部屋の中央に置かれた書き物机の引き出しを開けた。
中には、割と新しい感じのスクラップブックが入っている。
ぼくはそれを開いた。郁子も横から覗き込む。
スクラップブックには、新聞や雑誌の切り抜きが、几帳面に貼り付けられている。
見ていく内に―段々、ぼくらの表情は曇ってきた。
切抜きの記事は、夜見島事件に関連したものばかりであった。
新聞の自衛隊ヘリ消失事件の報道に始まり―マイナー雑誌のほんの数行の些細な記事や、
ネットの書き込みをプリントアウトしたものまでが挟み込まれている。
中には、ぼくが“アトランティス”に掲載した夜見島レポートも、当然入っていた。
それだけではない。
後ろの方には“アトランティス”の、夜見島とは全く関係ない切抜きばかりの頁があった。
224:月下奇人
08/04/15 22:53:14 5yECaMUV
次号予告や読者プレゼント、編集後記といった、どうってことのない記事の数々――。
それらは皆、このぼくが担当して作った記事だった。
――このスクラップを作った人間は……ぼくのことを、知っている?
ぼくは、ザワザワと身の毛がよだつのを覚えた。
それは今までとは違い、もっと湿度の高い、気持ちの悪い恐怖だった。
「守…………」
蒼ざめるぼくに、郁子は労わるように寄り添った。
郁子の肌の温かさが―なぜか、ホールで抱き合った裸の女の感触を思い起こさせた。
「大丈夫。大丈夫だ……」
ぼくはつい、郁子から離れてしまう。郁子は、ちょっとだけ寂しそうな顔を見せる。
でもすぐにいつもの勝気な表情を取り戻し、ぼくに言った。
「そ。だったらもう行こ! いつまでもこんなかび臭い部屋に居たって、しょうがないじゃん!」
書斎の扉を開けて廊下を見廻す。
―ヨロイの気配は無い。ぼくはビクビクしながら部屋を出た。
「ねえ。のど乾いた」
廊下を歩きながら、郁子はそんなことを言ってきた。
「走り廻ったからのど渇いた。何か飲むもん持ってない?」
んなこと急に言われてもなあ。
スポーツバッグに飲みかけのペットボトルがあったかも知れないが―
いや、あれは車に置いてきたんだったかな?
「そうだ。ここの台所に何かあるかも! 行ってみようよ」
郁子は考え込むぼくの腕を引っ張ろうとする。
「ちょっ、ちょ……こ、こんな廃屋にあるものを口にするなんて」
「ものは試しよ! 瓶詰めの物とかならきっと平気だって!
こんな大邸宅なんだからさぁ。ひょっとしたら、ワイン倉くらいあるかもしんないじゃん」
郁子―。君はこんな処で飲んだくれるつもりなのか――。
逞しいというかなんというか。
でも本当は判っている。
郁子はわがままを言ってる風に見せかけて、
ぼくの気を、さっきのスクラップから逸らそうとしてくれているのだと思う。
ぼくは最近、郁子の思考ルーチンをある程度は理解出来るようになってきていた。
もうかれこれ一年近く付き合ってきたおかげだ。
付き合ってきた、とは言ってもそれがただの“友達付き合い”というのが切ない処ではあるが。
そうこうする内に、ぼくらは観音開きの大扉の前に来ていた。
「これはきっと食堂のドアね。てことはこの奥に厨房が……」
郁子は重そうな扉を両手で押し開ける。ぼくはすかさず、ライトで中を照らした。
真っ暗な中、白いテーブルクロスの上で蠢いていた黒い塊が、パッと散った。
「うわっ」
「いやぁっ」
ぼくらは悲鳴をあげて跳び上がった。
そこは、郁子の言った通り食堂になっていた。
ただの食堂ではない。ざっと見て十人以上は一緒に食事を出来そうな広さ。
縦長の食卓の周囲は暗くてよく判らないが、
英国の古城のように重厚かつ凝った装飾で設えてあるのが、微かに見て取れる。
ただし。この立派な大食堂で食事を取っていたのは着飾った紳士淑女などではなく、
薄汚いドブネズミどもだった。
225:月下奇人
08/04/15 22:58:00 5yECaMUV
「酷いなこりゃ……」
ぼくは荒れ果てたテーブルの上をライトでたどる。
テーブル上は嵐の後のように散らかっていた。
食器やグラスの類だけではない。皿に乗っていたと思われる料理の残骸―。
しかしそれらはここに置かれてからもう随分日が経っているらしく、
ネズミどもに食い荒らされた挙句カラカラに干からびて、
クロスのあちこちにカビとなってこびり付いていた。
そして。そんな、カビとネズミの足跡で汚らしく飾り立てられた食卓の中心には――。
「う……また月下奇人かよ……」
陶製の花瓶はネズミに倒されたのだろう。ひっくり返って挿された花を散らばせていた。
赤い―月下奇人の花束を。
「も……もういいよ! 守、行こ!」
郁子は食堂に入ろうとさえしなかった。
確かにいくら郁子が逞しくったって、これほど不潔な場所に立ち入って、
あまつさえそこにあるものを口にすることなどは出来まい。
一応仮にも、女の子なんだから。だからぼくは言った。
「郁子、ちょっとそこで待ってて」
せっかくこっちに足を運んだのだから、この奥にある厨房の方も覗いてみようと思ったのだ。
「はあ? ちょっと何する気なの?」
当然郁子は不満げな声を上げたが、ぼくは「すぐ戻るから」と言い残し、奥へ続く扉を開けた。
開けるとすぐに使用人用と思しきダイニングキッチンがあり、その更に奥が広い厨房になっていた。
「意外と綺麗だな……」
