10/10/30 13:09:04 cKQYQ40r
>>44
>表現の自由の権利が存在すれば、その表現に反対する自由の権利もある
>表現するという行為には、それに常に社会的責任が課せられるもの
その問題は、よく議論として出されるんだけど、論理的に回避するのはそんな難しくない。
J・S・ミルの有名な、「他者の権利を侵害しない限りにおいての自由」という定義は、
「自由を侵害する自由はない」と読み替えてもいい。
自由な状態を維持するためには、自由を侵害する自由をいかに排除するかという問題が常に付きまとう。
「法」と「自由」という一見相反するものが理念として近いというのは、この理由による。
表現の自由に関しても、同じことが言える。
表現が他者の権利や自由を直接侵害する場合なら、自由の自己否定を回避するために、
表現の自由を制限する正当性が生まれる(プライバシーの権利や名誉権の保護はその最たるもの)。
それでは、「表現の自由を否定する表現」はどうだろうか?
これもやはり、表現にとどまる限り、認められなければならない。
しかし、そうした表現が力を得て、多数者の同意を得たときに、「行為」に移すことは正当化されるべきだろうか?
ここで、最初の論点に戻る。
つまり、他の「行為」に関しては、民主主義社会において、多数者の同意があるならば、実施されてしかるべきだけれども、
表現を排除するという「行為」に関しては、その正当性の根拠である多数者の同意形成のプロセス自体が無効化されるので、
けっして肯定することはできない。
つまり、ある表現を排除したいという欲求はその表現に対するカウンターとなる表現でしか自由主義社会では許されない、ということになる。