食堂の惨状から、こちらもかなり悲惨な有様になっているに違いない、と覚悟して来たのだが。
コンロも調理台もほこりが積もってはいるものの、きちんと片付いているし、
比較的清潔に保たれているようだ。
ぼくは、ライトを巡らせざっと辺りを見廻した。
これも一応、取材活動の一環だ。
謎のミイラ。人を襲うヨロイ。そして、夜見島事件についての記事を集めたスクラップ。
この屋敷には、何か途轍もない秘密が隠されているに違いない。
こうなったら、とことんまで突き詰めて調べてやろう。
ぼくは半ばヤケクソのような気持ちになっていた。
前の夜見島の一件でも思ったのだが、人間、恐怖や絶望が臨界点を超えてしまうと、
自分でも思いがけないほどの行動力を発揮するものだ。
こういうのを、火事場のクソ力と言うのかも知れない。
「ただの逆切れなんじゃない?」
うん、そうも言うか。って―。
「わ、郁子?! 結局来たのかよ」
「だあって、一人じゃ心細いんだもん」
郁子ふくれっ面でそっぽを向いた。
「こっちはそんなに荒れてないんだね」
「そうだな。何か飲むもの探してみる?」
「それはもういい……さっきのあれ見たら、そんな気失せた」
郁子は食堂の方を振り向いて肩をすくめた。
「それより守? ここ、何か変な音してない?」
「変な音?」
ぼくは耳をそばだてる。
226:月下奇人
08/04/15 22:58:34 5yECaMUV
どこかで、虫の音が聞こえた。
秋の虫が鳴くにはまだ早い気がするけれど、山奥ってこんなもんなのかもなあ。
などと思いながら聞いていたが、だんだんと違和感が生じてきた。何か違う。
「これ……電話の音?」
ぼくらは顔を見合わせる。
小さく篭った音で判りづらいが、これは間違いなく電話の音だ。
それも昔懐かしい、ダイヤル式の黒電話。
「何でこんな廃屋に電話が……」
「で、でもどこにあるの? 電話なんて」
二人してあちこち見廻してみるが、それらしきものは見当たらない。
「無いな……あとは」
ぼくらの目線は、厨房の奥に鎮座している巨大なステンレス製冷蔵庫に向けられた。
「まさか……この中にはないよな」
ぼくは冷蔵庫を開けてみた。
開けた途端、けたたましいベルの音が鳴り響いた。
―あった。冷蔵庫一杯に詰め込まれたブロック肉に埋もれた、クラシックな黒電話。
冷蔵庫の中から電話が出現するというシュールな事態に、ぼくは一瞬、眼が点になった。
「これって出るべきなのかな?」
ふと気になって郁子に尋ねてみた。彼女は、なんとも微妙な表情でぼくを見上げた。
「出たいんだったら出てみれば?」
「でも……何て言って出たらいいんだろう? おれ、この家の住人でもないのに」
「……とりあえず“もしもし”って言ったらいいじゃん。はい」
郁子はどこか憐れみを帯びた瞳でぼくを見やりつつ、
冷蔵庫から電話を引っ張り出してぼくに手渡す。
ぼくは仕方なく受話器を取った。
「……もしもし」
電話の相手は、何も喋らない。でもちゃんと繋がっているのは気配で判った。
ぼくは、もっと向こうの様子を聞き取ろうと受話器に耳を押し付ける。
『……ふ……くぅ……ふふっ』
微かな息遣いに混じり、女のすすり泣きのような声が聞こえる。
本当に微かなその声は、聞きようによっては含み笑いにも、或いは隠微な喘ぎ声にも聞こえた。
「もしもし?」
ぼくは薄気味悪くなってもう一度呼びかけてみた。
すると突然、郁子がぼくの腕を掴んでめいっぱい揺さぶった。
「守…………これ、繋がってない!」
何事かと思い電話機を見下ろすと―電話のコードが、ちょん切れていた。
ちょん切れていると言うよりは、引きちぎられていると言った方が正確かも知れない。
どちらにしても確かなのはこの電話の回線は繋がってはおらず、
よって受話器から人の声が聞こえてくることも、ありえないということだ――。
と、ぼくがここまで思考を進めた処で、突然、受話器の中で女の甲高い笑い声が聞こえた。
「ぎゃあっ」
驚いたぼくは電話を取り落とした。床に落ちた受話器からは、未だ女の笑い声が漏れ聞こえている。
「ま、守……」
「……こんなのただのトリックだ。絶対に何か仕掛けがあるに違いない」
ぼくは、やっとのことで声を絞り出す。
「でも」
227:月下奇人
08/04/15 22:59:22 5yECaMUV
「ぼくらを怖がらせたいんだよ! 要するに単なる嫌がらせだ。気にすることは無い」
女の笑い声が、更に大きくなった。
「くそ!」
笑い続ける電話機を、ぼくは再び冷蔵庫に押し込んでやった。
「馬鹿にしやがって……郁子、もう行こう」
「ん……うん…………」
蒼ざめた顔の郁子の腕を取り、ぼくは厨房を後にした。
脳裏に浮かぶあの女の狂気の笑いをかき消すように、勢いよく扉を閉めた。
ひとまずホールへ戻ろうと歩いていると、どこからか悲鳴が聞こえた。
「守! 今の……」
ぼくらは立ち止まり、耳を澄ます。 ―また聞こえた。
「女の人の声だよね?」
郁子は辺りを見廻している。
――女の悲鳴……。
ぼくの脳裏には、あの女の姿しかない。
山道で見かけてからこっち、あの女の顔は、一度としてまともに見ていない。
しかしぼくにはもう、あの女がどんな顔をしているのかは、手に取るように判っていた。
――どうしよう……行くべきなのか?
正直言って、ぼくは怯んでいた。
あの女にはもう、遭いたくない。遭ってしまったら、きっと、ぼくは―――。
「あっちからよ!」
郁子は、廊下の突き当たりのドアを指して言った。
―ぼくが女を助けに行くものと、信じて疑っていない。
「どうしたの守? 早くしないと!」
「うん……そうだよな…………」
ぼくは、悲鳴のする方へと向かった。
女と遭うのは怖ろしかったが、それ以上に、郁子に軽蔑されるのが怖かった。
突き当たりのドアを開けるなり、風が吹き込み、雨の飛沫が顔を濡らした。
「うわ……ここ、裏口だったのか」
額に手をかざし、真っ暗な空間をライトで照らす。
鬱蒼と立ち木や雑草の生い茂っている中、左手奥の方で、何かが光を反射した。
「温室みたいね」
郁子の言葉に返事をするかのように、再度、悲鳴が上がった。
もう、一刻の猶予もなさそうだ。
ぼくらは雨に濡れるのも構わず、ぬかるみの中を走り出した。
乾きかけていた髪には水が染み込み、靴もジーパンも、すぐに泥まみれだ。
「ねえ守。この悲鳴ってやっぱ……あの女の人のかな?」
「さあ……」
ぼくが生返事をすると、郁子は「あのね」と小声で言ってくる。
「私ね、あの女の人のこと……知ってるような気がするの」
「……おれもだよ」
「えっ?」
温室にたどり着いたので、ぼくらは話すのをやめた。
「おーい!」
声を掛けながら、温室のガラスに光を向ける――。
228:月下奇人
08/04/15 22:59:53 5yECaMUV
「うぅっ?!」
郁子が、悲鳴を押し殺している。
温室の中は真っ赤だった。また――月下奇人だ。
温室はきっと、長いこと放置されていたのであろう、雑草に侵食され、荒れるに任されている。
だが他の草花を制し、月下奇人の花は、赤く、美しく、禍々しく咲き誇っていた。
呆然と立ち尽くすぼくらの耳に、また、悲鳴が聞こえた。
―悲鳴? いや違う。これは―――。
――キィイイイィィィ……。
「あっち!」
郁子が、温室の向こう側に走り出した。
「あっ、おい!」
ぼくも、郁子を追って走った。
郁子は泥を跳ね上げ、何かに追いたてられるように走っている。
すごい勢いで温室を廻りこみ、そして、突然立ち止まった。
案の定、そこには温室の入口の扉があった。
風にあおられたガラスの扉が、開いたり閉じたりするたびに、耳障りな軋みを響かせている。
―つまり、この音が悲鳴の正体だった訳だ。
「幽霊の、正体見たり枯れ尾花……か」
ぼくは、大げさに肩をすくめて見せる。
泥の跳ねた眼鏡を拭うぼくを尻目に、郁子は、軋む扉を見つめて棒立ちになったままだ。
奇妙に思い、ふと、ガラスの扉にライトを当ててみた。
白く照り返す光の中、ドア一面に、月下奇人の花弁が張り付いているのが見える。
ぼくは眼を凝らす。
あれ? この赤は―花弁じゃない。これは、赤ペンキで書かれた文字だ。
“陏子”
確かに、そう読める。
陏子。陏子。陏子。 扉の赤い“陏子”の文字が、幾度も幾度も、寄せて、かえす。
揺れるガラスが、光を映す。
赤い色と白い光が暗雨の中に浮かび上がり、ぼくたちを、夢幻の世界に誘い込もうとしている。
風にあおられた扉が、また軋んだ。
「行こう」
ぼくは、郁子の腕を引いた。が、郁子は扉の前から動こうとしない。
「郁子!」
ぼくは、強引に郁子の腕を引っ張った。郁子はよろめきながらも、踏みとどまる。
「なんでなの…………」
小さくかすれた声で郁子は呟いた。
郁子の受けたショックは、尋常ではないようだ。
「……とにかく、戻ろう」
ぼくは他に、何も言えなかった。
ぐったりと脱力した郁子の躰を引き摺るようにして、ぼくは、屋敷へと戻って行った。
「なあ、ここって風呂場あるかな?」
屋敷の廊下で、ぼくは郁子に言ってみた。
「泥まみれになっちゃったし、洗わないと気持ち悪いじゃん」
ぼくの言葉に、郁子はぎこちなく笑った。
「そだね……探してみようか」
229:月下奇人
08/04/15 23:00:46 5yECaMUV
郁子は、未だショックから抜けきれてはいまい。
こんな不気味な場所で、あんな風に自分の名前が出てきたら―
多分、ぼくがあのスクラップから受けた以上の恐怖を感じたに違いない。
なのに郁子は、さっきのあれをもう忘れてしまったかのように、気丈に振舞って見せていた。
――郁子……君は、いつもそうだ。
ぼくの前に立ち、背筋を伸ばして歩いてゆく彼女の後姿を見つめ、ぼくは、心の中で呟いた。
郁子は自分が辛い時―その辛さが、大きければ大きいほど、それを表に出さず、
自分の中で押さえ込んでしまう癖がある。
それは、彼女が超能力を持つ故の―選ばれた人間故の、精神力の強さなのかも知れない。
でもそんな郁子の毅然とした態度は時として、拒絶の態度として感じられることがあるのも事実だ。
――もっとぼくを頼ってくれても、いいのに。
なんだかちょっと、寂しい気持ちだ。
前を行く郁子の量感あるヒップが酷く遠い存在に思われて、ぼくは少しだけ、消沈しながら歩いた。
「私の勘だとここら辺なんだよねー」
郁子は、廊下の薄暗い奥に入って、手前のドアを開けた。
開けた途端、真正面に光の輪が見えた。
「わっ……なんだ、鏡か」
そこは、浴室に続く洗面所だった。
郁子が入口のスイッチを入れると、辺りは黄色っぽい灯りに包まれた。
「さてと。ちゃんと水が出るかな……」
ぼくは洗面台の蛇口をひねった。白い陶製の洗面台が、真っ赤に染まった。
「いやあぁっ!」
郁子が跳び退った。
「落ち着けよ、ただの赤錆だ」
そう言うぼくも、一瞬、口から心臓が飛び出しそうになっていたのは内緒だ。
水道管の赤錆はすぐに流され、金色の蛇口からは、透き通った水が流れ始めた。
「郁子、先に使いなよ」
洗面台を郁子に譲り、ぼくは、浴室の引き戸を開けた。
「へえ……」
浴室は、思いのほか広くて清潔だった。
壁や床のタイルの目地には黒カビが目立つし、猫足のバスタブにはヒビが入っていたが―
ざっとシャワーを浴びる分には、何の問題もなさそうだ。
「さすがにお湯は出ない、よねぇ……?」
後ろから顔を出した郁子が、入りたそうな顔で言う。
「ものは試しだ」
郁子にシャワーを使わせてやりたい。
郁子のシャワーシーンを頭に思い描きつつ、ぼくはシャワーのコックをひねった。
バスタブが、真っ赤に染まった。
「うわあぁーっ!!」
「いや、赤錆だから……って、どこまで逃げてんのっ!」
ぼくは、眼鏡を直しつつ廊下から帰って来た。
例によって赤錆が流された後、水は澄み、やがて温かくなってきた。
「わーい、お湯だぁ」
郁子がはしゃいだ声を出す。もう空元気ではないみたいだ。 ―よかった。
230:月下奇人
08/04/15 23:01:22 5yECaMUV
「ね? 先入っていいよね?」
「はいはい」
ぼくは浴室を出た。
「あ、そうだ……守ぅ、悪いけど私のバッグ取って来てくんない?」
洗面所を出ようとした処で、郁子に呼び止められた。
「タオルと着替え、あれに入ってんのよ。ほら早くぅ。駆け足!」
つか、元気になり過ぎなんですけど。
――これじゃあまるで、尻に敷かれてる亭主みたいだよ。
なんとも情けない心境に陥りながら、ぼくは、「はい」と返事をして駆け出した。
ホールへ戻ってバッグを取ろうと身を屈めた時、足元で、何かが光った。
「なんだ?」
拾い上げたそれは、鱗だった。
CDほどの大きさの、薄桃色の鱗。ぼくは、総毛立った。
この鱗には、見覚えがある。
夜見島で、あの夜の廃遊園地で、ぼくは、これと同じものを拾った。
ぼくは眩暈を覚え、絨毯の上に膝を突いた。
眼を閉じれば、あの時のことが鮮明に甦る―――。
「私の歌の通りにして……」
あの女は、そう言ってぼくの前で歌った。暗闇の中、澄んだ歌声が響き渡った。
闇。雨。廃墟。そして――あの女。
黒髪に、濡れた瞳にいざなわれ、ぼくは、冥府の封印を解くために、迷道を走り廻った。
後から考えてみれば、あの女の言動は不審な処だらけだった。
それなのに――。
ぼくは女を疑いもせずに、ただ言われるまま、事態を悪化させる手助けをしたのだ。
哀れな美少女を救う、正義のヒーロー気取りで、ぼくは―――。
あの時のことを思い出すと、耐えがたいほどの自己嫌悪の念に囚われてしまう。
――なんで、なんで今になって、こんな……。
ぼくは、頭を抱えて床にうずくまった。
いけない。こんなことではいけない。今、ぼくの傍には郁子が―――。
ぼくが、心の苦しみに押し潰されかけたその時だった。
「きゃああぁーーーっ!」
「……郁子っ?!」
間違いなく郁子の声だ。郁子の身に何かあったのか?!
ぼくは、弾かれたように駆け出した。
「どうしたんだっ?!」
ぼくはあっという間に洗面所にたどり着き、勢いよくノブを引いた。
ドアを開けたぼくの眼に飛び込んできたものは―――。
「ひゃあああぁっ?!!」
「ああっ?! ごっ、ごめんっ!」
背中でバタンとドアを閉めた。
洗面所には、郁子が濡れねずみで立っていたのだ。
―――全裸で。
白い裸身が、下腹部の若草の黒が、網膜にはっきりと焼き付いている。
231:月下奇人
08/04/15 23:02:03 5yECaMUV
「いきなり開けないでよバカッ!」
眼を閉じて今の映像を反芻していたぼくを、郁子がドア越しになじってきた。
「イヤだって……悲鳴が聞こえたから、心配になって……いったい何なんだよ?」
「そ、それがね……シャワーが、いきなり熱湯になっちゃったの」
「ええ? なんだって?!」
「もう熱くて、シャワーのコックにも近づけないのよ」
「ちょ、ちょっと中に入るぞ」
洗面所に入ると郁子はすでに、どこからか引っ張り出したバスタオルで躰を包んでいた。
――なんだ。
ガッカリしたものの、気を取り直して浴室の戸を開けた。
引き戸を開けた途端、眼鏡のレンズが真っ白に曇った。
凄まじい熱気と湯気がムワッと襲い掛かってくる―駄目だ。これじゃあ、浴室にすら入れない。
「おれ、ボイラーの方を見てくるよ」
「ボイラー? そんなのどこにあるの?」
「さっき、それっぽいのを見つけたんだ……多分、そっちでなら直せると思う」
そう。あの温室の手前で――。 ぼくは郁子を洗面所に待たせて、裏口へと急いだ。
裏口の扉を開けると、左側の壁にライトを当てる。
――あった。
外壁の片隅に、地下への入口と思しきものが、小さな黒い口を開けている。
激しい土砂降りが続いている中、ぼくは、温室から眼を逸らしつつ、その入口へ向かった。
垂れ下がるツタの葉をくぐり、湿った石段を下りていくと――。
狭い空間で、鉛色の古びた機械が唸りを上げていた。
「やっぱりボイラーだ」
ライトを巡らすと、本体から伸びた金属のパイプが壁や天井を這い廻り、
突き抜けているのが見えた。
そのまま、眼の前の計器類も照らす。
「これは……!」
温度計の針は、一〇〇度を指していた。
震える針は、尚も高温になろうとしているかのようだ。慌てて温度調節のツマミを探す。
温度設定は―やはり、一〇〇度になっていた。
「なんでこんな……」
下手をすれば郁子が大やけどを負っていた処だ。考えると背筋が寒くなる。
とりあえず、目盛を四十度に合わせた。ひとまずこれで様子を見るしかない。
「郁子は大丈夫かな」
不安が頭をもたげてくる。ぼくは、洗面所に戻ることにした。
戻る途中、曲がり角の向こうに、白い人影がスウッと消えて行くのを見かけた。
「あれ、郁子?」
まさか郁子は、自分でホールまでバッグを取りにいったのだろうか? ―全裸で?
後を追っていこうとして―ふと、思い留まった。
――今の……もしかして、例の裸の女だったんじゃないのか?
だとしたら―どうしよう。洗面所に戻るべきなのでは?
いや。寧ろあの女を追って、ホールに向かう方がいいのでは――?
廊下の真ん中で考え込むぼくは、背後から忍び寄る気配に気が付かなかった。
立ち尽くすぼくの脳天に、重い何かが振り下ろされ―
ぼくの意識は、そのまま暗転した―――。
232:月下奇人
08/04/15 23:08:12 5yECaMUV
見ての通り、サウンドノベル作成目論見中でしたが、SCEJカウントダウンのショックから、
メインシナリオだけアップすることに決めました。
後悔はありません。
残り半分は、来週にでも持ってくるつもりです。
どなたか読んでくださる方がいると嬉しいです。
では今夜はこの辺で。
233:名無しさん@ピンキー
08/04/16 00:11:00 VrR+DX6a
頑張って下さい!正座して待ってます!(゜∀゜)
234:名無しさん@ピンキー
08/04/16 01:00:25 ZXFb+0Oq
ピンクのしおりハァハァ。
SCEJのサイトのカウントダウンしてる時計、どう見てもSIRENだよなあ。
235:月下奇人
08/04/16 09:30:00 IHnkP8PT
昨夜は来週投下するとか抜かしてしまいましたが、
3に対する期待やら不安やらで漲ってどうにも収まりが付かないので、
やっぱすぐに続きを投下することに決めました。
校正が不足しているかとは思いますが、適当に読み流してください。長いし。
出来れば3発売の前にサンノベを完成させたかった。
でも3が今夏発売となれば、どうあがいても間に合いません。
くやしい。でもビ(ry
とりあえずこれを投下した後は、PS3預金の開始&ずこーのAA探しに奔走せねばならないので、
また分岐シナリオの進みが滞りそうですが、いつの日か必ず完成させて、このスレの住人さんにお目見えしたいです。
って、こんな大騒ぎして、謎の新作が本当にさるげっちゅうとかだったらどうしよう。
いや、それはないですね。それはないですよ。ではよろしく。
236:月下奇人
08/04/16 09:31:11 IHnkP8PT
闇の中で横たわっていた、
――なんでこんなに暗いんだ……。
ぼくは、枕元のスタンドを点けようと手探りをする。
夜見島から戻ってきて以来、ぼくは、部屋の電気を消したことがない。
昼間だろうと、眠る時だろうと―外出する時だって、電気は点けたまま出て行く。
「電気代もったいなくない?」
郁子にはそう言って呆れられるが、どうしても、やめることが出来ない。
でもたった一度だけ、電気を消して眠った夜がある。
あれは、世間がゴールデンウィークに入る少し前のことだった。
その日のぼくは、三週間ぶりにアパートへ帰宅していた。
“アトランティス”がゴールデンウィーク進行なのに加え、増刊号の仕事も重なった為に、
忙しすぎて部屋に帰る暇がなかったのだ。
睡眠時間などなきに等しい状態でただがむしゃらに作業をこなし、ついに訪れた校了日。
全てを終わらせたぼくがふらつく足取りで部屋にたどり着くと、そこには郁子が待っていた。
ぼくの留守中、郁子が部屋に上がっているのは、別に珍しいことではなかった。
郁子は、忙しさにかまけて全くといっていいほど家事をしないぼくを見かね、
ちょくちょくアパートに来ては、掃除や洗濯などをしてくれていたのだ。
「ホント酷すぎ! これじゃあウジも湧かないよっ」なんて言いながら、
ゴミを出したり、繕い物までしてくれる郁子のために、
ぼくはいつも、ダイヤル錠をつけた宅配便受けに合鍵を置いていたくらいだ。
でも、校了明けに郁子が部屋に来ているのは、珍しかった。
郁子は普通、校了の当日には来ない。
ぼくが疲れ果てて帰宅するのを知って、気遣ってくれているのだと思う。
そんな郁子がその日はなぜか、大した用もないのに、部屋の隅で膝を抱えて待っていたのだ。
ぼくらは少しの間、他愛のない会話をした。
徹夜明けのぼくはハイになっていて、やたらにはしゃいで色々まくし立てたが、
途中で意識が途絶えた。
夢うつつに、郁子がぼくに布団を掛け、鍵を閉めて去って行く気配を感じた。
真夜中に眼が覚めた。
部屋が暗いのに気付き、ぼくは、半分寝ぼけながらも、枕元の灯りを点けようと手を動かした。
動かす手が、何かに遮られた。
郁子だった。
郁子が、ぼくのベッドの中にいた。
横臥していたぼくの胸に顔を埋め、郁子は、ぼくに身を預けていた。
――ああ、これは夢なんだな……。
変に納得したぼくは、郁子の背中に腕を廻した。
郁子は、ぼくがその躰を撫で廻すのに任せてじっとしていた。
ぼくが、手を服の中に潜り込ませても―
彼女の躰の、ノーマルな男ならば触れないような部分に、ぼくが指を挿し入れても―
郁子は、小さな子供のようにぼくにしがみ付いたまま、ぼくの行為に黙って耐えた。
理性その他は眠っているのに、頭の一部分だけが異様に冴え冴えと覚醒した状態で、
ぼくの手は執拗に、サディスティックなまでに、郁子の躰を玩び続けた。
そして―郁子の、消え入りそうに微かな喘ぎを聞きながら、ぼくは、再び眠りに落ちていった。
237:月下奇人
08/04/16 09:32:16 IHnkP8PT
翌朝。目覚めたぼくのベッドの中に、郁子のいた形跡はなかった。
昼ごろ布団を干しにやって来た郁子の様子にも、別段変わった処はなく、
ぼくは、やっぱりあれは夢だったのだ―。と、ホッとするような、残念なような、
不思議な気分を味わった。
それから数日が経った。
もう夢のことなんか忘れていた。
就寝前、ベッドに寝転んで本を読んでいた。
手元が暗かったので、灯りを点けようと枕元のスタンドに手を伸ばした。
手に何かが付いた。
体毛だった。細く、緩やかに縮れていた。ぼくのではない。
ぼくはそれを見つめた。見つめながら考えた。何時間も考えた。
考え続けて出た結論は、あの夜のことは夢じゃなかった可能性がある、というものだった。
そして、その時に決意したのだ。
郁子とドライブに行くことを―――。
意識がゆっくりと浮上する。
目覚めても未だ夢の中にいるような感覚。温かくて、心地良い――。
小さな水音が、ぼくの意識をはっきりと覚醒させる。
眼の前は真っ白だった。
――これは……湯気か。
ぼくはバスタブの中にいた。
なみなみと満たされた湯の中に躰を浸し―手足を伸ばして、横たわっていた。
「おれ……いつから、風呂入ってたんだ?」
天井からの雫が、湯船に落ちる。
「お風呂の中で寝込むと、風邪ひいちゃうぞ」
湯気の向こうから、声が聞こえた。
「……郁子?」
眼鏡もなく、湯気に包まれた不明瞭な視界の中、郁子の顔が微笑んでいる。
「おれ……どうして」
「ほーんと、大変だったんだから……
まもるがいつまで経っても戻って来ないからさ。廊下に出てみたら、床に倒れてんだもん。
躰が冷え切ってたから、温めなきゃって思って……ここまで運んで、お風呂に入れて……」
「そうだったのか……ごめんな」
面倒を掛けてしまった。
郁子の力でぼくを浴室まで運ぶだけでも大変だろうに、
更に、ぼくの服を脱がして湯船に入れるなんて―――
え? ふ―服?!
「郁子……おれの服を全部脱がせたってことは……つまりその、それは…………」
「えー? なあにー??」
郁子は、カランの処でぼくの服をジャブジャブ洗っている最中だった。
「つまりあの……見た?」
まあ見ただろうけど―やっぱそれは――恥ずかし過ぎる気がする。
「なーによ。今さら恥ずかしがること、ないじゃん」
郁子が立ち上がった。
相変わらず湯気が凄くてよく見えないが―郁子も、服を着ていないみたいだ。
「ああこれ? だってこの方が洗濯しやすいんだもん。ほら、服着たままだと、濡れちゃうでしょ?」
238:月下奇人
08/04/16 09:32:49 IHnkP8PT
郁子が間近に寄って来た。
白い湯気の中、腰周りの豊かなボウリングのピンのようなボディーラインが、
あますとこなく、はっきり、くっきり、徹底解明されている。
「もー、そんなにまじまじと見ないでよぉ……照れちゃう」
てなことを言ってクルッと後ろを向く。すると今度は、お尻がこっちを向いた。
ぼくの瞳孔が、最大限まで拡大する。
――さすがだ。
やはり生は、迫力が違う。
この突き出し具合、この質感、割れ目の深さ―マーベラスだ!
単に形が良いだけではない。これは、これはそれ以上の、その―――。
「ま・も・る? うふっ、どうしたの? もしかして……ムラムラしてきちゃった?」
「い、郁子……」
郁子は、悪戯っぽい笑みを浮かべて湯船の中に入ってきた。
彼女が腰を落とすと、その容積の分だけ、バスタブの縁からザァッと湯が溢れる。
郁子は、ぼくと向かい合って湯に浸かった。
大き目のバスタブとはいえ、二人で入るとさすがに少し窮屈だ。
躰が密着して、肌と肌が擦れ合って――あああ。
郁子は、じりじりと膝でにじり寄り、ぼくの脚の間に入り込んでくる。
郁子の膝に押されたぼくの腰が浮き上がり―
ぼくの陰茎の先端が、湯船からピョコンと顔を出した。
まるで、潜望鏡のように――。
郁子は、湯から飛び出た坊主頭のようなソレを、いい子いい子とばかりに撫で廻した。
沁み込んでくる快感に、ぼくは、大きな溜息を吐く。
郁子の顔が上気し、ピンクの舌が、チロリと唇を舐めた。
「元気になっちゃったね……」
硬度を増したぼくのものに指を添え、郁子は淫靡な微笑みを見せる。
「ねえまもる……こういうの知ってる? 私、雑誌で見たんだけど……」
そう言うと、郁子は、ぼくの先端に顔を寄せ―ズッポリと唇を覆い被せてしまった。
「あ……」
言葉を失ったぼくを余所に、郁子はくちゅくちゅと音を立て、ぼくの亀頭をしゃぶり廻す。
湯で温もったぼくの陰茎が、煮崩れるような快感の中に浸される。
そして更に。
郁子は先端からもっと下まで―陰毛が揺らめく根元の方まで、深く咥え込んだ。
――ずちゅっ、ずちゅっ、ずぼっ、ずぼっ、ずぼっ。
浴室中に淫らな音が反響する。
郁子の頭が激しく上下に振り立てられる。
舌が、唇が、長いストロークでぼくの陰茎を扱きあげ、そのヌルヌルと吸い込まれる感覚に、
ぼくは蕩かされ、込み上げる快感に、ぼくは、ぼくは押し流されそうになり――。
ぼくはザブンと立ち上がった。
郁子の唇から陰茎がはずれる。
直立し、へそに届く勢いの陰茎の先から、粘液が糸を引いて、彼女の唇と繋がっている。
ぼくはそれを断ち切るようにして、疼く股間を押さえる。そして郁子に言った。
「君は……誰だ?」
いくらなんでも、郁子がここまでする筈がないんだ。ぼくらは未だ―寝てもいないのに。
この郁子は、偽者だ! そう考えての発言だったのだが―――。
239:月下奇人
08/04/16 09:33:31 IHnkP8PT
郁子はぼくを見つめたまま、微動だにしない。 ―永い沈黙の時が流れる。
――もしやぼくは、見当違いなことを言ったのか?
そう思い始めた時だった。
郁子の躰が冷気を発したように感じた―と同時に、彼女の両手が、ぼくの首を掴んだ。
「ぐうっ!」
ぼくはその腕を取ろうとする。
だが郁子の腕は、物凄い力でぼくの首を締め上げる。
ぼくは首を絞められたまま、湯船の底に沈められた。
鼻の奥がツンと痛くなる。
ごぼごぼと気泡が沸き立つ湯の中で、ぼくは必死になってもがき、
締め上げる手を振り払おうとする。
―駄目だ!
どれだけ引っ張ろうが、爪を立てようが、郁子の腕はビクともしない。
このままでは、溺死してしまう!
ぼくは郁子の腕を払うのを諦め、足で彼女を蹴飛ばそうとした―が、これも無駄だった。
郁子はぼくの脚の間に躰を割り込ませているので、
幾ら足をバタつかせても、バスタブの向こう側を蹴りつけることしか出来なかった。
――もう、これまでか……。
苦しさが臨界点に到達していた。
瞼の奥が赤く、そして黒くなり、頭が、中から破裂しそうに―――。
と、そこでいきなり、締め上げていた腕が離れた。
ザアッと湯の流れる音がして、顔が、躰が外気に触れる。
どうやらヒビの入っていたバスタブが、ぼくの蹴りに耐え切れずに、ぶっ壊れてしまったらしい。
「ぐっ……げほっ、ごほっ」
ぼくは激しく咳き込んで、肺に溜まった水を吐き出す。
そんなぼくの視界の隅に、逃げて行く白い裸身が霞んで見えた。
「ま、待……て……!」
立ち上がろうとしたら、立ちくらみを起こしてひっくり返った。
ついでに割れたバスタブもひっくり返り、ぼくの躰は、濡れたタイルに強か打ちつけられる。
「痛ぇ……くっそ」
ぼくは打ちつけた肩を摩りつつ、よろめきながら浴室を出た。
すでに彼女は逃げ延びた後だった。
だが、慌てていたので躰を拭く暇もなかったのだろう。
開け放されたままの洗面所の外に、濡れた足跡が続いているのが見えた。
――あれを追って行けばいい。
着ていた服は洗濯されてしまったが、幸い、着替えの入ったバッグがこっちに運ばれていた。
郁子が運んでおいてくれたのだろうか? ―あの、郁子が?
――いや……考えるのは後だ。
ぼくは急いで衣服を身に着ける。
そして眼鏡を掛け、ライトと火掻き棒を探した。
だが、それらは無くなっていた。
やはりこれも―あの郁子の仕業だろうか? 嫌な胸の高鳴りを押さえ、ぼくは廊下に出た。
濡れた足跡は、ホールに続いていた。
しかし、徐々に薄れてゆくそれは、ホールの中央で途切れてしまっていた。
眼を凝らして絨毯の上を見つめるも、もうその痕跡をたどるのは不可能だった。
「どこへ行ったんだ……」
薄暗いホールに立ち尽くし、ぼくは溜息を吐いた。
なんだか―疲れた。ぼくは、ソファーにがっくりと座り込んだ。
前屈みになって眉間を押さえ、浴室でのことを思い返す。
240:月下奇人
08/04/16 09:34:06 IHnkP8PT
――どう見てもあれは、郁子に間違いなかった。
今度こそ間違いようがない。
あの声、あの姿――。細かい仕草ひとつ取っても、郁子以外の何物でもなかった。
ただし、あの、ぼくにした行為だけは郁子のものではない。
あんな風に、ぼくのモノを口でしたことも、その後―ぼくを殺そうとしたことも。
――いや……果たして、本当にそうだろうか?
ぼくは郁子のことを、どれだけ知っているというのだろうか?
木船郁子。十九歳。二十四時間喫茶店のウェイトレス。
郁子は、自分の身の上を話したがらない子だった。
話すとしても、他の話のついでにチラリと漏らす程度だった。
そうして漏れ聞いた彼女のプロフィールといえば―
生まれた時すでに父はおらず、母親や姉妹とも訳あって離れて暮らしていたこと。
高校卒業と同時に実家を離れ、一人暮らしを始めたこと。
人付き合いが苦手で、ぼく以外に友人らしい友人も居ないらしい、ということ。
つまりぼくは―郁子のことを、ほぼ何も知らなかったに等しい。
例えば、彼女が心の奥底に他者のうかがい知れない闇を抱え込んでいたとして、
ぼくは、それを察してやることが可能だっただろうか?
ましてや郁子は普通の子じゃない。
生まれながらに特別な能力を授けられた―神に選ばれし少女なのだ。
あの日―異世界の夜見島から帰還した時の記憶が甦る。
――また、手を離してしまった。
眼を覚まして、最初に浮かんだ台詞は、これだった。
――ぼくは、またも彼女を裏切ってしまったのだろうか?
だが、郁子はすぐに見付かった。
彼女の傍へ行き、生存も確認出来た。心底、ホッとした。
夜見島での数十時間、目まぐるしく繰り返された、出逢いと別れ。
それはいずれも懺苦に満ちて―それでも、こうして郁子だけは、連れ帰ることが出来た。
――これで、全ての苦しみが報われた……。
心身ともに疲れ果ててはいたものの、ぼくは、清々しい気持ちに満たされていた。
「きれいだな……」
昇る朝日が青い海原を照らしてゆくのを眺めつつ、後ろで身を起こす郁子に語りかけた。
郁子の返事はなかった。ぼくは郁子を振り返った。
郁子は額に手をかざし、朝日を見上げているようだった。
眩しそうに眼を細めた郁子――不意に、その横顔が、霞んで見えた。
「……おい!」
ぼくは、郁子の肩を掴んで揺さぶった。
何故だか、途轍もなく不吉な予感に苛まれたからだ。
「え……あ、私…………」
ぼくの呼びかけに、郁子はハッと夢から覚めたような表情になった。
「大丈夫? だいぶ疲れてるみたいだね」
241:月下奇人
08/04/16 09:34:49 IHnkP8PT
「うん……平気。ちょっと、ボーっとしちゃって……」
郁子は、相変わらず眩しげに朝日から眼を背けていたが、
もう、最前のような危うい気配を発してはいなかった。
――よかった。
ぼく自身、何にホッとしているのかは判らなかった。
それでも、かけがえのない何かを守れたのだと確信していた。
尚も朝日を眩しがる郁子を伴い、歩き出しながらぼくは、
今後も、彼女のことを見守り続けたい。という静かな意志を、心の奥底に感じつつあった――。
だが、そんなぼくの意志も、結局はただの独りよがりに過ぎなかったのかも知れない。
今夜のことを色々思い返してみると、そんな気持ちが沸き起こってくる。
考えてみれば彼女は、最初からぼくとの関わり合いを避けていた。
夜見島でぼくの危機を救ったあと、自らテレパスであることを明かし、
畏れを抱いたぼくが手を離した隙に立ち去って行った。
島から戻った後も、同じ病院に入院していたにも関わらず、彼女はぼくに連絡先も告げず、
先にさっさと退院しようとした。
ぼくは、間一髪のところで郁子を捉まえた。
彼女は、これからの身の振り方について悩んでいる様子だった。
無理もない。彼女のバイト先の船はもう、無くなってしまったのだから。
「とりあえず三逗港の近くで別の仕事を探す」
と言う郁子に、いっそ東京に出て来ないか? と、ぼくは思い切って切り出してみた。
他人が苦手なら、むしろ人同士の繋がりが希薄な都会の方がいいだろうし、
何より、夜見島の傍からは、離れるべきなのではないか?
郁子は、ぼくの助言に若干心が動いたようだった。
でもハッキリとした返答はなかった。
ぼくは、あえてそれ以上は押さず、彼女に自分の名刺だけを渡した。
「何か、ぼくで力になれることがあったら……」と、言い添えて。
名刺の裏にはあらかじめ、プライベートな携帯の番号とメアドも書いておいた。
しかし、彼女の方から連絡を取ってくることは、無かった。
郁子の消息を気にかけながら過ごし、半月ほども経った頃だろうか。
深夜、会社帰りに立ち寄った喫茶店に、郁子はいきなり現れたのだった。
ミニスカートの、ウェイトレス姿で。
「いらっしゃいませ。お客様、お煙草お吸いになられますか?」
「あ……いやあの……すいません、吸いません……」
「ふふっ。じゃあこちらへどうぞ」
これが、ぼくらの再会の第一声だった。
あの時ぼくは、郁子がぼくに打ち解けてくれたものとばかり思っていた。
でもあれはひょっとすると―たまたまだったのではないだろうか?
たまたま、あの喫茶店に勤めることになり、たまたま、新居に選んだアパートが、
ぼくのアパートの近所だったのかも――。
ひょっとするとぼくは、郁子にとって邪魔な、疎ましい存在でしかなかったのだろうか?
―殺してしまいたいと、思うほどに?
――馬鹿馬鹿しい!
242:月下奇人
08/04/16 09:35:24 IHnkP8PT
ぼくは両手を髪の毛の中に突っ込み、グシャグシャと掻き廻した。
自分が酷くナーバスな状態に陥っているのは、判っていた。
判っていながらも、次から次へと、嫌な、考えたくない妄想に耽るのを、止められないでいる。
だって、仕方がないじゃないか。ぼくは―ぼくは、好きな女の子に殺されかけたんだから!!
頭を抱えるぼくの背後で、扉の開く音がした。
「守?!」
振り返ると、ホールの右の階段の向こう側―
水槽の横にあった扉の中から、郁子が姿を現していた。
「守、こんなトコに居たんだ……随分捜しちゃった」
「郁子……」
郁子はぼくに駆け寄ってきた。心から、安心した表情で。
ぼくは立ち上がり、郁子の姿を見つめた。
郁子は新しい服に着替えていた。
黄色のタンクトップに、裾を折り返したブルージーンズ。
真正面に立った郁子を見下ろし、ぼくは、惚けたように立ち尽くした。
郁子が着替えに持って来ていたのは、一年前、夜見島でぼくらが出逢った時に来ていた服だった。
「なあに? そんな、変な顔しちゃって」
郁子は、少し照れ臭そうに微笑んだ。
そうか。そうだったんだ。今日は―――。
「郁子、その服……まだ持ってたんだ」
気持ちとは裏腹に、ぼくの口は、酷く間の抜けた言葉を発していた。
でも郁子は気にすることもなく、いつもと変わらぬ明るい笑顔を見せてくれた。
「そりゃあ、私は貧乏なフリーターだもん。まだ着られる服を、そう簡単には捨てられないって」
「満面の笑みで言うことじゃないだろそれ」
ぼくは、思わずつられて微笑んだ。
「でも、よかったぁ。守、私がこれ着てたら嫌がるかもって、ちょっぴり心配だったの」
「そんな……どうして?」
「だってさ……この服見たら、思い出すでしょ? 夜見島のこと」
「そうだね。思い出す」
郁子は、悪戯を見つけられた子供のように、上目遣いでぼくを見た。
その仕草がなんだか可笑しくて、ぼくは、更に微笑んだ。
「あれから……ちょうど一年経ったんだな」
そう。日付の変わった本日八月三日。夜見島事件から、きっかり一年が経過したのだ。
怖ろしく、忌まわしい記憶。
郁子の黄色いタンクトップを見ていると、あの時の出来事が昨日のことのように甦って来る。
でもぼくは今、何の恐怖も不快さも感じてはいない。
「きゃっ……な、何よ?!」
ぼくは―郁子の躰を力いっぱい抱き締めていた。
多分いつものぼくなら、こんな事はしない。ぼくはこれでも、割と慎重な性質なのだ。
でも今は―今だけは特別だ。
「郁子……ごめんな」
ぼくは郁子を抱き締めたまま、郁子の後ろ頭に向かって呟いた。
郁子はさすがに身を堅くしているものの、抗うことなくぼくに身を任せていた。
「何なのよもう……」
243:月下奇人
08/04/16 09:38:11 IHnkP8PT
郁子はふて腐れた口調で言い、それでも、ぼくが抱き締めている肘から下を上げ、
ぼくの背中を労わるように軽く摩った。
――これが、郁子なんだ。
郁子の華奢な肢体を、温度を、鼓動を、全身に感じながら、ぼくはそう思った。
さっきまでぼくを支配していた彼女への疑心は、もう跡形もなく消え去って――。
いや、少し違う。
ぼくが郁子の全てを理解出来ていないのは、相変わらずだ。
浴室でぼくを手に掛けようとした、あれが郁子の本心でないという保証は、どこにもない。
――でも。それでも。
「ねえちょっと……苦しいよ」
郁子が、かすれた声でぼくに言う。
そりゃあ苦しいだろう。
何しろぼくはいっさい手加減することなく、全力で彼女を抱き締めているのだから。
それでもぼくは、郁子を抱き締めるのを止められないでいた。
こんなぼくのことを、彼女はどう思っているのか――。
でも、郁子の中の、ぼくに理解できない部分も含めて―ぼくは、郁子が好きだ。
「ごめんな」
もう一度謝罪の言葉を繰り返し、ぼくは、郁子のうなじに顔を埋めた。
「守。私ね、守に見せたい物があるの」
ぼくが落ち着くのを見計らい、郁子が口を開いた。
郁子は、ボイラーを見に行ってから、待てど暮らせど戻って来ないぼくに痺れを切らし、
浴室を出て屋敷内を捜し廻っていたのだという。
「で、色んな部屋を見て廻ってたんだけど……途中で、ちょっと気になる物を見つけたの」
「何?」
「うん。それはまあ、見れば判るから」
そう言って郁子は、ぼくの腕を引いた。
「ちょ、待ってくれよ」
ぼくは、ちょっと困惑して郁子の手を引っ張り返した。
彼女の態度が、どうにも腑に落ちなかったのだ。
ぼくの行方を捜していたのなら、まず真っ先に、ぼくが一体どこで何をしていたのか?
と聞きたくなるのが人情というものではないだろうか?
なのに郁子は、その件を一切スルーしているのだ。
それに―浴室からぼくを捜しに出たと言うが、その時点で郁子のバッグは、
まだこのホールに置いてあった筈だ。
つまり郁子は、素っ裸のままで浴室を出てきたことになる。
これは少々、不自然なことに思えてならない。
「郁子」
とにかく、もう少し話をするべきだ。ぼくは郁子の腕を取った。
そして、ぼくは見付けた。
ホールのぼんやりと薄暗い照明に浮かび上がる、白い腕。
その腕に痛々しく残る――無数の引っ掻き傷。
郁子はぼくの目線に気が付くと、ハッと青ざめた表情でぼくの手を振り払った。
ぼくは、チラリと自分の指先に眼をやった。